角田市(H2ロケットを作ったらしい)を抜けて山側から海を見渡せる一本道を走りました。途中津波で破壊された家が並ぶあたりになると人がいない。気づくと常磐線山元駅まで来ていました。
言葉を失うとはこう言う事なのか。パンダ夫と会話も無くただひたすら町並みを見つめていました。おそらく考えていた事は同じだと思います。人々の生活が、日常が3月11日から止まったままでした。駅のそばの保育園。その献花台に手を合わせた時胸が押しつぶされそうでした。窓ガラスがすべて抜けて遊具一つ残ってない園庭を眺めながらしばらく動けませんでした。
その日は山元町の災害ボランティアセンターがお休みなので、個人でボランティアをなさっているお寺にお世話になる事になっていました。近くまで行くとまだ7時と早いせいかどなたもいらっしゃらない。パンダ夫と近くのコンビニ(柱しかないけど)の駐車場に車を止めて瓦礫置き場を見に行ってみました。ここまで来ると、瓦礫置き場は至る所にあるのでさして驚かなくはなっていました。
海沿いの小学校。建物はキレイなのにかなりの高さまで波を被っているのが見て伺えます。このあたりになると個人宅と思われる物は土台のコンクリートしか残っていない状態なので、「ここが玄関だったのかもね?」と言う状態。ご無事だったことを祈るばかりです。
さて、お寺は普門寺と言って(偶然パンダ家と同じ宗派でした)立派なお寺。でももちろん被災して修繕中。
普門寺(テラセン)
活動ブログの中26日アップ分にパンダちょこっと写っております。
さてさて、9時集合。何をしたのかと申しますと・・・行くと物腰の柔らかい方が対応くださって「分別が大変なんです。石膏を木からはがして土嚢へ入れていただけますか。」との指示。了解とばかりに仕事にかかる。この方がご住職なんだ~やっぱりお坊さんっぽいなぁと思っていた方は実は住職でない事が後に判明する石膏はがしの後は、廃材で椅子作り。これがまた・・・パンダ自分がお嬢様とは思っていませんでしたが、サンダーも使ったこと無いし、電動丸鋸も発電機も初めて。でもここでは当たり前のように「これ使ってくださいね。」とにこやかに渡される背丈の半分ぐらいあるバールで釘を抜き(塩でさびてて抜けない)手が痒くなるぐらいブルブルしながらやすりをかける。この作った椅子は復興際の椅子として使われていました。
お寺には沢山の方が来ていました。まず大型バスに乗って団体のボランティア。揃いのビブスを来て個人宅のがれき撤去へ向かっておりました。お墓参りの方もいる。皆さん浦安からの私達をねぎらっていただきました一人、ボランティアエキスパートな方がいて、「5時間半!?近いね。おれ8時間半ぐらいで着くかな?」と尾張小牧ナンバーのプリウスで乗り付ける。
やすりがけもネコ(手押し車の事をネコと言うらしい)も使い慣れたころ、年配の男性がフラっと近くへ来て
「コロッケ。 まだあったかいから。」
とだけ言って二個入りパックを二つ手渡してくれました。まるでインディアンの様に単語だけの会話だったのですが、お気持ちが嬉しくて、とても美味しくいただきました。
さて、作業しながらも何人か声をかけていただきました。皆さん、あの日の事を良く覚えていらっしゃってお話しを伺いました。とても悲惨な状況の中「オレんとこなんかちり紙一つ残ってないよ。」と笑うオジサマの笑顔が救いでした。
朝見た小学校。低学年は車に載せて高学年は走って避難。それも後ろから迫る波に走りながらの避難だったこと。近くの老人ホームの職員が半分避難させて残りの入所者を避難させるため津波警報の中施設に20人近くの職員が戻り犠牲になったこと。南の町は集落がいくつも消えた事。私がテレビで見ていた物、それをはるかに上回る出来事でした。
「テキトーに休んでくださいね。」とのお言葉に甘えて12時きっかりに昼休みに入る。いただいたコロッケとコンビニのおにぎりを食べパンダ撃沈。30分ぐらい寝てしましました。良く大工さんが車で昼寝しているのを見かけますが納得したのでした
4へ続く
言葉を失うとはこう言う事なのか。パンダ夫と会話も無くただひたすら町並みを見つめていました。おそらく考えていた事は同じだと思います。人々の生活が、日常が3月11日から止まったままでした。駅のそばの保育園。その献花台に手を合わせた時胸が押しつぶされそうでした。窓ガラスがすべて抜けて遊具一つ残ってない園庭を眺めながらしばらく動けませんでした。
その日は山元町の災害ボランティアセンターがお休みなので、個人でボランティアをなさっているお寺にお世話になる事になっていました。近くまで行くとまだ7時と早いせいかどなたもいらっしゃらない。パンダ夫と近くのコンビニ(柱しかないけど)の駐車場に車を止めて瓦礫置き場を見に行ってみました。ここまで来ると、瓦礫置き場は至る所にあるのでさして驚かなくはなっていました。
海沿いの小学校。建物はキレイなのにかなりの高さまで波を被っているのが見て伺えます。このあたりになると個人宅と思われる物は土台のコンクリートしか残っていない状態なので、「ここが玄関だったのかもね?」と言う状態。ご無事だったことを祈るばかりです。
さて、お寺は普門寺と言って(偶然パンダ家と同じ宗派でした)立派なお寺。でももちろん被災して修繕中。
普門寺(テラセン)
活動ブログの中26日アップ分にパンダちょこっと写っております。
さてさて、9時集合。何をしたのかと申しますと・・・行くと物腰の柔らかい方が対応くださって「分別が大変なんです。石膏を木からはがして土嚢へ入れていただけますか。」との指示。了解とばかりに仕事にかかる。この方がご住職なんだ~やっぱりお坊さんっぽいなぁと思っていた方は実は住職でない事が後に判明する石膏はがしの後は、廃材で椅子作り。これがまた・・・パンダ自分がお嬢様とは思っていませんでしたが、サンダーも使ったこと無いし、電動丸鋸も発電機も初めて。でもここでは当たり前のように「これ使ってくださいね。」とにこやかに渡される背丈の半分ぐらいあるバールで釘を抜き(塩でさびてて抜けない)手が痒くなるぐらいブルブルしながらやすりをかける。この作った椅子は復興際の椅子として使われていました。
お寺には沢山の方が来ていました。まず大型バスに乗って団体のボランティア。揃いのビブスを来て個人宅のがれき撤去へ向かっておりました。お墓参りの方もいる。皆さん浦安からの私達をねぎらっていただきました一人、ボランティアエキスパートな方がいて、「5時間半!?近いね。おれ8時間半ぐらいで着くかな?」と尾張小牧ナンバーのプリウスで乗り付ける。
やすりがけもネコ(手押し車の事をネコと言うらしい)も使い慣れたころ、年配の男性がフラっと近くへ来て
「コロッケ。 まだあったかいから。」
とだけ言って二個入りパックを二つ手渡してくれました。まるでインディアンの様に単語だけの会話だったのですが、お気持ちが嬉しくて、とても美味しくいただきました。
さて、作業しながらも何人か声をかけていただきました。皆さん、あの日の事を良く覚えていらっしゃってお話しを伺いました。とても悲惨な状況の中「オレんとこなんかちり紙一つ残ってないよ。」と笑うオジサマの笑顔が救いでした。
朝見た小学校。低学年は車に載せて高学年は走って避難。それも後ろから迫る波に走りながらの避難だったこと。近くの老人ホームの職員が半分避難させて残りの入所者を避難させるため津波警報の中施設に20人近くの職員が戻り犠牲になったこと。南の町は集落がいくつも消えた事。私がテレビで見ていた物、それをはるかに上回る出来事でした。
「テキトーに休んでくださいね。」とのお言葉に甘えて12時きっかりに昼休みに入る。いただいたコロッケとコンビニのおにぎりを食べパンダ撃沈。30分ぐらい寝てしましました。良く大工さんが車で昼寝しているのを見かけますが納得したのでした
4へ続く