MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



2019年8月1日に誕生してから、今日7月1日で700日。

もう、700日間ずっとずっと楽しいしかない。

早く寝てくれよー、って思うことは乳飲み子の時や最近でもままあるけど、それは別に嫌なことでもなんでもなくて。おいら、泣かれてもなんとも思わないんだよね。泣いている理由は最終的には突き詰めても分からなかっただろうし。。。最近は、流石に分かりますよ、泣いている理由w。あぁ、わがまま言って、約束守らないけどやりたいんだねぇ、だから泣いてるのね、なんて思うこともしばしばある。


あるんだが、泣いている理由が分かったところで、すぐに泣き止ます方策はもう確立しているし、泣いてしまったことの経緯から結果に至る分析をしたところで、それを阻止するための再現性プランは恐らく成立しないので、そういうことに苦慮して、心にストレスを感じるくらいなら、一緒に起きている時に可能な限りで精一杯楽しい時間を共に過ごす、と言う方が良いと思っていて。



大きくなってもずっとベタベタしている訳にもいかないし、実際そうはならない。保育園に行っている間のみらんくんは、連絡帳経由でしか知らないし、家に帰ってきてから、ずっとベタベタして過度に距離を縮めすぎるのも良くないと思っているんでね。長期的な視野に立つと、過度な愛情は絶対に良くない結果になるし、過保護だとか、親の価値観の押し付けすぎとかは絶対に良くないと思っているんでね。


適度な距離感で、最大限の愛情をね。


出来れば、Wiredで愛情を供給するのではなく、Wirelessで愛情を汲み取れるくらいの距離感が良いと思っている。Wiredって詰まりベタベタ直接的に接触した状態を常とすることね。例えば、抱っこって言われたら必ず抱っこするような。それってみらんくんの為にはならん。自分の足で歩けたり、上り下り出来るのならなんとかして自らの足で、文字通り立ち上がって進めるようにしてあげるのが親。泣きそうだからって、はい、抱っこってやっていたら、絶対甘えたになるだけで、それは親のエゴの現れ。

うちの子を失敗作にしたくないからね、親との距離感や関係性において、も。

何かしらの許せない事項をおいらたちどちらかか、どちらにも持つ可能性は全然否定しない。親子なんて衝突するに決まっているんだから。実際100%全て順調で、何もかも親のことを聞いて、そのとおりに、なんてアホの極地のみらんくん、絶対見たくないよね。自分で考えて、それで動きなせぇって思うわな。


親がいつまでも居るなんてのは幻想以下でしかないんだから、自分で考える能力付けさせて、自分でFrameworkセッティング出来るようじゃないと絶対に痛い目に遭うんだからさ。もちろん、守る時は守る。徹底的にね。

ちょっとエゲツないことを書くんだが、、、

親を殺したくなるようなことがあったかなかったか知らないが、1995年までは尊属殺人と言う規定が刑法200条にあった。それは親とか親族を殺したくなるようなことがあって、それを止めるためでもある、と言う言説を大学の刑法の時に聞いた(それが絶対的な法的解釈とかではないことはよーく分かってます…)。なるほどねぇ、って思ったもん。おいら、かなり屈折していたからさ。普通の殺人罪より重くしているのは、自重させるためか、と。ふむふむ、と、ね。この件については、これ以上は書かないけど、おいら的には、うちの子にそういう考え方も現に日本にはあったのね、そりゃ納得だわ、なんて言うことを思わせたくない。

最近はね、階段降りる時に、抱っこって言っても絶対しない。
でもね、パパとママを使い分けているんだよね。

ママには抱っこって言うとしてくれて、パパにはひとまず言ってみるけど、してくれないってことで自分で歩こうってなっている。時に抱っこしてあげなければいけないときがあり、寧ろそういう時はこっちから抱っこするよ、と言う。今日の保育園の帰り道も雨降ってきたから、抱えて走ったしw。代官山に居るときもそうした。けど、日常で、特に急いでいたり、物凄く体調が悪かったり、天候不順で歩かせられなかったり、とかそういう時ではない限り、歩かせる。

これは、抱っこか、歩くことか、自体の話よりも、要求すれば必ず通る、なんていうことは通用しないことを理解して欲しい。
ましてや、泣いたらそれがまかり通る、なんて言う話、絶対許さない。
泣きたいな、泣くに相当する事由があるな、と思った時は、ちゃんと泣かせてあげるけど、意味が通らないと思った時は、普通に、まだ泣きますか?って言う。まだ今は言わないけど、そのうち言う。

抱っこすること自体が悪とか言う言説が昔はあったみたいだけど、そういうの、どうでも良い。

そういう信念や観念で揺り動かされてみらんくんを育てるつもり、毛頭ないから。そんなのに拘ってるような話とか、まだあるんだなとか思っちゃうよね(失笑)。制度や社会通念で育ちや知性が変わるとか、極論を言えば、北朝鮮の軍人のような人ばかりになりかねない訳でしょう?寧ろ、大政翼賛会的な社会情勢でも、赤狩りとかで捕まらず、上手く立ち回れるような知性や感性、また、人との距離感や言葉に対しての影響度合いを推し量れ、生き延びられるような子、人になって欲しいと思う。何はともあれ、自分で道を切り開かずとも、誰かに道を作らせて、何にも妨げられずに自分の思う道のゴールにどうにかして生き残って辿り着いてもらえればそれで良いと思っている。


まだ、この世に生を受けて700日。
まぁだまだ。
この先もっと全然楽しいよ。
みらんくん、もっと話したい。
君が何になりたいのか、そのゴールの頃はおいらたちは居ないだろうけど、その時に、パパとママと話したことが役立ってるってちょっとだけでも良いから思ってもらえるように、親としてはアシストしてあげたいな。

何はともあれ、生まれてきてくれてありがとう。

現時点、生後700日の1歳11ヶ月の段階でおいらが思っていることは上記のような感じです。時が経ったらアップデートするかもですが、今の処は感謝とそしてどう育てたいか、こんな感じで思っているよ(この文章、いつ読むんだろうなぁ…)。

愛してるよ、みらんくん。



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