『立派にプロレスラーだったよ』
リングの“演者”のモノローグとともに、
本来ならば笑いの空間が紡がれる合図である“エトピリカ”。
ただし、今回は最終回。
流れるエトピリカの旋律は、
これまでの“マッスル”の歩みと同時に、
これからのマッスル坂井・・・坂井良宏を繋ぐ。
この音色が奏でられるこの空間は、今回が最後。
哀愁というか郷愁というか、
いつもの旋律がそこはかとなく切なく思われる中で、
流れた鈴木みのるのモノローグ。
強さを追い求めた“プロレスラー”と、
マッスルという“プロレスの向こう側”の世界が交錯する中、
その“向こう側”に現れたものは、
紛れも無く、プロレスだった。
マッスルを初めて観に行ったボクには、
“マッスルとは~な空間である”
とか
“マッスル坂井とは~である”
なんて語れるような下地はない。
DVDや動画サイトを通じて、
『プロレスの向こう側』なる破天荒な世界の欠片に、
辛うじて触れたのみである。
マッスルとは何か。
プロレスとは何か。
ボクにはマッスルを観たことでそんな問いは浮かばなかった。
ただ、幸福な空間がそこにはあった。
そしてそこにあったものは、見方は様々あるにしろ、
間違いなくボクの知っている“プロレスなるもの”であった。
と、同時に言えるのは、これがマッスル坂井の世界観であり、
プロレスというものに当て嵌めるべき言い回しではないが、
“作品”として、そこにあった。
そう、このマッスル坂井の引退劇を主軸にした、
『マッスル10』はマッスル坂井に寄って描かれた、
マッスル坂井の“創造物”。
物。
モノ。
でも、プロレス。
それは『プロレスをテーマにした』という言い方では、
言い換えの効かないほどに、紛れも無くプロレス。
戦いと観衆によって紡がれる、
想起の物語が紡ぎ出す旋律が、そこにあった。
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