MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



2004年2月20日、成田空港からMilano Malpensa空港へ1人出発した。

Deloitte時代の出張で35万マイル以上貯まっていたので、Milanoの大学院への出発はJALのマイレージでBusiness classにUp gradeして乗った。何しろ持ち込み合わせて大量に荷物を運んだのでビジネスクラスにする必要性があったのである。同僚に借りたサムソナイトの巨大なスーツケース1つ、Nikeのコロコロ(大体一週間の出張で使うくらいの大きめの)、soccer部の時に使っていた遠征用のNikeのダッフルバッグ(6歳児くらいなら多分入る)、そしてこれまたNikeのガーメントbagをパンパンにし、機内持ち込みはまた別のbagで行った為に、economyでは当時荷物の規定が厳しく持込み数も限られていたためBusiness classに上げたのである。

そう言えばスーツケースの鍵を忘れて親父に成田空港迄鍵だけを持ってきてもらう失態を犯したな。。。

あれは相当感謝している。なければMilanoの家で荷開けができないからだ。因みに上述の巨大荷物4つはJALのserviceで前日に成田空港迄運んでくれるserviceが当時はあり、ほぼ手ぶらで空港に向かった。期待よりItalia等と言う不安しか喚起されない国に赴くにあたり親父が最後に成田空港迄来てくれたのは気分的に助かった。


ちょうど30歳になってすぐくらいの2003年10月に一度Milanoの大学院には見学に行ったが結局そちらの大学院ではなくPolitecnico di MilanoのMBAに行った。Deloitteのprojectの関係で2004年の年明けに進学できるMBA courseがあったのは幸いだった。もう一つのMBAは秋口以降で当時アサインされていた官公庁系のprojectはその時期に抜ける等有り得なかったから。


Italia最高峰の国立大学だが、operationは諸々酷く(笑)、特に斡旋されたflatは最悪だった。


flat mateは本当に酷い輩で、夜10時を過ぎるとうるさいからshowerを使うなとか、特にruleも言わないままcupの位置が違うとか、イタリア人とは思えない神経質さで、あれはきっと自分でも気付いていないある種病的なものだったと思う。あっと言う間に退去したが10年前の今日、Milanoへのflightの時はそんなこと知る由もなかった。

まぁ、ある意味乗る前の不安は的中したと言えるのだが嬉しい筈も無く。

然し乍ら、当然自分に足りないモノを補おうとか、キャリアチェンジの為にも頑張ろうとか息巻いていた部分はある。まぁ住んでみると分かるがItaliaはとてもG8のmember countryとは思えない程全般的にserviceが酷い。いくらItaliaを擁護する立場に立ってdebateしてもとても日本には敵わない事は自明であり、住み始めた瞬間からこれらを所与の条件として生活するぞ、と心の中で誓った覚えがある。

どの国に行ってもそうだが、東京以上のservice levelの都市も国も絶対にない訳だから比較しても仕方ないんだけどねぇ。。。

これは2003年の10月にcampus visitをした時に色々日本人の留学生に聞いたし、街を歩いてみて感じられ、また体験したことから必然的に沸き起こった決めゴトである。日本との差異を何時までもウジウジと比較しても何も生産性がないどころか、欝になるだけ。但し、何が酷いかについてはしっかり書き留めようと思ったのも事実。

そうやってこのBlogを始めたのである。

昨晩の会食で図らずもItalia事情についての執筆をする事になったが、ちょうど10年前に書いていたItaliaの良さ、酷さは多分余り変わらない。詳しくはおいおい出版する記事に書いていくつもりである。

この10年で自分はどれだけ成長したのか、そしてこれからの人生をあのMilanoへ旅立った2004年2月20日からどう活かして今後も成長するべきか、考えて行かねばなるまい。

頑張ろう。
頑張るぞ。



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