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所謂、普通と言う概念は、他者との差異化の境界線の線引き基準とその線引き作業の術べを用いていない限り、極めて抽象的で且つ曖昧なものとなる。
凡そ知的レベルが一定水準に満たない小学生等は皆持ってる、皆言っている、等と恰も普遍的であるかの如く『普通』を強調する。しかし、現実には一部の極小的なサンプルを持ち出して拡大解釈しているに過ぎない。『普通』の事など中々出会えないものである。
しかしながら、閉ざされている世界だったり、小さな世界の住人にとってはその汎用性を、その基準等も明確化することなく、また反証することなく、当たり前のように使う場合がある。それが許されるのは大概実害のない場合のみであろう。換言すれば、自己責任で済む場合とでも言えようか。また、想定しているsceneがbusinessのsceneでなければより、自己の介在する世界の中での『普通』を断定的に言っても然したる問題は発生しない。人類は独りでは生きていけない動物であるが、自己とその周辺で交わる人たちとその『普通』が共有出来ると相対的にも絶対的にも幸せな気分を味わえる筈である。
その最たるcaseは食であろう。
そもそも古来より食は独りで為すものではなく、適量を共同体の中で分け合い、食す場所を一にしているのが常態化していた筈だ。歴史を重ねていく中で、共同体の中で食す際に時間を共有する単位が『家族』になってきた訳だが、残念ながら年功序列でその味付けは決定されがちで、火を通したり煮たりしてしまうと、個別の味付けにするなどの、『個々の味覚』に沿ったものを、家族の構成員ごとに個別に味付けして提供することは中々為し得ない。それは現代ですら同じで、細分化された単位としてはせいぜい家庭の味止まりだろう。凡そ家長の言い分が一定年齢迄は半ば強制的にのし掛かるものだ。成人すると、この言わば『味の呪縛』から解かれる場合が多い。所謂、『オフクロの味』等と言う、自分の原体験の味はあるものの、それでも婚姻等を経て複数集められた個々の味は融合化されていくものである。勿論地域性を加味した上で、である。
味覚はその融合の繰り返しになる。
余程自分の味覚に自信がない限り人に味覚を押し続けるのは無用な衝突を招く。若しくは絶対的に信用出来る味に出会わない限りその味を押し続けるのは面倒だと感じる筈だ。
にも拘らず、今日、渋谷で堪能した味はまさに絶対的に信用出来る『普通』の美味である。
いついかなる時もその時の最適な物が堪能できる場所である。こんなに再現性の難しいジャンルもないと思うが、いつも普通に美味しい。それほど美味い。でも『普通』。この難しい普通を具現化しているのである。以前にも書いたが、ここ『ホルモン哲』では味で安らぎが得られる。人と美味を共有出来る。そしてホルモンの概念が変わる。なんだったのだ、あのCMのホルモンは?と認識を改める事になる。ホルモンは臭いのが普通だと思っていたのが根底から覆される。ホルモンの刺身、煮物、焼き物と全てが変わる。ある意味、ホルモンと言う自分の中のカテゴリー別の普通が変わる。それも心地好く。行けば分かるが、隣の人と肩が当たってせめぎ合い、臭いが充満していて、床が油でべとつくと言う事はない。
今日もご馳走さまでした。
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