近くで見るプロレスって、面白いよね
・・・って改めて気付かされたのは、
初めて市ヶ谷でプロレスをみたガンバレ☆プロレス。
タイガー木原vs那須晃太郎というカードで繰り出された
那須晃太郎の打撃音がとんでもなくって、
当たり前だけど、プロって凄い、プロレスってヤバい…と思わされました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/7b/27ea5826daddfec4e6b0a85bbc93761d.jpg)
[2013年 市ヶ谷:この試合で木原さんは腕を負傷。プロレスの怖さも同時に思い知る。]
以降、近い距離で見るプロレスの魅力というものを覚え、
プロレスキャノンボールを経て、様々な要因の重なりから
市ヶ谷に入り浸るようになったりするわけです。
チケットの値段が高くなるだけあって、
近くでみるプロレスには、遠くからみるプロレスと
また違った世界をみせてくれる、といっても過言ではないでしょう。
息遣いや視線、音、僅かな動作の変化から、
複雑な試合展開を想起することでより、
リング(ないしマット)の上の世界に没頭することができるわけです。
リングのないところ、いわゆる路上プロレスは、
リングのあるプロレスにおける距離感を、
ものの見事に破壊してくれます。
観客は駆けずり回る選手を追いかけ、ほとんど選手と歩みを同じにしながら
プロレスを体感する。
プロレスにおける“距離経験”として、これほど面白いものはない。
さて、私みたいにカメラを持って執拗にシャッターを切る人間にとってはどうか。
答えとしては、より近い方が、やっぱりいい。
単純に遮蔽物が(少)ないということに加え、
レンズの選択肢も単焦点からズームレンズと幅が広がり、
リング上の変化により敏感に気づくことができる。
それは、写真を撮るにあたっては好条件であることは間違いない。
一方で、カメラを持つことにより、より“均一の距離”で見ることが可能になる、
と言えなくもないかもしれません。
大体いつも、自分で撮る写真の画角ってそれほどばらつきがなくて、
たとえどの会場のどの位置に座っていたとしても、
同じような距離感の写真を収めていることが多いように感じます。
カメラは基本的に私にとっては“記憶のツール”として作用してますが、
視点の均一化(距離を詰めること)にも一役買ってくれているわけです。
物理的距離の他に、プロレスにおける精神的距離というのも中々難しいところで。
私にとって、というか観客にとって、選手はあくまで選手であり、演者であり、
商業的にみればサービスの担い手であり。
言葉を借りれば“スーパースター”であり、“向こう側”の人です。
プロレス会場では選手と非常に近い距離感で接することが可能ですが、
自分がプロレスラー(またはプロモーター)にでもならない限り、
その立ち位置は変わりません。
そして、当たり前ながらどの選手と接する時も緊張する。
そもそも元々人見知りだし。
コミュニケーション能力はその日の機嫌に左右されるし。
でも、自分が尊敬する選手たちに対する距離感は、絶対に見誤るまい。
自分ルール。
さて。
“カメラを持っている”ことは一方で、
他人より余分な荷物を一つ多く持っている状態だと思ってます。
それだけで、他の観客の方々よりいわば“失点”を抱えてる。
なのでその失点をより大きくしないよう、
別の面で迷惑にならないように過ごすのが、
勝手な自分ルール②です。
カメラを持ってるだけで迷惑なはずなので、
他の観客の方の邪魔にならないよう極力声もかけない。
仮に会場内で何か不満に思うことがあったとしても極力口にしない
(が、意思が弱いからささやかにツイートはする)。
それが自分の敷いているおおよその距離感です。たぶん。
プロレス、またそこに限らずスポーツやライブイベント、舞台などなど見ていると、
必ずどこかで“ファン論”にぶち当たります。
で、“〇〇ファンはかくあるべき”という論調も目にします。
でも、スポーツの場って大体祝祭空間で、基本的に身体化を解く方向性に作用します。
なので、“ファンであること”は正直、それほど都合よく、みんながちゃんと身体化されることはないんじゃないか、
という気がしてならない。
そろそろ“いい大人”と言われて久しい年齢になりつつありますが、
年齢を重ねて思い知るのが、“いい大人”なんて人間はそうそういない。
そもそも自分がそうですし。精神年齢中3くらいからそんなに変わってない。
自分の中で“普通こうするだろう”“少し考えればこうだとわかるだろう”というのは、
実のところあまり実践されることはないような気がします。
端的に言えば、他の人のことは変えられない。
他の人を変えることは、自分が変えられることを受け入れることでもありますからね。
なので、失点を抱える観客という身分でできる限り心がけるのは、
とにかく、“一歩、はみ出さない”という自分で決めた距離感の徹底。
誰もが、いつ、はみ出すかはわからない。
自分は絶対にはみ出さない、なんて言えない。
だから、自戒として、改めて。
・・・って改めて気付かされたのは、
初めて市ヶ谷でプロレスをみたガンバレ☆プロレス。
タイガー木原vs那須晃太郎というカードで繰り出された
那須晃太郎の打撃音がとんでもなくって、
当たり前だけど、プロって凄い、プロレスってヤバい…と思わされました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/7b/27ea5826daddfec4e6b0a85bbc93761d.jpg)
[2013年 市ヶ谷:この試合で木原さんは腕を負傷。プロレスの怖さも同時に思い知る。]
以降、近い距離で見るプロレスの魅力というものを覚え、
プロレスキャノンボールを経て、様々な要因の重なりから
市ヶ谷に入り浸るようになったりするわけです。
チケットの値段が高くなるだけあって、
近くでみるプロレスには、遠くからみるプロレスと
また違った世界をみせてくれる、といっても過言ではないでしょう。
息遣いや視線、音、僅かな動作の変化から、
複雑な試合展開を想起することでより、
リング(ないしマット)の上の世界に没頭することができるわけです。
リングのないところ、いわゆる路上プロレスは、
リングのあるプロレスにおける距離感を、
ものの見事に破壊してくれます。
観客は駆けずり回る選手を追いかけ、ほとんど選手と歩みを同じにしながら
プロレスを体感する。
プロレスにおける“距離経験”として、これほど面白いものはない。
さて、私みたいにカメラを持って執拗にシャッターを切る人間にとってはどうか。
答えとしては、より近い方が、やっぱりいい。
単純に遮蔽物が(少)ないということに加え、
レンズの選択肢も単焦点からズームレンズと幅が広がり、
リング上の変化により敏感に気づくことができる。
それは、写真を撮るにあたっては好条件であることは間違いない。
一方で、カメラを持つことにより、より“均一の距離”で見ることが可能になる、
と言えなくもないかもしれません。
大体いつも、自分で撮る写真の画角ってそれほどばらつきがなくて、
たとえどの会場のどの位置に座っていたとしても、
同じような距離感の写真を収めていることが多いように感じます。
カメラは基本的に私にとっては“記憶のツール”として作用してますが、
視点の均一化(距離を詰めること)にも一役買ってくれているわけです。
物理的距離の他に、プロレスにおける精神的距離というのも中々難しいところで。
私にとって、というか観客にとって、選手はあくまで選手であり、演者であり、
商業的にみればサービスの担い手であり。
言葉を借りれば“スーパースター”であり、“向こう側”の人です。
プロレス会場では選手と非常に近い距離感で接することが可能ですが、
自分がプロレスラー(またはプロモーター)にでもならない限り、
その立ち位置は変わりません。
そして、当たり前ながらどの選手と接する時も緊張する。
そもそも元々人見知りだし。
コミュニケーション能力はその日の機嫌に左右されるし。
でも、自分が尊敬する選手たちに対する距離感は、絶対に見誤るまい。
自分ルール。
さて。
“カメラを持っている”ことは一方で、
他人より余分な荷物を一つ多く持っている状態だと思ってます。
それだけで、他の観客の方々よりいわば“失点”を抱えてる。
なのでその失点をより大きくしないよう、
別の面で迷惑にならないように過ごすのが、
勝手な自分ルール②です。
カメラを持ってるだけで迷惑なはずなので、
他の観客の方の邪魔にならないよう極力声もかけない。
仮に会場内で何か不満に思うことがあったとしても極力口にしない
(が、意思が弱いからささやかにツイートはする)。
それが自分の敷いているおおよその距離感です。たぶん。
プロレス、またそこに限らずスポーツやライブイベント、舞台などなど見ていると、
必ずどこかで“ファン論”にぶち当たります。
で、“〇〇ファンはかくあるべき”という論調も目にします。
でも、スポーツの場って大体祝祭空間で、基本的に身体化を解く方向性に作用します。
なので、“ファンであること”は正直、それほど都合よく、みんながちゃんと身体化されることはないんじゃないか、
という気がしてならない。
そろそろ“いい大人”と言われて久しい年齢になりつつありますが、
年齢を重ねて思い知るのが、“いい大人”なんて人間はそうそういない。
そもそも自分がそうですし。精神年齢中3くらいからそんなに変わってない。
自分の中で“普通こうするだろう”“少し考えればこうだとわかるだろう”というのは、
実のところあまり実践されることはないような気がします。
端的に言えば、他の人のことは変えられない。
他の人を変えることは、自分が変えられることを受け入れることでもありますからね。
なので、失点を抱える観客という身分でできる限り心がけるのは、
とにかく、“一歩、はみ出さない”という自分で決めた距離感の徹底。
誰もが、いつ、はみ出すかはわからない。
自分は絶対にはみ出さない、なんて言えない。
だから、自戒として、改めて。
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