6年の沈黙を破り、
このキャノンボール旋風の中で劇場公開された
「プロレスキャノンボール2014」。
もはや言ってしまって良いと思いますが、
この作品は、プロレスラー・大家健の物語となりました。
監督であるマッスル坂井は
「バカで笑い飛ばせる作品にするつもりだった」
「泣かせる作品になってしまったので、これは失敗作」
なのだと、
自身のコラムの中で述べています。
そして、結果監督の意図的には「失敗作」となった要因は、
大家健並びにガンプロチームの、予定外の参戦です。
作中、ガンプロチーム(と監督マッスル坂井)が、
割と本気のダメ出しを受ける場面が、
時間的にかなりじっくり取られています。
そして、その「ダメ」をなんとか取り戻そうとする、
大家健、今成夢人のストーリーがなんとなく主軸になったため、
よもやの感動作となったわけです。
さて、その「ダメ」についての大きな要因を
今成助監督が作中で述べています。
それは、「ガンプロ内のヒエラルキーの中でしか作らなかった」こと。
つまりはガンプロという世界の境界線を越えなかったこと。
ボクはこれは少なくともこの場面においては、
能力的に「越えられなかった」ように思います。
もっと言えば「人間」と「プロレスラー」の境界線。
それを、彼らは越えられなかった。
作中、一番最初にプレビューが行われたのは、
男色ディーノ、HARASHIMA、飯伏幸太(と、一応中澤マイケル)の
「DDTスペシャルチーム」。
冒頭のこのチームの様々なやりとりが、とにかく面白い。
初日最下位でスタートした彼らが、しかし、初日で最も面白い、というのは、
競技としての「キャノンボール」的にはどうなのかという気もします。
しかしこの作品が映画である以上、そして、プロレスである以上、
「面白い」ということは実に重要であったわけです。
DDTチームはとにかく、何もするのも「プロレスラー」でした。
それはカメラの前だから、とか、
レースの中だから、ということもあるとは思いますが、
しかし、カメラが無くとも、レースが無くとも、
あるいは、リングが無くても、プロレスが無くても。
彼らの振る舞いそのものが、
そこに立っているだけで「プロレスラー」でした。
実のところ、初日の彼らの対戦相手には、
現役のプロのプロレスラーは一人もいません。
それにも関らず彼らのレース振りが面白いのは、
彼ら自身が、魅力的なプロレスラーだからに他ならない。
匂い立つほどに。
少なくとも、3回劇場に足を運ぶ中で、
僕の目にはそのように映りました。
プロレスキャノンボールに参加したその他のチーム、
「チーム・世界一性格の悪いクレイジー大社長」は
その幅広い人脈とゴリゴリの自己主張を、
「酒呑童子」は逆に、個人の(特に高梨の)繋がりと
それぞれのプロレスラーとしてのキャラクターを活かし、
ともに実に面白いプロレス映像を提供してくれています。
彼らはもう、そこに立っているだけで普通の人とは違う。
立っているだけで「プロレスラー」なのだ、と。
そして、プロレスラーのいる空間は、
それが民家でも、マンションでも、
工場でも、公園でも、診療所でも、
どこでもプロレス会場になり得るのだと。
プロレスラーとは、人々に訳の分からない
「祝祭」的熱狂をもたらすことができる「超人」なのだ、と。
まざまざと見せつけてくれるのです。
で、その有り様を見せつけられたガンプロチームは、
残念ながらというべきか何というべきか、
とても「人間」的でした。
初日に現れたこの決定的な差、
境界が、「プロレスキャノンボール2014」の方向性を
様々な面で決定付けたように思います。
「超人」たるプロレスラー達と、
実に「人間」的なガンプロチーム。
しかし、彼らもプロレスラーであることに変わりはありません。
この決定的な差、境界線を前に、
ガンプロチームは如何にこれを飛び越えんとするか、
もがき、苦しみます。
その有り様は、コミカルなようにも映り、
また同時に、心が苦しくもなる。
彼らの悩む姿は、実に人間らしい。
ただしかし。
「人間」は「超人」に、決して劣るものではない。
人間の「狂気」は、
超人たちをも、凌駕する。
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