風に乗れ -Winddriven Current-

ワイヤーフォックステリアのナイトさんとORIXを応援する日々
“Challenge Together @KOBE”

神戸の鉄人

2011-01-17 | 風景画-神戸・播磨
5時46分に黙祷を捧げる、その日がまたやってきました。

この16年の歳月の中で、私自身は広島県、宮城県、青森県、東京都、大阪府といろいろな場所で過ごしてきましたが、
やっぱり神戸での震災の取り上げられ方は大小さまざま。
宮城に住んでいたときは、仕事が忙しかったこともありますが、
新聞でも片隅に小さく載っていただけでしたので、この日を特別な日として迎えるのは難しかったこともあります。
今、この関西で過ごす1.17は、ようやく当時の気持ちに近い人が多く、テレビや新聞でも取り上げられることが多いだけに
厳かな1日として迎えることができます。


■今年の1.17は月曜日の朝
16年前は成人の日の振替え休日が1月16日の月曜日、それを経て1月17日は火曜日の朝だったと覚えてます。
私は当時中学3年生の冬。
私が受ける学校の入試が2月3日ということで、17日に面接の練習をするから想定される質問と答えを書いてもってこい、
って先生から言われてました。

あのときは今でも人生で一番勉強してた頃だと言えるほど、元旦の日も塾通いで忙しく、
冬休みは朝9時から夜8時まで塾、帰宅して次の日までの宿題に追われ、終わるのはいつも朝4時頃、
そして3時間寝てまた塾へ行くといった、いかにも受験生っていうオニのようなガリ勉っぷりでした。
もう疲れてよくファンヒーターの前でごろんと仮眠を取ってるうちに朝、っていう状況も何回かありました。

その1月16日も塾の宿題に追われ、学校の宿題だった面接の想定問答文に頭を悩ましていたのが午前2時頃。
でももう疲れて、またファンヒーターの前で横になっていたとき。
心配した母親が、部屋に覗きにきて「風呂は明日の朝沸かすから、もう寝なさい」と。

そして、自分はもう次の日は先生に怒られてもいいや、と思いながらも布団に入ることに。


その約3時間後。
轟音の地鳴りとともに、バリバリと全てのものを壊したのは。
2段ベッドの下段には当時小学6年生の弟分がいましたが、ただ自分もベッドにしがみつくのみ。


なんか、その休み明けの朝が1月17日というだけで、当時の様子が鮮明に思い出されました。
あのときを思い出して、親とは「風呂に入っとけばよかったなぁ」という会話をしたりします。


あれから、学校は臨時休校。
面接の原稿を見てもらおうと学校へ寄ったのは3日後。
当然いつも通ってきた学校ではなく、体育館は避難場所として使われ、プールの水は生活用水に供給されている緊急体勢。
東灘に住んでた担任の先生が、血相を変えながら必死で20キロ歩いて垂水区の学校まで来てました。

「面接の文章はまた今度見るから、今はしっかり家族と過ごしなさい。」
そう言われて家に帰されました。

家では普段仲悪い近所の人同士が結集して、雨漏り対策で屋根瓦の上からシートを張ったり、
亀裂の入った壁にシリコンのシール材を注入したり。
ご飯らしいご飯も無いし、近所のスーパーもコンビニも売る商品すらないし、ガスも水道も出ないし。
至る所から埃とガス漏れの空気が漂い、高台からはブルーシートの屋根が並ぶ、それが我が町の現実。


面接の前日は、クラスの友人と自転車に乗って歌敷山の銭湯へ行きました。
昼過ぎにも関わらず2時間並んで待ったものです。
銭湯の中で、大きな地鳴りと余震が来て、さすがに裸のまま死にたくないって思ったり。


そうして迎えた春。
あの中学を卒業するまでの3ヶ月間は特別な日々でした。
なんか受験に精を出していたことに対しては、やらなきゃいけないことがあるのは事実。
でも、さらに大事なことがあると気付かされた15歳の春。


それもこれも、親も弟も友人も無事だっただけ恵まれてました。
前に務めていた学校での教え子を沢山亡くした先生もいたし、
あの長田や灘の状況からは、家に閉じ込められた奥さんを救うまでも無く火の手が襲い、
そのまま焼死させてしまったという悲惨な事実が幾多とあった混乱と比べると。

塾が板宿にありましたが、山陽電車が不通のため新長田駅から焼け跡を横目で見ながら歩いた
ときの情景は決して忘れてはいけないもの。



■果てしなく長く続く影響
震災発生後、あの埃の中で過ごしてきた弟分が3月ごろからアレルギーが酷くなりアトピー性皮膚炎を発症。
悪化は見る見るうちに進み、体のいたるところにヘルペスも発疹。
10日間眠れずに、肩を脱臼しても背中をかき続け、親も寝ずに背中を泣きながらかきむしる日々に。
何度か入院を繰り返すも根本的な治療法はなく、アレルギーを体から抜くために断食をしたり、1日1000カロリーの食事制限をしたり。
体中が傷だらけのため、ウイルスが混入しカポジ水痘様発疹症を引き起こし、足が動かなくなったこともありました。

さらに修学旅行の3日間に耐えられるようステロイドの飲み薬を服用したことから、
眼圧が急上昇し、白内障と緑内障、さらには網膜はく離を引き起こして手術をすることに。
ガラス球になった眼球は、10代から使ったら30年後どうなるかわからないと医者から言われ
もう生きる気力を失ったこともありました。

10日間泣きながら明け方まで背中をかき続け、「排気ガス吸ったら楽になるかな」とかこぼしたこともあり、
親ももう仕方ないと思いかけてました。


これも震災がなければ・・というものなのでしょうか。
原因は不可抗力、自然の力には逆らえない、だから仕方ないものなんでしょうか。


ただ、彼は加藤大輔への野次も凄いが神戸の鉄人級の強さを持ってましたよ。
今、そんな彼を支えてくれる伴侶が現れ、今年どうやら所帯を持つことになるわけで。

生きててよかったやんけ。
今もボロボロの体で、よく幸せを掴んだなと、本当に凄いヤツです。

これから先、どうなるかわからない不安も、沢山抱えたまま。
それは、あの震災から借金作っても自力で家を建てたり、仕事を復帰させたり人たちも同じくあると思います。
あの当時、復興のために死に物狂いで働いた人たちも多かったですし。
神戸の鉄人は、いろんなところにいると思います。



■グリーン・スタジアムとの繋がり
その弟分も、よく私とオリックス戦を観戦してます。
今は彼女を連れて内野席からオリックス戦を観戦してるみたいです。
(こちらは同じ球場で外野にいたりしますけど・・)
オリックス戦はひとつの楽しみとして定着しています。

今はもうあの「がんばろうKOBE」の当時とはチームも球場も姿形名前が変わりました。
でも、あのスタジアムと震災の影響を受けた人々とはなかなか切り離せず、所々で当時と繋がっているところはあると思います。
いや、あるのです。それを言いたいために、弟のプライバシーを暴露したんです。ごめん。

これからもその思いは野球場を通じて繋いでいければ。
オリックスとグリーンスタジアムは、今でも僕らにとって宝ですから。



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4 コメント

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野球とのつながり (ふーさんまま)
2011-01-17 08:42:13
私は、灘に住んでまして、住んでいたマンションが壊れました。1階が駐車場だったため、阪神高速の橋脚のように柱が折れ、傾きました。
傾きの下がったほうに食器棚などがあったので比較的被害は少ないほうかもしれません。

そのため、仮住まいで東灘のほうに住むことになり通勤で利用していた駅で、中学の同級生と再会しました。
その子は、阪急時代からの野球好きで「今度オリックス観に行くか~」と言って連れて行かれたのが、初めての野球観戦。
たいてい、その子が弁当作ってきて、私がビールおごってました。
ちなみにその子は「ほしの」、わたしは「なかじま」でした。(すごいバッテリー)

だから、震災を知らない我が子たちにはせめて野球の楽しさは伝えられたらなと思ってます。

いまだに自宅そばの「人と防災未来センター」は行けません。怖いです。ヘリの音も嫌いです。
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震災の恐怖 (近鉄特急)
2011-01-17 09:36:20
僕が生まれる4ヶ月前ですね。
地震は建物も人の心も全て破壊しつくしますね。
「がんばろうKOBE」を掲げて見事優勝して、震災に遭った人々に勇気を与えたオリックスは改めてすごいなあと思います。
神戸から完全撤退したら、こういうことも語り継がれなくなるのでしょうか。
返信する
ふーさんまま さん (かずまん)
2011-01-18 00:27:06
重なコメントありがとうございます。
その住むマンションの柱が折れて、家の中が散乱している状況は、
「比較的被害が少ないほう」とはとても思えません。
あの時は本当に街が悲惨だっただけに、みんな「自分はまだまし」と言い聞かせて頑張ってたように思います。

その頑張りを支えてくれたのが野球だったんでしょうか。
今では疲れたときに対して「癒し」という言葉がよく使われますが、
どこまでも果てしなく頑張り続けなきゃいけない境遇にあった市民には、あの「熱狂」が薬だったのかもしれないですね。

その心の支えは、これからも消えないで欲しいと願ってます。
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近鉄特急 さん (かずまん)
2011-01-18 00:41:44
突然普通の生活ができなくなる恐怖を味わいましたが、
何よりこんな悲惨な事実があったことに無関心になっていく世の中も恐ろしく感じたりします。
ことごとくメモリアルイベントに税金が投入されてると非難する人も多くなってきました。
(実際、募金に頼っているところも多いのですが)

ただ、過酷な状況から這い上がってきた人が大勢いるのも事実です。
その反面、今も家の建替えで借金に困っている人や、後遺症で苦しんでいる人もいます。

あの普通の生活ができることのありがたみを知ること、
そして困ったときに人々が手を取り合って助け合う姿勢こそが、あのときの教訓です。

「グリーンスタジアム」と「オリックス」の存在そのものが、その語り草として今も生きていることは事実。
単なる「天然芝が綺麗で見やすい球場」ではないのです。
だからこそ、大阪への完全移転は球団がしたくてもできない実情と思ってます。
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