MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



今回ある意味メインイベントと言うことで。

1995年1月17日。。そう阪神大震災の日である。おいらはその当時大学生。朝のニュースを見る習慣がなかったので、何も知らず前日までのことしか載らない新聞だけを読んで大学へ。覚えているのは語学のクラスメートが喋った一言。「うちは大丈夫だったみたいで安心した」と。はて、一体何のことを言っているのか分からなかったが、どうやら地震が起きたらしい。テレビでニュースを見る時間などなければその日東京以外の土地で何が起きていたのか、正直知る由もなく。昼過ぎ以降にクラブハウスに着替えるために行ったらそこでテレビに釘付けになっている体育会系の部員たち。一体何が起きているのか正直分からないままテレビの周りの和が大きくなっていく・・・・・・。

『え、こんな規模の地震が今朝あった訳?』

多分皆一様にそう思ったと思う。その時比較的丈夫に作られていたのか、御影公会堂と言うものがよく映し出されていた。隣には四方やその時思いも寄らなかったがその3年後に入社する会社の社屋(局舎と言う言葉を入社後に知るw)。御影公会堂、、、そう何度も聞いた地名である。ここはテレビ局の中継基地になったいたことも後から知った。


うちの奥さんの父方の祖母の住むマンションはまさにその御影公会堂の目の前であった。


結婚する前、2005年の年末に一緒に神戸に旅行した時に1995年当時に見たテレビの映像との違いに瞬間的には分からなかったが、まさに祖母宅に到着した瞬間に映像がフラッシュバックした。うわぁ、あの時テレビで見た御影公会堂の目の前か、と。聞けば祖母宅はマンションごと建て替えたそうな。倒壊せずとも住むには至らず、だったようで。新しくなるまでは奥さんの実家のある藤沢に父方の祖母も一緒に過ごしたらしい。あの当時から既に18年。皆同じ分だけ歳を取っている。当然奥さんのお祖母ちゃんも歳を重ねている訳であるが、お一人で暮らしていると言うことだった。勿論、親族は十二分にケアをしていることは分かっているが、やはり東京に住む孫であるうちの奥さんとしてはどうしても会いたいと言う気持ちがあった。それを斟酌し、今回余り外に出たがらなくなっているお祖母ちゃんに何とかして会えるよう、スケジュールをアレンジ。正直アポなしでいらっしゃらない可能性もあったが、そこはこう言う時の賭けに何度と勝ってきたのである。お祖母ちゃんに会えた孫は嬉し涙に。おいらももらい泣き。


良かったねぇ。。。


その後もう一人のお祖母ちゃんに会うために移動。六甲アイランドへ魚崎駅から乗り換えて進む。こちら、母方の祖母には事前に電話で伝えてあったし、奥さんから見ると叔母に当たる方が事前に聞いていてくださって、祖母宅で合流。小一時間程話せた。いや、良かった。やはり電話では話せても中々東京と神戸と言う距離から会えないまま仕事や家庭生活でうちの奥さんは中々会えていなかった訳だから感慨も一入だろう。今回、会えてホントに良かったと思っている。




おいらにも母方の祖母がいるが、うちの奥さん曰く、結婚して自分にはお祖母ちゃんが三人になった、と。つまりおいらにも三人お祖母ちゃんが出来た訳である。お祖母ちゃんを思い、訪ね歩くのも孫の特権。また神戸に来るときには参りますと伝え後にした。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 『難波にて・... 『京都にて▪▪▪』 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。