MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



おいらにとっての初めてのサッカースタジアムでの観戦は多分瑞穂でのキリンカップ。

まだ国際Aマッチではなく、クラブチームが来日する試合だった。奥寺さんが凱旋と言う試合でブレーメン戦を名古屋で観た。1986年のことだな。その後、1990年に東京に転校してきた年からサッカーは国立競技場で見るようになった。

最初の国立競技場での生観戦は天皇杯の決勝。

1990年の元旦。松下電器対日産自動車。120分で決着が付かなくてPKで松下電器が勝った試合だった。日産自動車にはレナトとかがいて、日産の全盛期の時代。松下は日本リーグでもパッとしない時代だったから、日産自動車に勝ったのは衝撃的だった。これが、国立競技場での初生観戦。

その後は何試合ここで観戦したか、分からんくらい。

代表戦も天皇杯もトヨタカップもJリーグの試合も。勿論サッカー以外にもラグビーも何十試合も。国立競技場でサッカーとラグビー合わせると軽く100試合は観戦していると思うな。


代表戦で、印象的なのはジョルカエフとかパパンが4点決めたFranceとのキリンカップかな。小倉が振り向きざまに左足でスコーンと入れたのが強烈な思い出。これは1994年だったかな?いやぁ、もうこれでさえ20年前だもんなぁ。。。。浪人していた1992年、93年はアメリカワールドカップの予選に全試合国立競技場で観戦したけどあの時のメンバーがやっぱり自分の中での代表なのかなぁ。ラモス、カズ、都並、松永、吉田、とかを柱谷がまとめると言う構図。1993年10月28日と言う自分の誕生日の日にドーハの悲劇があったが、それまでの日本国内での予選は国立競技場で全て観たからなぁ。

今やワールドカップに出るのは当たり前のようになってるけど、1997年11月17日迄そんなこと誰も予想もしないし、また1985年の木村和司の伝説のフリーキックがあっても行けなかったのが、ドーハの悲劇で、またワールドカップには行けなくて、何をしたらワールドカップに行けるのか、と思いながら国立競技場での予選を観に行っていた。

1997年は、フランスワールドカップの予選で山口がループを決めたがその後立て続けに川口が失点し、それまではボールボーイにゆっくりボールを渡せと言っていたのが一転して、とっとと投げろと怒鳴っていたのが、なんとも負のオーラがあった嫌なゲームの印象。ハイボールに弱く、やたらと飛び出す嫌なキーパーだなと言う印象が植え付けられ、楢崎出せよなぁと常に思うようになってしまったな(笑)。これが大学3年の時かな。その時の試合、余りにも衝撃的な結末で10人くらいで観戦しに行っていたけど中央線に乗って武蔵境の駅に着いて、気付いたら独りで、他の人をボーっと待っていた記憶しかないな。。

そんな試合を含めて、何度も何度も何度も観戦した国立競技場。

代表戦はもう埼玉スタジアムや横浜でされるのが当たり前になってるけど、あのスタジアムがやっぱり良かったと国立競技場を後々思い出すんだろうなぁ。

今日の試合内容は正直どちらでも、、、後半からの清武とか酒井高徳とか、酷かったなぁ、と言う印象のみ。斎藤の方が香川より良いじゃないの?!と言うのも小さな印象。本田にはガッカリしてない。Milanで散々ガッカリしているのでね。。




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