7~8名のチームに分かれてその日は個人宅の清掃および復旧。
私達が所属した隊は、ベテランリーダーと精鋭7人(うちパンダ夫妻のみビギナー)
リーダーに指示された道具をパンダ家の車に積み込み、各自の車で移動。発電機、バール、スコップ、土嚢、デッキブラシ、雑巾などなど。
言われるまで気が付かなかったのですが、各個人宅には色のついた旗がつけられていました。家主の要望によってトリアージされているのです。
赤瓦礫も家も撤去予定
黄瓦礫のみ撤去。家は修繕予定
緑瓦礫も家財もそのままいじらないでください。
で、伺った家は黄色の旗。仮設住宅から家主のご夫婦が家まで来てくださっていてご一緒に作業に入りました。
このお宅へボランティアが入るのは3回目?だとか。瓦礫が家の中に残る状態では無かったものの、お風呂のユニットの取り外しや、高圧洗浄と床下の泥かき、消毒液の散布とやらなければいけない事は満載です。
私はチーム唯一の女子と言うこともあって、奥様と話しながら作業をしておりました。ご自宅には猫ちゃん。なんと地震の前に家から出してくれと鳴いてせがんでそのまま津波だったのであきらめていた所、一時帰宅で戻ったら家のそばから出てきたと仰っていました
素晴らしい生命力。どう考えても一階はあきかに水没する地域です。(それでも海からはかなり離れてる)猫ちゃん泳いだのかな~キセキの猫ちゃんを見てから浦安の家に帰って太りに太った我が家の猫を見たらちょっとイラッとしました
さて水を吸った箪笥の引出が開かなくて・・・との事だったのでみんなで引っ張って開けました!なんと引出は空
大金が出てくる筈だったのに・・・と笑うお母さんがチャーミングで素敵でした。そのお母さんも震災直後は関東に住むお子様達がインターネットを使って安否を呼びかけていた事、電話も通じなくて困っていた事。色々話してくださいました。
そして何より私に堪えたのは「寒かった」との言葉でした。あの時、電気が不自由していたにしろ自分はどうだったのか?ガソリンを求めて並んだにしてもそれは本当にその時必要だったのか?考えれば考えるほどあの時の自分はどうだったんだろう?
オムツ無くて大騒ぎして、粉ミルクの水が無いとぼやいて・・・。お母さんたち東北の方々が困ってると知っていたのに被災者面して右往左往していたんだ・・・本当にごめんなさい。口に出しては言えなかったけど、お母さん寒い思いさせてごめんね。
山元町はリンゴとさくらんぼが名産だそうで、休憩時間にお母さんがリンゴをむいてくれました。庭にはダリアの花。塩を被って水没していた期間もあるのに逞しいなぁと眺めていたら、「球根は強いね。流されなかったし」と話してくれました。実は庭にはミニトマトとトマトが沢山なっていたのですが、それらは全て勝手に生えてきたとむしろちょっとご立腹のご様子。でも時々しかこられないと仰っていたのにキレイにしているお庭でした。
さて、精鋭7人。リーダーが途中お買いものに抜ける時があり、パンダ「いってらっしゃ~い。」なんて気軽に見送っていたら皆を集めて「ラジオは切らないで。大きな揺れがあったらまずラジオで情報を入れてください。そして荷物はそのままで良いので二台の車で高台へ逃げてください。」と言い残して出かけて行きました。つい忘れがちですが、用心しなければいけないのです。
作業お宅のそばにはレールもパンタグラフの柱も無くなった線路に電車がポツンと置かれていました。
解体用のバールで壁を剥がして、グラスウールと呼ばれる断熱材を取り除き、高圧洗浄機(ケルヒャー)をかける。キレイになったら消毒液を浸した雑巾で壁を拭く。そして乾かす。
和室にはお着物がまとめて置かれていました。お母さんは「捨てなきゃいけないのはわかってるんだけど・・・もったいなくてね。」と。お嬢様が小さいころ着た着物もあり、思い出話を聞かせていただきました。パンダ家も週末に七五三をひかえた娘がいる。きっとこの着物にも値段じゃない物がつまってるんだろうな。。。最終的には廃棄の所へ持って行っていましたが、それを見て私が泣きそうになりました。何しにいってるんだか・・・。
6へ続く