下笠田城跡
2006-04-22 | 城
下笠田城跡
いなべ市員弁町下笠田字旭
城主 多胡寛元
員弁川左岸、明智川左岸、北勢線の めがね橋・ねじり橋通過時 東に見える丘陵。
台地に東光寺があり南北朝時代に美濃の土岐氏と伊勢の北畠氏との戦場になり戦死した人を葬った五輪塔が集められている、先端の畑にシロヤシキ(城屋敷)の地名が残る。
多胡大蔵太夫の居城、建武年間当地を押領代々居住、
多胡大内蔵助寛元は四十八家の内
永禄6年(1563)多胡刑部助、秀吉に従い墨俣へ出陣、永禄11年(1568)信長の北勢侵攻により降伏、天正5年(1577)秀吉より多胡刑部助へ感謝状
天正17年(1589)11月 多胡寛元は秀吉に小田原の陣に従い出陣、翌年41歳に戦死
シロヤシキ(城屋敷)と呼ばれている畑
尾根先端部にあり、出土品がでたそうである、西側は急峻な崖で中腹に水路が引かれている
東光寺
東光寺横にある、子安地蔵尊、その後ろに五輪塔がたくさんある!
八幡神社
めがね橋(後ろの森は八幡神社)
ねじり橋
いなべ市員弁町下笠田字旭
城主 多胡寛元
員弁川左岸、明智川左岸、北勢線の めがね橋・ねじり橋通過時 東に見える丘陵。
台地に東光寺があり南北朝時代に美濃の土岐氏と伊勢の北畠氏との戦場になり戦死した人を葬った五輪塔が集められている、先端の畑にシロヤシキ(城屋敷)の地名が残る。
多胡大蔵太夫の居城、建武年間当地を押領代々居住、
多胡大内蔵助寛元は四十八家の内
永禄6年(1563)多胡刑部助、秀吉に従い墨俣へ出陣、永禄11年(1568)信長の北勢侵攻により降伏、天正5年(1577)秀吉より多胡刑部助へ感謝状
天正17年(1589)11月 多胡寛元は秀吉に小田原の陣に従い出陣、翌年41歳に戦死
シロヤシキ(城屋敷)と呼ばれている畑
尾根先端部にあり、出土品がでたそうである、西側は急峻な崖で中腹に水路が引かれている
東光寺
東光寺横にある、子安地蔵尊、その後ろに五輪塔がたくさんある!
八幡神社
めがね橋(後ろの森は八幡神社)
ねじり橋
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます