MilanoからLondon、東京に移り住みましたが、変わらず日常生活を書き記そうかと。。
ミラノ通信 - 我が為すことは、我のみぞ知る



渡辺美里の曲ではありません…

ジョホールバルの歓喜から10年です。1997年11月17日から丸10年。。98年のフランスワールドカップのアジアの第三代表の枠をイランとマレーシアのジョホールバルで争ったあの日から10年だ。

結果から言えば岡野雅行が散々ゴールを外し、全然年下の中田英寿から試合中にガッツリ怒られ、監督の岡田からシュート打てよ!と怒られた挙句、最後の最後にシュートを決めたあの日から10年です。

おいらは、1997年11月17日は吉祥寺のHUBと言うバーで最後の決戦を迎えた。大学4年生だったおいらは、試験とかは何もなく、翌週から秋学期の試験休みでNYに行くことが決まっていた。だからジョホールバルに行こうと思っていたんだけど、泣く泣く東京で最後の決戦を観たのだった。因みにおいらの弟はジョホールバルに行ってますからね。

岡野が最後の最後でゴールを決め、ベンチに掛け付けて来る時には、おいらたちサポーターは、吉祥寺のHUBの中でビールを掛け合って死ぬほど泣いた。誰か知らないおっさんや女の人と抱き合ったりしたけど、もう男なのか女なのか分からないほど騒いだし、泣いた。

サッカーで泣いたのは2回目だ。

1993年10月28日、ドーハの悲劇以来だ。ちょうど誕生日だったその真夜中、カズがスライディングしたけど届かなかった右コーナーからボールが上がり、ヘディングされたボールが松永の横をすり抜けて行ったその瞬間、自宅にいたおいらは椅子から転げ落ち、失神した。中継していたNHKは気付いた時には次のゲームを中継していたから相当沈んでいたらしい。その時は悲しみの涙だったが、ジョホールバルのは歓喜では喜びの涙だった。

あの涙から10年だ。

10年経った今夜、U-22が北京オリンピックの予選でベトナムで戦う。我々が気持ちを伝えたあの10年前の時から時間は経っているが、気持ちは変わらない。今戦っているU-22の選手は10年前のことなんか覚えていないかも知れない。が、日の丸を背負うお前らには、常に俺たちサポーターが付いている。

絶対負けるな!

勝ち続けなければならないんだ。日本のサッカーの歴史の1ページを汚すな。10年前初めてワールドカップに出てから、自国開催、そしてドイツとA代表は歴史を紡いでいる。アトランタオリンピックに出て以来、シドニー、アテネとと出続けているのだ。ブラジルのように、連続して出る意味があるのだ。

絶対負けるな!勝て!
勝って日本に戻って来い!



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« ボジョレーパ... バイク購入… »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。