平成最後のツーリング 西日本2850Km ⑲ 漆黒の城「岡山城」 瀬戸内海国立公園 国の名勝・下津井『鷲羽山』
前回
動画編
平成最後のツーリング 西日本2850Km ⑱ 兵庫県の酷道R429 高野峠から志引峠 辿り着いた『宮本武蔵の里』
タイムライン
R429 酷道ルートで、「武蔵の里」へ
国道429号 - 国道を往く---国道(酷道)の実走レポート
拡幅工事なのかなぁ ❕
あれれ・・
此処まで注意を促す看板に気が付かなかったね
平成最後のツーリング 西日本2850Km ⑱ 兵庫県の酷道R429 高野峠から志引峠 辿り着いた『宮本武蔵の里』
前回
2019.9.20. 開幕戦 日本は、ロシアに快勝 ❕
チョイト外出・
インターネットで、予約が出来るんですよ
先払いで、安心だね・・初めてだったんで、ちぃと心配でしたが、
ホント・・近頃は、ネットで、パーキングの心配も解消できる
皆さん結構、、利用しているんだぁなぁ
バイクは、1H/100円 いい値段ですなぁ‥空き地利用なのに
まだまだ 暑さも残っているけど 過ごしやすくなってきました
食欲も更に増しそうです ^^! 夏場でも萎えることは無かったけど・・
丁度、12:00を過ぎたところだけど・・
帰りにしようかな・
珈琲ぐらいなら・・☕
小石川の商店街もイイねぇ ❢
今夜もTVで、盛り上がりそう・・
ラグビーワールドカップ2019(TM) | 5Gで、ラグビー観戦
今回の目的地は、
好きなエリアなんですよ
坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。
善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、
明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院と なった
「小石川區史」による善光寺の縁起
寺傳によれば、當寺の本尊は家康公母堂傳通院殿の守本尊で、傳通院殿を
傳通院内に埋葬すると同時に一宇を建立し、右本尊を安置し善光寺如来堂と
稱したのが、當寺の起源であるというそうな
澤蔵司(たくぞうす)とは天保時代、
学問を学んだとされる狐、
また、その伝承を指す
天保4年、江戸にある伝通院の覚山上人が京都から帰る途上、澤蔵司という若い僧と道連れになった。若い僧は自分の連れが伝通院の覚山上人だと知ると、
学寮で学びたいと申し出てきた。若い僧の所作からその才を見抜いた覚山上人は入寮を許可し、かくして澤蔵司は学寮で学ぶことになった
澤蔵司は入寮すると非凡な才能をあらわし、皆の関心を寄せた。が、あるとき寝ている澤蔵司に狐の尾が出ているのを同僚の僧に見つかってしまい、上人に自分に短い間ではあったが、仏道を学ばせてもらったことを感謝し、学寮を去った
その後一年ほどは、近隣の森に住み、夜ごと戸外で仏法を論じていたという
澤蔵司は僧であった頃蕎麦を好んで食べていた。澤蔵司がひいきにしていた蕎麦屋では、澤蔵司が現れた日、銭に必ず木の葉が混じるので怪しみ、ある晩店の男は蕎麦を買った澤蔵司をつけて行くと、森の中に蕎麦を包んだ皮が散らばっていたという
この出来事から店の男が澤蔵司は狐だと感づき、それが原因で澤蔵司は上人に自分が狐であることを打ち明けたと言う説もある ^^!
現在でも澤蔵司がひいきにしていた蕎麦屋(稲荷蕎麦萬盛)は残っている‽
澤蔵司が人間に化ける能力を得たのは、太田道灌が千代田城を開く際に掘り出した十一面観音像を手に入れ、それを拝んだためだと言う説もある
澤蔵司稲荷の隣には、作家の幸田露伴、幸田文、青木玉の墓地がある
坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には、坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司の魂が宿るといわれている。
江戸名所図会「無量山境内大絵図」でも描かれているとおり現存する
「椋の木」は江戸時代も傳通院本坊から澤蔵司稲荷へ続く参道の途中に存在していました
絵図によると「椋の木」の周りには「お茶屋」も有り無量山内の シンボリックな信仰の対象と同時に木の周辺は憩いの場にも なっていたようです
残念ながら昭和20年5月25日の空襲での火災で上部が焼け、
危険なため昭和30年代に2/3ほど幹が伐採されて しまいました
徳川家光の乳母として有名な春日局が命名の由来となったとされる
「春日通り」から150mほど
東京都文京区小石川にある「伝通院(傳通院)」は、徳川家康の
生母・於大の方や徳川家ゆかりの方々が眠り、手厚い庇護を
受けたという由緒ある寺院
後楽園駅から徒歩圏内で、東京ドームも近い場所にありますが、
都心とは思えないような落ち着いた空間
小石川の高台にある浄土宗の寺院で、
正式名称は「無量山 傳通院 寿経寺」といいます
江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所となっており、
「小石川伝通院」とも呼ばれます
応永22年(1415年)浄土宗第七祖了誉によって開かれた
「無量山 寿経寺」という小さな草庵から始まりました
小石川植物園・東京ドーム・礫川公園・文京シビックホールも近い
色々なイベントもあるようですね
伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院の北側にあった処静院の前に建っていたものである。石柱の文字は、修業と戒律のきびしさを伝えている
処静院は、その後、廃寺となった
文久3年(1863)2月4日、幕末の治安維持を目的とした組織ー浪士隊ーの結成大会が処静院で行われた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人
浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた
一行は文久3年2月8日、京都へと発った
年号が明治と改まる5年前のことであった
さて・
慶長7年(1602年)に家康の生母・於大の方の菩提寺となり、
第三代将軍家光の次男亀松が葬られるなど、徳川家の庇護のもと数多くの伽藍を有する大寺院となりました
慶長18年(1613年)には、増上寺の学問僧300人を伝通院に移して僧侶を養成する関東の十八檀林(僧の学問修行所)の上席となり、常時1,000人の学僧が勉学に励みました
教学の精神は明治時代へと引き継がれ、明治24年(1891)芝三縁山より浄土宗学本校(現大正大学)を無量山へ移転し、また境内に淑徳女学校(現在の淑徳SC中等部・高等部)を設立し、教学の振興と共に社会事業にも貢献しています
第二次世界大戦の東京大空襲で小石川一帯も焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失。かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去ってしまいました
昭和24年(1949年)に本堂を再建、昭和63年(1988年)には新本堂が建立され、平成24年(2012年)3月には山門が再建
第二代将軍秀忠の娘である千姫、第三代将軍家光の正室・孝子の方が眠っています
江戸時代初の心中を遂げた磯五郎・お初や、急進的な攘夷論で武装蜂起し「生野の変」の総帥・澤宣嘉、後に新撰組となる浪士隊を編成した
中心人物・清河八郎など、江戸時代を象徴する人々や、
小説家の佐藤春夫、柴田連三郎など多くの文化人のお墓があります
句碑が建立されている
“一しぐれ 礫や降りて 小石川” はせを(芭蕉)
この界隈には幸田露伴(1867~1947)・徳田秋声(1871~1943)や
島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら