最早、知る人も少なくなってきた中内功。この人の「売上げはすべてを癒す」 の言葉が好きだった。売り上げを上げれば経費は吸収できる。ともかく、ひたすら売れ、売ること以外何も考えなくて良いバブリーなお言葉。
1943年、幹部生として扱われる仲間を尻目に戦場の一線へ
投げ込まれる。所属した大石正義中佐率いる陸軍部隊はフィリピン・ルソン島で玉砕、重傷を負いながらも奇跡的に生還。この戦争体験は、後の人生観に少なからず影響を与えた。「人の幸せとは、まず物質的な豊かさを満たすことです」。
にて大阪市旭区の京阪本線千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店『主婦の店ダイエー薬局』(ダイエー1号店。のちに千林駅前店に改称し1974年まで営業)を開店した。当初は薬局で、後に食料品へと進出していった。
千林での開店の翌年1958年には、早くも、神戸三宮にチェーン化第1号店(店舗としては第2号店)となる三宮店を開店。既成概念を次々と打ち破り、流通業界に革命をおこした。特に価格破壊は定価を維持しようとする勢力の圧力にも屈せず、世の人の喝采を浴びた。1956年の経済白書で「もはや戦後ではない」とされたが、戦時中の国家統制がさまざまな規制の形で残り、中内は「戦後はまだ終わっていない」とした。
1964年、松下電器産業とテレビの値引き販売をめぐって『ダイエー・松下戦争』が勃発した。松下電器が仕入れ先の締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートの停止でダイエーに対抗した。この時の松下幸之助の考えは「儲けるには高く売ることだ。今後、高い水準に小売価格を設定するので、これを守りなさい。安売り店への出荷は停止する。」であった。
1972年には百貨店の三越を抜き、小売業売上高トップにまでのしあげた。1980年2月16日に日本の小売業界初の売上げ高一兆円を達成した。また、紳士服のロベルト、ファミリーレストランのフォルクス、ハンバーガーチェーンのウェンディーズ・ドムドムハンバーガー、コンビニエンスストアのローソン、百貨店のプランタン銀座など子会社・別事業を次々と展開していった。
1990年代後半になって地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエーの経営は傾きはじめた。また、店舗の立地が時代に合わなくなり、業績も低迷。さらに展開していたアメリカ型ディスカウントストアのハイパーマートが失敗、消費者の意識が「安く」から「品質」に変わったこと、家電量販店などの専門店が手広い展開を始めたことなどから、ダイエーは徐々に時代に取り残されていった。
1995年1月17日早朝、阪神・淡路大震災が発生。東京・田園調布の自宅で知った中内は、ただちに物資を被災地に送るよう陣頭指揮。フェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達したことで、一部で見られた便乗値上げに対し、物価の安定に貢献した。そのため、大災害が起きた際には暴動が起こる例も世界中には少なくないが、神戸ではそうした騒ぎが起きなかった。ただ、この地震により、神戸にあったダイエー7店舗のうち、4店舗が全壊し復興が遅れるなど関西発祥のダイエーの被害は甚大で、凋落を決定的に印象づけた。
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