泣きながら、撤退同盟

このブログの半分は、薄情でできています。。。

ららららい!

2018-01-23 | paradaise weekend!
たとえば、『ゴースト-ニューヨークの幻』を見て、
「なんだこのご都合主義映画は!!」って思うような人は見ない方が良かったのではないだろうか。


というわけで先週末、こども(小6)と一緒にDVDを見て居ました。
「Mステ(ミュージックステーション)」の放送も無く、金曜ロードも何万回目の『カリオストロの城』でストーリーの端から端まですべての台詞を覚えているので見る必要も無く、映画が嫌いな妻もいなかった!
という3条件がそろったからなのですが。。。。


で、何を見たかというと、今更なのですが、去年のアカデミー賞などの賞レースを騒がしたアレです



こ、これは。。。。



初見でみました!
『ララランド(LALALAND)』です


LA LA LAND ラ・ラ・ランド〜ラストは選ばなかった未来か、起きなかった未来か?※ネタバレあり : Rucca*Lusikka

あと、ラ・ラ・ランドには時代のよくわからなさってのがある。

もちろん映画の中にスマホも出てくるし、ミアの乗ってる車はプリウスなので舞台は「今」なわけだけど、セブが乗っている車はオープンカーのアメ車?でちょっと古臭い。家で聴くジャズもアナログレコードだ。ミアの着ている服もあまり今っぽくなくドレスは皆レトロなデザインだ。

スマホもほとんど「電話」として使われている。「インターネット」はあまり出てこない。

映画館もシネコンではないしプラネタリウムも少し古臭い。

なのでスマホとプリウスが出てなければいつの時代なのかよくわからない。でもその時代の曖昧さが二人の5年間の空白のリアリティに必要だったのかもしれない。

スマホがあってSNSのある時代、別れた相手の消息はググればわかってしまう。連絡だって取ろうと思えば取れてしまう。共通の友人がいたらイヤでも目に入ってしまう。

この映画の「美しい装飾」のなかに、インターネットはそぐわないものね。

だからラストの「すれ違い」が表現できるという。。。。


印象としては

  1. いやぁ~!ものごっつ「ハリウッド」やったわぁ~良いとか悪いとかじゃなくて、「これがハリウッド映画」って感じのハリウッド映画。小難しいこと何にも考えんと、パッと始まってパッと終わる感じが、やっぱりハリウッド!腐ってもハリウッド!!
  2. プリウスって、やっぱ米国でバカ売れしてんだな!!
  3. ヒロインを「物凄い美女」にしない、冴えない感じの女性にしたのはさすが!日本のドラマだったら、絶対かわいい売れっ子女優がやるに決まっている
    (もちそんこれには、演技の力+メイクの力の差ってのもある)
  4. あ、こういうラスト。。。。
  5. この映画って実質『All That Jazz』だよねw

一緒に見ていた小6の娘には、ハッピーエンドで無いこの終わり方は、たいそう不満なご様子でしたが


いい評判悪い評判ある中、
菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね:リアルサウンド 映画部

 この「座りの悪さ」「すっきりしない感じ」は、ジャズとミュージカルの微妙な関係なんてどうだって良いね、胸さえキュンキュンすれば。という善良な人々=90%の観客には可視化さえされない。知り合ってすぐにエマ・ストーンはライアン・ゴズリングに言う「私はジャズなんて嫌いだから」。大問題だ。どうするゴズリング。彼はジャズクラブに彼女を連れて行き、ジャズのライブを見せながら解説する。「ジャズは耳だけで聞くものじゃない。目で楽しむんだ(懐石料理かよ! 笑)。」

 このシーンで、どうやら(としか言いようがないのだが)エマ・ストーンは一発でジャズ開眼するのだが、移入できた人いますか? なんだろうかこの、チャゼル流の、ジャズに対する不感症的な、しかし奇妙な情熱は。

映画の中のヒロインであるミア(エマ・ストーン)は、「ジャズに開眼」はしていないと思う。なぜなら作中で描かれているのは、
「ジャズに惹かれていくミア」ではなく、「ジャズを熱心に語るセブ(ゴズリング)に惹かれていくミア」
なのだから。

それを指摘したのはこちら
ミアのこと(ラ・ラ・ランド)(内容あり注意) : torinikugobouのブログ

結論から言うとミアは、「相手に敬意を払い相手を尊重するやさしさを持っている。優柔不断に見えるが、実際は自分を曲げずきっちりかたを付ける人物」。

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しかし、それぞれを深く読み取ろうとするならば、「彼女は自分も大切にするけれど、まずは相手を受け入れることを優先する。しかし結果を他人のせいにして責め立てることは、しない。すべて自分の判断、自分の行動の結果と納得し、対処する人間」だと思える。

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②では、女優志望という観点から「脚本家」という立場にある人間を無下にできない部分もあるかと思うし、下手に対処すると激高した男性による暴力や犯罪につながるという可能性を視野に入れているのかもしれない。でも一番高い可能性は、セブを待っていたからその場を離れられなかったという理由。なぜなら、女友達に紹介された脚本家とその場では多少言葉を交わしたが、パーティーの最中はほぼフリー状態でいたからだ。一日中「脚本家」から逃げられなかったわけではない。つまり、その場にいたのは彼女の意志。

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つまり、彼女は優柔不断ではない。忍耐強く、優しいが、自分をしっかり認識している人物だ。

しかしセブは、ミアを表面的にしか見ていなかったのではないか。
ハイウェイでの失礼な態度、レストランでの暴力、それでもなお自分の前に現れかかわってくるなんて、「どれだけひどい目にあっても自分から離れずついてきてくれる
女性」というように。
そして、①から③を表面的に見れば彼女は「優柔不断で自分のことを自分で決められない弱い人間」と受け取れる。
実際、②で困っているミアを、セブは助けることができた(と、セブは思っている)。
あらゆるものから否定されているように感じているセブにとって、自分が御することのできる存在は、何より欲しいものだったのではないか。無意識のうちに、自尊心を保つための存在として。
セブが、パーティー会場目の前にある自分の車を通り過ぎてミアをずっと送って行ったのは、それまでの「お前ら全員敵だ」という感覚から「彼女は僕を傷つけない(頼ってくれる!)」という認識の移行があったからだと思える。

ミアは、とりあえず、相手を受け入れる人間だ。だから、セブのような「慢性的に他人に否定される人生」を送ってきた人間は彼女を特別に感じた。
話を聞いてもらえる。自分を肯定してもらえる。何かすれば喜んでもらえる。

しかし、彼女は自分を犠牲にする人間ではない。セブの要求が「理不尽な言葉の暴力の受け入れ」として表現されたとき、ミアはすべてをおしまいにした。
その後、セブを責めるシーンはひとつもない。気遣い、説明し、それでも攻撃を受け続けたから去った。それだけだ。
すべてを他者のせいにして怒りをぶつけるセブとは、根本的に思考・行動が異なる。

自分に責任を持つミアと、自分の責任から目を背けるセブ。
でも、それじゃ、どうしてミアはセブに惹かれたんだろう。




もひとつ。
悪くはないが、要所要所でイラっとする~『ラ・ラ・ランド』(ネタバレあり) : Commentarius Saevus

 キャラクターの造形にも関わってくるのだが、脚本はかなり薄っぺらい。まず、冒頭でセブの家にいきなり女がいて、いちおう会話で姉だろうとはわかるのだが、なんでいきなり家に入ってくるのかとかほぼ説明がない。さらに映画館で映画が見られなくなった後にグリフィス天文台に行くのは意味がわからない、というか夜の10時に天文台が開いてるわけないし、個人的な見解で恐縮だが夜中にあんなところでうろうろされたらたまったもんじゃないと研究者目線でヒヤヒヤしてしまった。さらにミアが最後に受けるオーディション、事前に脚本を作らない映画だと言っていて、マイク・リーみたいな監督の映画なのかな…と思うのだが、そういう映画でほとんど経験のないミアみたいな役者を雇うかな…


日本のドラマの説明の多さ、自己主張する登場人物の多さが影響するんだろうなぁ~と。
だったら作中なぜパーティーのBGMに、バンドはあの場所に似つかわしくない、なつかし名曲であるa~haの「take on me」を歌っていたのか。どうみても選曲は似つかわしくない(あのバンドがそれしか歌えない!という設定ならわかるが
ならなぜあの場所で「take on me」なのか!というと、どう考えてもオッサンなら誰でも知っている「take on me」のPVからのイメージである挿入(いわゆる「ネタバレ」)であるという作者の意思表示であろうに!っと。

物語の進行が全体的に、『古き良き往年のハリウッド映画』などのオマージュであるということは
よく見ればわかることかとおもうんだけどなあ~
(例:『ララランド』がオマージュしたミュージカル映画とのシーン比較 : アートコンサルタント



面白いと思った論評の一つに、
映画「ラ・ラ・ランド」ネタバレありで徹底解説 ラストの解釈は? エマストーンのドレスの色の意味:Machinakaの映画夢日記

はい、エマストーンの服装に着目してみれば、映画の全ての動きが追えるでしょう。
まずは映画前半の服装。特に春・夏の季節ですかね。エマストーンはやたらと派手な服装をしていますね。
夢を持っている時は、鮮やかな色の服。夢を見ることを止め、現実に縛られた状態の時は地味な色の服を着ているのです!

まだこの時は、エマストーン\( ¨̮ )/ハリウッドに夢を抱いていた時代=実際のハリウッド映画も絢爛豪華な時代を象徴してるんですね。だからエマストーンは50年代のミュージカルの、非常に派手な衣装を着ているのです。

そして季節は秋になり、ライアンゴズリングはジャズで成功を収めつつある中、エマストーンはオーディションに落ち続けている時。
彼らの夢の目標達成度は、エマストーン<ライアンゴズリングとなっている。
その時の服装は、、、、

どんどん私服に変わっていき、服の色の鮮やかさを落としていくのです! 後半は、ドレスを着る機会がなくなっていく、、、、つまり、夢を見ることを止めていく過程を、服で表現しているのです!!!

そして5年後の冬のシーン。
最後は鮮やかさを一切無くし、真っ黒なドレス。

高級なドレスだろうけど、エマの顔は曇ったまま、、、つまり夢を諦め、現実を見つめるだけのツマラナイ女になってしまった、、、、

ララランドに入る資格もない、現実的な色になってしまったのです。


なるほど。そういう見方もあるのか~、と


La-La Landの意味・用例:アルク

  1. (米俗)〔麻薬や酒に酔ったときに味わう〕陶酔境、恍惚、我を忘れた境地◆La-La Landとも表記される。
  2. (米俗)ハリウッド、ロサンゼルス◆ロサンゼルス全体を指すこともあるが、特にハリウッドについて使われる場合が多い。


ララランドって、(俗語だけど)ちゃんと昔からある言葉なんですね。

映画の中でしかない言葉かと思っていましたよ

それにしても、意味。。。。



『ラ・ラ・ランド』感想 〜夢をみて、叶えるということ【ネタバレ】 : しのの雑文部屋

この映画で唯一強烈なのは高速道路上で行われるオープニングのミュージカルでしょう。ただそれも、あのミュージカル自体がもつインパクトというよりは、いきなり作品世界に連れ込まれた感覚としてのインパクトでした。実際、映画的な見方をすれば、あのシーンの役割は「この映画はミュージカル映画ですよ」ということを観客に知らしめ、その世界に一気に引き込むことであり、これから始まる夢追うふたりの物語を予感させることでしょう。

つまりこの作品のミュージカル、確かに「いきなり歌って踊りだす」ものであるとはいえ、そこまでぶっ飛んだことをやっている印象もないのです。むしろどれもドラマパートからシームレスにつながり、登場人物の感情表現や物語を展開させる装置として非常に「地に足の着いた」感じで利用されています。「タダのお気楽ミュージカルではない」のです。

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つまり、この映画における「ミュージカル」は夢(虚構)そのものではなく、「夢見心地」を表すもので、むしろ現実の延長上にあるものなのです。

運命の人を求める期待感、夢を追い続ける不安感、恋に落ちたときの多幸感……そんな強く溢れ出すような心の動き。「いきなり歌って踊りだす」のではなく、「自然と歌って踊ってしまう」のです。

実際、デイミアン・チャゼル監督も「ミュージカルは、夢と現実との間の綱渡りを表現するのに適したジャンルだ」と言っています(パンフレットより)。決して「夢そのもの」ではないのです。

■この映画における「夢」

「夢」という単語を辞書で引くと、色んな意味が出てきます。「将来実現させたいと心の中に思い描いている願い」「現実を離れた甘美な状態」「実現の可能性のない空想」……。『ラ・ラ・ランド』という作品において「夢」というのは一つのキーワードですが、では描かれているのはどの意味での「夢」でしょうか。私はあらゆる意味での「夢」が描かれていると思いました。

この映画は基本的に「夢追い人」の物語です。ミュージカルやジャズ、ミアとセブの恋愛などは、その物語を飾るものに過ぎません。それは、まず何よりも『LA LA LAND』という題が示しています。

つまり、この映画は「夢の国」であるロサンゼルスにスターを目指してやってくる者たちの話なのです。これが「将来実現させたいと心の中に思い描いている願い」ですね。それを象徴するかのように、ミアとセブはロサンゼルスへ向かう車で渋滞した高速道路で出会うのです。

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この映画に感じていたある種の違和感、すなわち「ミュージカル映画にしては、非常に地に足の着いた感じ」というのは、まさにここにつながってきます。つまりこの映画、ロマンチックな外見とは裏腹に非常に現実的なことを言っているのです。それは、「夢を叶えるとき、代わりになにかを諦めなければならないことがある」ということです。ミアとセブの場合、それは互いの関係でした。ここにきて二人の特殊な恋愛関係の意味も分かります。彼らに夢を叶えさせる場合、ゆくゆくはそれぞれに何かを捨てさせなければならない。そう考えたとき、プロット的に最もシンプルで映画の雰囲気にもあうのが「ふたりを恋仲に設定し、その関係を捨てさせる」という展開だからです。これこそがまさに夢の代償でした。

その象徴的なシーンが、昼間のグリフィス天文台の前で二人が会話するシーンです。夢を叶えるために、二人は別れなければならない。「昼間にここに来るのは初めて」というミアのセリフが示すとおり、もはや彼らを包み込むマジックアワーはありません。「酷い景色だ」というのは、これから彼らを待ち受ける厳しい戦いと、彼らの永遠の別れを想像させます。しかし、彼らは最後にこう交わします。「いつまでも愛している」と。前述の通り、この映画において「ふたりの愛」イコール「ふたりの夢」でした。つまり、これはたとえふたりの仲が解消されても、互いを想いあい、夢を追おうとする気持ちはいつまでも失われないということを意味しているわけです。


超有名なこの映画のOP


よく見ると、主人公の2人は一切出てこない
(まあミュージカルにはありがちな設定ではあるんですけどね)

現実の延長としての「夢のような空間」というと、
どうしても『オールザットジャズ』を思い出すのですが、

ラ・ラ・ランド監督のデミアン・チャゼル撮影秘話 : 知りたいを増やすエトセトラメモ

ラ・ラ・ランドはハリウッドを意味します。
成功するためには何かを捨てるという事でも
監督自身、芸術家を目指すうえで奥さんと別れているそうだ。
元々奥さんと、この映画の着想があり
エグゼクティプ・プロデュースとして名前もクレジットされてます。

また自分が愛した名作映画に影響されオマージュとして様々なシーンに織り込まれている。
例えば、1979年度作品、オールザットジャズ(ALL THAT JAZZ)の中での
コーヒーを飲むワンシーン
1977年度作品「ニューヨーク・ニューヨーク」
ストーリーとキャラクターベースは
この映画と通じるものがあり
過去にハリウッドを目指したミュージカルを
このララランドに、差し込むよりも、流れるように入ってます。

また、アカデミーのレッドカーペットのインタビューでの質問では

Q:   カメラワークの長いショットはどういう効果をねらったのですか?
監督: 臨場感を与えたかった。
   観客がその場にいるかのように、長回しをし
   リアルタイムの雰囲気感や、わくわく感が生まれると思いました。
また、監督はこんな事も話しており
監督:「自分の夢を追う」ことがテーマで
夢が届きそうになくても理想を追い求めるんだ。
夢が叶うかどうかは関係ない。
追い続けること自体が素晴らしい。と

そんな監督のデイミアン・チャゼルは、高校時代より音楽を目指したものの挫折
そのあと、ハーバード大学経て幼少の頃から好きだった映画の世界へ
初監督作品のセッションよりも前にミュージカル映画を長い間
温めていていたそうです。
たとえば「雨に唄えば」など、往年の名作は、僕の映画の世界を教えてくれた。

また、エマ・ストーンは、監督について、
「明確なビジョンと、情熱を持ちつつも監督はみんなの意見も聞いてくれる。」
と印象を話している。



というわけで、
どちらかというと、「私小説」に近いかもしれませんね。

EDのアン・ハッピーエンドから、
『君の名は。』以外の新海誠作品との類似を指摘する方も多かったですね



まあ、肩ひじ張らないで、楽しく見ることの出来る映画でした。
こういう「如何にも大衆映画」っていう感じの映画を作れるところが、やっぱりハリウッドの素晴らしいところだとは思いましたよ。

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