
東京に来てから亡くなってしまった父方の祖母は、父を入れると五人の子宝に恵まれた。
戦前戦後の混乱期に祖父が徴兵されずにいたのか実際には徴兵されたのか、事実については聞いたことはないためよく分からないが、叔母はまさに敗戦記念日の1945年8月15日産まれだったから出産は大変だったろう。戦時下で無事産まれて良かった。父以外は全て叔母である。嫁いだ先は当時の本拠地の名古屋の近辺の瀬戸、春日井と比較的近場の二人の叔母と、古都奈良は大和郡山と北海道の旭川に嫁がれた叔母の合計四人である。小生が一歳の時に祖父は亡くなったために、小さい頃から我が家には祖母だけがいた記憶がある。二歳半離れた弟は父方の祖父を必然的に知らないことになる。おいらはその祖父に抱っこされた記憶が鮮明にある。
一歳時分の記憶等、と言われても確かに抱かれた記憶があるのだ。
その記憶の是非についてはさておき、名古屋在住時の祖母は四人いる娘の家を訪ねるのが楽しみだったのであろう。尤も、瀬戸、春日井については車ですぐの距離であり、特に労苦はなく訪ねていた。奈良も実は言うほど遠くなく、うちの家族や瀬戸、春日井の家族が車で連れていっていた。今となってはちょっとそこまで、と言う距離なのであろうか。
しかし、旭川はそうはいかない。
何しろ飛行機以外では行けない。電車も厳しかろう。当然名古屋空港、、別名小牧空港からとなる。何度か小さい頃見送りに行ったが、これが決まって暑い時期であった。つまり、避暑である。一度でも住んだことがある者なら分かるであろうが、名古屋の夏は尋常ではない。冬は息吹下ろしで凍える程寒いが、夏は茹だるように暑いのである。しかしながら高校一年生迄名古屋に住んでいたが、1990年迄はそんなに真夏日が連日続いていた記憶はない。たまに30度を越える日があった程度ではないか。小学校の野球部の練習の際に、『今日、30度超えるらしいぞ、、、』と練習中水を飲まさない精神論真っ只中の時代であり、愚痴を言ったものだ。
うちの祖母が当時そのような愚痴を言ったか言わないか分からないが、何れにしても避暑で旭川に行っていたのは事実である。しかして、名古屋空港には夏に行ったわけだ。
何故だか、これは正しいと言う確証はまるでないが、祖母が搭乗する際にタラップを昇っていった記憶があるのだ。せいぜい、小学生くらいの年齢くらいであろうか、迎え等に行ったのは。その時の記憶の方が一歳時分に祖父に抱っこされた記憶よりも定かでないのであるが、飛行機に乗る時はタラップ、と言うインプットが植え付けられた。大人になり、出張等で国内移動する事が多くなったが、ローディングブリッジしかないのだなぁ、と幾度となく空港でガッカリしたものだ。いつしかそんなことも思わなくなったが。
Europe在住時には逆に幾度となくタラップから搭乗となることがあり、おいらの飛行機に乗る際の満足度は上がったものだ。しかし、国内移動では記憶はない。
が、本日広島への移動で、タラップから乗った。
今となってはワクワク感よりも、つまり小さな、若しくは地方で其れほど便がない場合や、JAL本体ではないcareer、例えばJAL waysとかがオペレーションする最に使われる事が分かった。羽田発の伊丹行きとかでタラップになることなど絶対無かろう。
それでも良いのだ。
在りし日の祖母の面影を一瞬でも思い出せたから。折しもお盆。我が家ではその類いのイベントはせぬが、この時期の出張で遠く空の上から祖母が見守っていてくれることだろう。
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