思い出のメモ

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采女城跡

2006-01-04 | 
采女城跡
采女町字北山(采女町)
城主 後藤氏
内部川とその支流 足見川が合流する内部川左岸で泊丘陵南端に位置
南に内部川を臨む標高50~70mの丘陵地形の尾根筋を利用し築く
比高は30~50m、城の西から北側にかけ深い谷がめぐり、東も谷が入り込む
城域内にも二つの谷が入る、この谷によって三つに分かれた丘陵尾根に九つの郭を配置
谷は城内に通ずる通路となっている
郭は深い堀と土塁でほとんど独立した形態をとる
主郭30m~50m×60m、中央に素掘りの井戸が残る
西の丘陵先端部に築かれた郭の南西端の丘陵端部に五輪塔が数基祀られている?
高い土塁、深い空堀、虎口等の屈折した形態、櫓台の存在など北勢地方における戦国期の典型的な城館のあり方を示し遺跡の保存状態も良い
四日市市日永の追分で伊勢街道(参宮街道)と分岐した東海道に近く交通の要衝の地に位置する
現在 内部川左岸の道路脇に後藤家 采女城跡の碑があり、案内板が設置され、登山口から本丸への道が整備されている。(ロープも設置)
後藤伊勢守基秀は文応元年(1260)先陣武功があって、三重郡采女郷の地頭職となり采女山(北山)に城郭を築いた
以来3百有余年続いたが、後藤采女正藤勝の時、織田信長の侵略に遭い、関家、蒲生家に一味して戦ったが、永禄11年(1568)に落城、
城主・藤勝は討ち死に、千奈美姫は城郭の深井戸に身を投げた秘話あり
南部丘陵公園と尾根続きであり(尾根鉄塔付近に水準点あり)、城の脱出路に最適、小古曽城、日永城に通じたのではなかろうか。



主郭の広場(説明板の近くに井戸があります)


空掘と二の郭


櫓台の推定地に標識ができました


八の郭から内部川が良く見えます

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