MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



1992年の浪人が決まった時から、受験勉強に小論が加わった。

現役は中々浪人には勝てない科目だ。浪人は英語や現代文、日本史等もひたすら勉強するが、意外と本も読む。そんな中に奥平教授の本があった。東大に行って弁護士になりたい、と言う目標が当時はあり、法律関係の本を読み漁っていた。社会科学系の本を色々読んだ中で、電気が走る程奥平教授の本には感銘を受けた。そして帯を見ると奥平教授は東大退官後はICUに移られている事を知った。


だから僕はICUに進学しようと決心した。


ICUに入ってすぐ、1994年の春学期は奥平教授はAcademic leaveでその学期は授業が無かった。実際、先生の授業を初めて受講したのは2年生になってからであろうか。それまでの間に購入した憲法関連の奥平教授の著書は全て読んだ。自分なりに読み込んだつもりであったが講義では毎度目から鱗と言うか、新しいことが多々入ってきた。東大での講義を含めて、奥平教授が何十年もかけて研究を積み重ねて書き込まれてきたノートを元に淡々と講義を為される。ICUはの講義室は通常2-30人レベルの講義室が多く、人数が多くても100人程度だったろうか、そのサイズの講義室で受講することが多かった。小さな部屋での講義なら兎も角、大人数の講義の場合、前に行かないと中々声が聞き取りづらい。だからほぼ前列には真剣に聞く学生が多くなる。


僕らは1998年3月卒業したが、奥平教授がICUを退官するタイミングでもあり、本当に幸運であった。1997年の4年生の秋学期の時、ICUの教授室に突然呼ばれ、『退官に際し、野尻湖の別宅に本移したいから手伝ってくれ』と。ICUの中にある教授室があるA館の前に停車された5トントラックにいっぱいの本。一緒に行くのは、助手の女性、そして同じゼミの男子学生のFくんと女子学生のSさんの4名。つまり我々アサインされた学生は4人で5トンの本を書架に並べるのである。幸いなことに積み込みは業者の方がされていた。しかし、野尻湖の別宅の家の目の前まではその5トントラックは横付けできない。故に、5トントラックが乗り入れられる道から2トントラックにわざわざ本を積み直して別宅までの数100mをピストン輸送。その度に一度別宅の書架のある部屋まで本を運び、そして2トントラックを空にして、また5トントラックまで戻り積み直す。。。これを3往復はした訳だ。そしてそれから2泊3日、ひたすら奥平教授の指示で本を並べる。ひたすら並べる…。相当古くなっていた『判例時報』等を初号から綺麗に順番に並べていく。。夜、初日は峠の釜飯の空の陶器でご飯を炊かれていた。『炊飯器は無いんだ』、と。『峠の釜飯の空き容器をこんな形で一人暮らしの場合にはご飯の量が丁度良いんだよ』、と笑ってらした。そして翌日も朝早く起きてひたすら本を並べる。そして翌日の夜、今度は戸隠に蕎麦を食べに行こうと行って先生を含めて5人で出掛けた。戸隠神社の境内のすぐ側にある蕎麦屋に。先生の行き付けがどうやらあるらしい。時期の為ではなく、時間のせいで既に空いていないお店があり、記憶では2軒目のお店に入ったがそこでの蕎麦は抜群に美味しかった。正直名古屋育ちの自分は蕎麦をあまり食べる習慣はなかったのであるが、蕎麦に開眼させられた。


奥平教授には蕎麦の美味しさも教えて頂いた。


卒論を書く際に当時はまだInternet勃興期で判例もあまり無かったが、アメリカ最高裁のブラック判事の書いたverdictが良い、と200 page近くあるcopyを教授室に取りに来なさいと渡されひたすら読んだ。頑張って読め、と言う事だ。そして、インターネット上の表現の自由と検閲、と言う題で100 page近くの卒論を書いた。ICUは4年生の時のみゼミがあり、複数の学年が何か議題を持ち寄って発表したりするようなことは皆無である。奥平教授も東大時代とは異なり、ICUでのやり方を踏襲されており、我々もID97の学生、つまり一つ上の学年の学生はどんな人が居たのかなど全く知らない。これはICUのゼミのあり方として非常にマイナスだなぁ、と当時思ったものだ。ICUが個人主義者の塊だ、と言われ必ずしもプラスの評価を得られないのはこうしたゼミの持ち方に寄るものだと思う。そんなマイナス要素を自分なりに考え、奥平教授にお聞きすると今までICUに来られてからゼミ合宿等したことはなかったが、自分が幹事をして二度ゼミ合宿を行った。一度は伊豆。伊豆の赤沢だったと思う。正直旅行的な要素を少し期待していたが、その日の夜、奥平教授からの叱咤激励以上のお叱りに少なくとも自分は慄いた。真面目に卒論に取り組まなければならないな、と身が引き締まる思いだった。そして翌日は大室山に皆で登ったなぁ。二度目は八王子のセミナーハウスに部屋を借りてゼミ合宿をした。これは秋口だったか初冬だったかで寒かった記憶がある。この時も結構ガッツリと奥平教授からはお叱りを受けた。皆ゼミ生はそう思ったのではないだろうか。ゼミ合宿の帰り際、「ICUに来てからゼミ合宿等したのは初めてだったよ。企画に感謝する」と仰って頂いたのが嬉しかった。その後も定期的にICUの学内でゼミをしていただいた。その後、先生はICUに来る途中でバイクの事故に遭い、京王線の国領駅からすぐ傍の病院でゼミをしてくださった。人間、何処でも勉強出来る、と仰っていたが、病室で人生初めてマンガを読んだと笑っておられた。


そして卒業する前にゼミ生で日光へ旅行へ行った。



色々と相談して、近場で電車で行きましょうと言うことで日光に行くことに。もうゼミ合宿ではなく卒業してバラバラになる前の懇親と共に先生への感謝の気持であった。一泊した宿では湯葉づくしで本当に美味しかった覚えがある。日光東照宮でお参りしたりしてね。とても楽しかった。そして翌日、日光の山の上の方にバスで移動し、突然発見した温泉に入りましょうか、と温泉に。楽しいひと時だった。


卒業してからも度々新宿や渋谷でゼミ会をし、お会いした。早稲田大学や神奈川大学で講義をされる日を狙って日付を決めたりしてお会いした。正直激務の中でお会いすると、我々よりも余程お元気であった奥平教授。ゼミ生の一人が半分冗談で、我々の方が倒れそうだな、なんて言っていたら、『あんまり頑張り過ぎないように。しかし頑張りなさい』、と。社会人になってからも励まして頂いたなぁ。その後、奥平教授は70歳を過ぎても尚、精力的に研究を重ねニューヨークのColumbia大学でvisiting professorで行かれるとお聞きし、社会人になってからニューヨークでの休暇の際に大学の寮に滞在している先生を訪ねた。Columbia大学を訪ね学生寮の場所を聞き出すまでにかなりの時間を要した。寮に着いてからもVisiting Professorの奥平教授を呼んでください、と言ってからも結構時間が掛かり、「おぉ、やっときたかね」と笑顔で迎えてくださった。その日だったか、違う日だったかは覚えていないが、その後Manhattanで一緒にミュージカルを観ましょうと誘って頂き、観劇した。Chicagoだったかなぁ、一緒に観たのは。いや、アイーダだったかな。当時持っていたSONYのPDAで借りていたマンションでネットに繋ぎ、PCからPDAに観劇する内容を予習してシアターに行った。多分その時が初めてブロードウェイでの観劇だった気がする。


奥平教授にはBroadwayの楽しさも教えて頂いた。


観劇後、42丁目辺りの和食のお店に入り、君が来てくれて一人で和食を食べずに済んだよ、と仰っていた。 観劇したミュージカルの話を楽しそうにされていた。今でも覚えている。カツ丼をご馳走になったな。。。


Milanoでの留学から帰国し、結婚をする事になり、披露宴でのスピーチをお願いした。快諾頂いた。その当時で奥平教授は76歳。矍鑠とし、一言一言がまるでICUの講義の時のようで1人感激していた。先生には時間を伝えていなかったこちらが悪いのだが、結構長い時間スピーチをしていただいたw。いやもう、ただ嬉しかった。



僕は東大にも行けなかったし、弁護士にもなれなかったけど、奥平教授から学んだ事が僕の人生の生き方になった。


厳しい先生だったが、優しい笑顔であった。大学時代に学んだことはとても多くて一言では語り尽くせない。しかし考え抜いて、自分の意見をしっかりと伝えると言うこと。また何よりも法律、そして憲法を学ぶにあたり、決して過度な締め付けを公権力がすべきではないと言う大前提の元、誰にでも『選択肢:Alternatives』を与えていくことを制度的に、仕組み的に行っていく、と言う先生の教えを仕事をする上でのモットーにしようと思った。全て学生時代に奥平教授から学んだことである。学生時代、奥平教授の元で勉強出来たことは本当に、本当に、本当に自分の人生にとって糧になった。

奥平教授にはただ、ただひたすら感謝の言葉しかない。

ICUで奥平教授に出会えたこと、いただいた言葉、感謝しかない。自分たちの親よりも上の年齢の方だから当然先に亡くなるとは思っていたが、いざこの時を向かえるとどうして良いのか、まだ心の整理が出来ないな。。。

今はただ、ただひたすら悲しい。

謹んで御冥福をお祈り申し上げます。



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