MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



アイルトン セナが存命だった90年代初頭に、マクラーレンホンダのライバルは時に、ルノー、ウィリアムズ、そしてFerrariだった。


宿敵であるアランプロストが89年にマクラーレンホンダを去り、ルノーを経て、Ferrariに移籍した時に、赤い跳ね馬、Cavallino Rampanteを操るこの男、この車はなんなんだ?と。当時はMP4シリーズがホンダエンジンを乗せていたので、日本人的には其方側になっていたが、当時はマクラーレンが日本で走ることはなく、Ferrariのサウンドが街中で聞こえてくると、実は密かにいつかはFerrari、と思って過ごしていた。


然し、このメーカーは高い…。
何しろ、Ferrari。


ところで、おいらはMilanoでのMBA時代、卒業要件にインターンがあり、LondonでMUJIのヘッドクオーターがありそこで働かせてもらった。が、実は、フランス国内のFerrariディーラーネットワークのCRMのインプリのプロジェクトに誘われ、interviewを受け来て欲しいと、言われていた。大学院側からの、斡旋でもあったのだが、どうしてもフランス国内を転々とするのが嫌で断ったんだよね…。いや、定住出来ないのに、ホテル代とかは自腹っぽかったから。。。結果、UKに移住し、Londonで改めて奥さんと話をしたからこそ、今の生活があるし、みらんくんが産まれてくれたのだが、あの時、Ferrariのインターンをしていたらどうなっていたのだろうか、とたまに思い出しては、、、と、心の中に引っ掛かる棘げが刺さったままであった。ある種、トラウマのように。


昔はいつかはクラウンと言う言葉があったらしいが、おいらはいつかはFerrari、と思いながら働いてきた。


それが、夢であり、叶えるべきものと思いながら生きてきたものが叶うこと…。やっぱり、Mシリーズが出たポルトフィーノも捨て難たかったけど、Romaを選んだ。それも赤。やっぱり、赤い跳ね馬なのである。黒やら黄色やら青などがたまに走っているが、Ferrariと言えば赤。


何も知らなかったおいらに懇切丁寧に説明してくれたディーラーの担当者の方には大変感謝している。いつかはFerrari、この後の道のりの再設計をせねばならないね。夢は叶えたらその後に新たな夢を設定する必要があり。Ferrariからの次なる目標となる夢、これをFerrari納車となるまでに色々と考えたい。

 

#Aprilfool



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