真相世界(The truth world)

201108やはり古代朝鮮は日本の属国だった!朝鮮側から資料見つかる


「新羅は倭の属国」との記述が韓国の古代史研究の第1級資料から見つかる

≪韓国古代史研究の第1級資料の中の一つと見なされる梁職貢図から永遠に消えたと見なされた新羅と高句麗に対する簡略な説明の題記が最近発見された。

特に今回発見された新羅に対する題記には新羅が倭の属国という一節があっていわゆる任那日本府説とかみ合わさって論議がおきる展望だ。≫

自国の歴史改竄にことのほか熱心な韓国から、どういうわけか古代朝鮮国家の「新羅」が日本の属国であった重要証拠が発見された。

このような不都合な証拠は隠蔽してしまうのが韓国政府の通例だったのだが、今回はどうしてしまったのだろうか?
ユン・ヨング博士の安否が心配である。

今回の発見で任那日本府が実在した可能性が高まった。
また、日本書紀の記述の歴史的整合性も見直されることになりそうだ。

日本書紀

百済が日本の属国であったことはすでに複数の資料から明らかになっている。

任那

韓国では任那日本府の存在を否定する学説が主流で、教科書等でも悪質な改竄が行われている。

しかし、日本にも日本書紀の記述を神代まで事実であるように主張するバカウヨもいるが、もともと為政者による自己証明的な目的で作られた日本書紀を拡大解釈して支離滅裂な主張をする御仁も多いので、あまり韓国の妄想癖を嗤えない。

何れにせよ、古代朝鮮と日本とは民族的にも深い交流があったことは事実である。

(参照)
半万年を主張する朝鮮史の大嘘!現生朝鮮人の歴史は900年しかなかった!?

豊臣秀吉による侵略や、明治期における植民地支配などもあったが、現在、日本人と朝鮮人の遺伝子は大きく離れており、中世以降両民族の交雑が少なかったことはDNA的にも証明されている。

交通が不便であった古代の方が人的交流が多かったのはミステリーである。

外国と没交渉が続いた日本人のDNAが古代から変化していないのに対して、民族移動が激しかった朝鮮人のDNAが変化したのは当然である。

日本書紀の神代期の記述にある「高天原」が任那だと仮定すれば、記述内容の説明としてある程度合理性が発生する。同時に人口が過疎で僻地である出雲地方が古代に栄えていた理由も納得できる。朝鮮との交流に関係ありそうだ。

出雲大社の対岸の朝鮮半島の、ある場所に同様の神社があるということを聞きました

「高天原伽耶国起源説」研究会

「百済も新羅も建国当初は国内の基盤が脆弱だったので、任那に服属せざるを得なかった」と解するのは不自然ではない。

日本書紀の記述通りに解釈すれば、その後任那が日本列島にいた南方中国系の弥生人を征服し、「倭」になった可能性は高い。

日本もしばらくの間、支配者と被支配者間ではDNAに隔たりがあったと想定される。
古代貴族から近世の武士階級に至るまで、比較的長身で顔立ちは卵形、色白、一重まぶたなどの特徴を維持してきた。これらは北方系モンゴロイドの特徴である。これら支配者階級は江戸時代に至るまで交雑することが少なかったようだ。

それに対して庶民は、短身で丸顔、色黒、二重まぶたなどの特徴を有し、南方系モンゴロイドであったことを示している。
更に東日本では、顔の彫りが深く毛深い庶民が多く、これは古モンゴロイドである縄文人の特徴と一致する。縄文人は現代のアイヌ人と同一だったと考えていいだろう。

百済と新羅を服属させていた力関係を考えると、これらと同時に発生した古代朝鮮人国家ではなく、それ以前に成立していた国家である可能性が高い。

任那が朝鮮半島から消滅した後も、百済と新羅は日本に朝貢しているので、日本の支配者が彼らの宗主であったという認識を持っていたようである。
任那が消失した理由だが、新たに獲得した日本の方が豊かだったので、支配者階級の主要が移動してしまい、その後百済と新羅の姻族が相続する形になったのだろう。
ただし、歴史的資料から、新羅の日本からの離脱は早い段階で行われ、軍事的収奪もあったと思われる。

任那国を作った倭人がどのような経路で朝鮮半島の南端にたどり着いたかは今後の研究を待ちたいところである。

高天原故地碑

この学説は、一見朝鮮が日本を占領したかのような印象を与えるので、この説を支持する韓国の学者は多い。

日本神話の、神様たちの住んでる土地、高天原が何で韓国にあるんでしょうか。

韓国では古代朝鮮の歴史を改竄し、日本と同様の単一民族が続いたかのような捏造に躍起だが、朝鮮半島南端に存在したある民族が「天孫族」と称して日本を征服した、と解するのは合理的である。

天孫族が古代朝鮮人とどれくらいDNAが近かったかは不明だが、状況からして、支配者階級間では交雑が行われていたものと考えられる。

歴史改竄の背景には「民族差別」思想がある。自国に誇りを持つことは悪いことではないが、捏造してまで美化するのは醜悪である。
人種的民族的に優劣などないことは科学的にも明らかである。つまらない民族美化こそ滑稽であると同時に、偏見と差別を発生させる邪悪な温床であることを知るべきである。

m(_ _)m なお、タイトルはバカウヨと在日愛国者さんへの釣りです。



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コメント一覧

パプアニューギニア
しっかり勉強しよう🎵
適当すぎて驚きました❗
暁月
う~ん
神話を根拠に論を進めてるけど、無理ないこれ?
それと任那また、伽耶は、元は弁韓12カ国だったわけだけど、その弁韓のあった時代は「魏志倭人伝」によると、倭には二十数カ国を束ねる邪馬壹国があったんだよ(その他にも、多くの国がある)。
弁韓12カ国はそれぞれ王が居て、バラバラだったようだけど、それが二十数カ国が連合していた邪馬壹国を征服するのは、難しいと思うが。
ましてや任那が出てくる頃には ヤマト王権の時代だから、なおさら無理だよ。
因みに、『漢書』地理誌には、「楽浪海中に倭人あり、分れて百余国と為し、歳時をもつて来たりて献見したと云う」とあり、「魏史」卑弥呼の時代には「漢書」の頃に比べ、かなり政治統合が為されていた事が分かってる。
その他にも、高天原故地碑とか突っ込みどころたくさんあるけど、いちいち指摘するのはめんどくさいから後、一つだけ

>百済も新羅も建国当初は国内の基盤が脆弱だったので、任那に服属せざるを得なかった

諸国と村落の連合体である任那に、新羅や百済が服属していたとか考えられないんだが…。
寺坂国之
真実の韓
真実の韓(『氷解する古代』より)
皆さん、そもそも韓国の「韓」にどのような意味があるのか、ご承知でしょうか。
「韓」を漢和辞典で見ると、「朝鮮南部の呼び名、井桁(いげた~井戸の縁を取り巻く板の枠)」などの意味がありますが、これだけではこの場合の用をなしません。
しかしこの一字を「偏と旁」にいったん分解してみると、かつて私たちが抱いていた「韓」のイメージとは似ても似つかぬ事実が明らかとなってくるのです。まさにその様相は一変します。
それでは先ず「韓」の左側にある偏の方の意味から求めてみましょう。
そうすると「韓の偏」には「草の間から太陽が昇り、潮が満ちてくる時。日が昇るような強い力。あるいは大きい、強い」などの意味があるようです。
ということは、太陽が昇ってくるというのですから、東方の地という意味も含まれているということですね。
そして、右側の旁にあたる「韋(い)」は、「なめし皮。毛を取り去って柔らかくなめした動物の皮」という意味となっています。
全体としては「毛皮を身に着けた人が住んでいる、太陽の昇る東方の地」ということになります。私が何を言わんとしているのか、もうお分かりですね。
そうです。あの「皮服の鳥夷(ちょうい~倭人の先祖・『尚書』禹貢・冀州)」ですよ。彼らの本拠地が、この韓地、朝鮮半島の南半部であった。そのことを見事にも、この「韓」の一字が証明しているのです。
それに対して古代の中国人は現地の人々がいう「加羅」の発音から、見事にも「韓」の一字を想起し選択した。そういうことではないでしょうか。
あるいはまた、「韓」を思いついたのは倭人自身であった可能性もありますね。倭人はスサノオやニニギの時代から韓地を韓国(からくに)、その地の神を韓神(からのかみ)などと呼び、それに「韓」の字を適用していた節が伺えますからね。
本来、中国と朝鮮半島にはさまれた内陸部に存在していた朝鮮民族が、海洋の民としての鳥夷であるはずなどあり得ませんから、彼らとは関係のない時代に、半島南部は既に加羅であり韓であったということですね。
これらの事実は、そのことを如実に物語っているとともに、韓はまさに倭人にとって懐かしき濫觴の地であったということではないでしょうか。歴史って、本当に面白いものですね。
寺坂国之
韓国とは?
韓国とは(『氷解する古代』より)
魏志倭人伝においては、狗邪韓国を倭国の北岸の地としながらも、なぜ「韓」が付きまとうのか疑問を感じていました。
そもそも朝鮮半島の南部が「韓」と呼ばれ始めたのは、いつ頃のことなのでしょうか。それについてはこのような記録があります。
① 建武の初め、また來たり朝貢す。時に遼東太守の祭肜(さいゆう)は、威を北方に讋(おそ)れしめ、聲(こえ)は海表に行なわれたり。ここにおいて濊・貊・倭・韓は萬里朝獻す。(『後漢書』・東夷列伝第七十五)
 ★ 建武の初め(西暦25年頃)、東夷がまたやってきて朝貢した。その当時、遼東太守・祭肜の勢威は北の国々を恐れさせ、その名声は海の彼方にも聞こえていた。そのため東夷の濊・貊・倭・韓が万里を越えて朝献してきた。
② 建武二十年秋、東夷の韓国人、衆を率い楽浪に詣(いた)りて内附す。(『後漢書』・光武帝紀)
★ 西暦四十四年の秋に、東夷の韓国人が、多くの国人を率い楽浪郡治に来て服属を申し出た。
③ 建武二十年、韓人、廉斯(れんし)の人・蘇馬(そまてい)等、楽浪に詣りて貢献す。光武、蘇馬を漢の廉斯邑君と為し楽浪郡の属とし四時に朝謁せしめた。(『後漢書』・東夷列伝弁辰)
★ 西暦四十四年、韓人で廉斯の人である蘇馬らが楽浪郡治に来て貢物を献じた。それに対して光武帝は蘇馬を漢の廉斯邑君にとりたて、楽浪郡に服属させ、季節ごとに挨拶に来るようにさせた。
この中の①が「韓」の初出となるようです。これに少し間をおいて②と③の記事が出現するのですが、この二つは共に同一の事実を示していると思われます。
ということは西暦25年、すなわち光武帝即位の年以前のある時期から、中国はこの地を「韓」と呼んでいたことになりますね。そしてその韓の領域はこれには明確には記されていませんが、どうも朝鮮半島の南半といった雰囲気です。
紀元前37年建国の高句麗から派生したといわれる百済は、魏志・韓伝の時代(220~265年)には、伯済国という小国でした。また、秦からの亡命者がかつて主力であった新羅は、斯盧国というこれもまた小国でした。この両国はその当時、韓の馬韓・辰韓・弁辰、合計74余国のうちの二国に過ぎない状態にあります。
このようにこの両国は三世紀の半ばですらこの状態ですから、一世紀の段階におけるこの地域の主力は明らかに倭人が占めていたと思われます。
そうすると「韓人、廉斯の人・蘇馬」も鳥夷(倭人の別称)の流れをくむ倭人であった可能性が極めて強いですね。そして三世紀の半ば過ぎにおいてなお、伯済国、斯盧国が74余国中の二国という事実を直視する限り、朝鮮半島南半の大勢はあの鳥夷の末裔たちに傾いていたということですね。ただこの時点では、倭人の中心部が半島から九州へ移行していたと思われます。それでも、このような状況の中で伯済国、斯盧国が如何にもがこうとも、これでは朝鮮半島南半に対する名称の名付け親にはなれっこありません。
では韓の名称は誰が付けたのか、もう少し究明の手を加えましょう。
これについて島夷(倭人と他人種の混血)のところでも若干触れていますが、その昔にはこのような記録があります。
☆ 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。(『山海経』・海内北経の条)
※「蓋国」=今の平壌あたりを中心とする国。「鉅燕(きょえん)」=北京を中心に鴨緑江(朝鮮と中国との国境の川)の北辺あたりまで伸びていた燕国。「鉅」=巨と同意で「大きい」。
山海経とは戦国時代(紀元前四〇三年~二二一年)から秦・漢にかけて作られた中国最古の地理書です。
これで見ると、紀元前における半島の南半は倭人が居住している地域とされていますね。そうすると中国側が韓と呼ぶ以前に、現地の倭人自身が付けた国名ないしは地域名が必ずあったはずです。
どういう字を当てるかは別として、倭人はこの地、半島の南半部を紀元前の昔から「加羅」と称していたのではないでしょうか。

えぇ・・。
ほうほう。と読んでいたのに最後の蛇足で全部パアな気分にw
まぁと前置きしますが、韓国に対してはかわいそうな国と思っております。
古くは、大国中国・モンゴル等に大陸として接していたわけで、そりゃあ搾取されるよなぁと。
一方日本は、日本海を隔て悠々自適なわけですよ。
ちょくちょく来る文化をコレ大事にして育て花開き、朝鮮では育てる前に主君たる大国の王が入れ替わったり国が入れ替わったりでそれを強要されると。
そんなこんなで独自の文化と思想を元に列強に追いつこうと自由に動ける日本とガンジガラメの朝鮮そら昔っから羨ましかったでしょうね。
んで、唯一日本に対する強みは悲しいかな「中華思想」の枠組みの第一の子分って、そりゃ捻くれますわ。
もも
歴史ってむずかしいと思います。これをいうと、日本も昔中国の属国でしたよ。
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