泣きながら、撤退同盟

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WWJD?

2007-11-22 | クリスチャンらしい話です
先日、あっちで
いい人に関することの考察を書いたので

今度はこっちで
その、クリスチャン的研究論をば。



教会の中にいると
誰かしら他の人に対して親身になってあげる
ということは
半ば強制的事象かのように印象付けられることが
度々ある。


たとえば、
見も知らない
会ったこともない人のため
または、一度も行ったことのない場所のために
熱心に祈るように勧められることがある。


まぁ、
残念ながら教会生活が長いので
それらしく繕って
その見も知らない人のために祈ることも
よくあったりする。


しかし、
知らないものは、
しらない。

本当にその人のために
その場所のために
親身になって考えてあげることなんて
できないものは、出来ない。
だって、わかんないんだも~ん



わたくしめ、
実はブログを4つ持っているのだけれども、
その1つ、
気になる記事をクリッピングするだけのブログ
どうでもいいです、の話の中に
玉石混交、さまざまなニュースを載っけているんだけど
その中で柱にしているのが

あたりなんだけど、
特にダルフールの話題なんて
興味がなければ何の興味もわかないし、
へぇ~
で終わってしまう話題だと思う。


興味がない人間に
興味を持ちなさい!!とは
言いたくてもいえないので、
すこしづつでも
興味を持って、くれないかなぁ~
としか言えないと思う。


親身になって、
その人のために何かを為す
ということは
その人を知らないと出来ないし、
また
その人のためにしてあげているという思いが続く以上
本当はその人のために何かをすることなんてできないのではないのでしょうか。


ロシアの作家、チェーホフの
ワーニャ伯父さん

読まれていた方、いらっしゃいます?

この最後の私がこんなにしてあげたのに!!というところ
すごく共感した覚えがあります
高校生の頃。


してあげたのに!!というのは
自分が中心の考え方でありますし、
少なからず見返りを期待する向きもあると思います。


聖書に書いてある「してあげる」というのは
見返りを求めないこと。
まるで、
親鳥がヒナを育てるような。



分からなければ、分かるようにしようとする努力
(物事を色々知って、自ら判別する努力)は必要だと思うし、
知った以上は、自ら動くべきだとおもう。


でもここで大事なのは
「してあげる」のではなく、
「するのが同然でしょ」で動くことが求められているのだと思う。

それが例のWWJDなんだとおもう。


「なにかしてあげる」
ということは特別なことではなく
当たり前に転がっていることである
ということに気づく人と
そうでない人とがいる。


「勘のいい人」なんていうのは
そのことに誰にも言われずに気がついている人だと思う。


それも大事だし、
もしあなたがクリスチャンなら
それと
WWJD=What would Jesus do? 「キリストだったらどう考えた」
と言う視点で考えることできるし
積極的にそうすべきだと思う。


と言うのが
この話しのまとめです。















今日の話のまとめ
知らない →おしまい
知ったなにもしないおしまい
どうしたらいいか考えるかんがえないおしまい
具体的に動いてみる動かないおしまい
積極的に
動いてみる/
 しょうがなく
動いてみる
べつに、
当たり前だと
思ったから
なんだよ、
おれにそれしか
ねぇのかよ

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (にゃにゃ)
2007-11-22 17:49:22
WWJD・・・
いつも心に持たないとね。
歩みがずれないように・・・
返信する
でも、それが (umiusi45)
2007-11-23 23:37:52
汁→行動する、の次にくるものが
WWJDだと思う。
一番最初にWWJDが来るのは
間違いだと思う。

と言うのは付け足しね。
返信する

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