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ヒスイ原産地の発見

2020年04月18日 | ナンバ歩き研究会
ヒスイ原産地の発見
日本で最初にヒスイ原産地が発見されたのは、1938年8月のことである。場所は新潟県糸魚川市を流れる姫川の支流小滝川であった。発見のきっかけとなったのは、糸魚川市出身の相馬御風(そうまぎょふう)氏の発想による。御風は、叙情歌人や自然主義評論家として活躍し、早稲田大学の校歌「都の西北 早稲田の森に......」の作詞や良寛さんの研究で知られている学者である。御風は、「古事記」に見える「高志(越)の女王沼河(ぬなかわ)姫がヒスイの頚飾りをしていたとすれば、そのヒスイは、この地方の産かもしれない」と考えた。この言葉によって姫川の散策が意図的に行なわれ、原産地が発見された。そのときに原塊から割り取られた硬玉破片の一部が、偶然、東北大学の河野義禮(こうのぎれい)氏の知るところとなり、1939年11月発行の「岩石鉱物鉱床学」(第22巻第5号)に「本邦における翡翠の新産出およびその科学性質」として発表された。これがヒスイの学界第1号の報告となった。ところが岩石の専門誌に発表されたため考古学者は、まだその発見を知らずにいた。河野の報告に気づいた旅順博物館館長の考古学者島田貞彦が1941年5月発行の「考古学雑誌」(第31巻第5号)で紹介して初めて考古学界が知るところとなった。1954年、56年、58年二は、日本考古学協会会長の藤田亮策氏を中心として、ヒスイを出土する糸魚川の長者ケ原遺跡が調査され、縄文中期の硬玉製大珠の加工の実施が確認された。
この前後から、考古学では「ビルマ産ヒスイ説」等は聞かれなくなった。小滝川ヒスイ峡は1955年3月に、青海川ヒスイ峡は1956年に、国の重要文化財(天然記念物)の指定を受けた。硬玉の原産地は現在①新潟県糸魚川市の小滝川と青海町の青海川を一括する糸魚川産地、②鳥取県若桜町角谷の若桜産地、③兵庫県養父郡大屋町加保の大屋産地④岡山県大佐町の大佐産地、⑤長崎県長崎市の長崎産地が知られている。ほかに、ヒスイに類似する石で通称「......ヒスイ」と称されているものに⑥北海道日高町千栄の日高産地、⑦長崎県大瀬戸町の雪ノ浦産地が知られている。また、未確認だが海底に想定されているものに⑧富山県朝日町の宮崎産地がある。このうち、考古学の遺物として加工されているのは①の糸魚川産地のものに限られる。京都大学原子炉実験所の非破壊による蛍光X線分析法によれば、北海道から九州までの全国で出土しているヒスイ製遺物は時代を問わずすべて糸魚川産としてよいという。

明星山の裾を削るようにして流れる小滝川には、大きなもので直径3メートルにもなる翡翠の岩塊が、清流に洗われて緑白色の艶やかな肌を見せている。1985年7月に筆者は、韓国慶州博物館学芸員の雀鐘圭(チエジジヨンキュ)氏(現在、国立公州博物館長)と夫人の禹枝南(ウジナン)氏を小滝川に案内する機会があった。崔ご夫妻が韓国と日本のヒスイ文化の比較に関心をもたれてのことで、急きょ訪ねることとなった。あいにく当日は小雨で、姫川本流は泥流が渦巻いていたが、それを押しのけるように小滝川から青緑色の清流が注ぎ込んでいた。その色を見て、「翡翠の色が溶けて流れているのですね。この感激は忘れません」とご夫妻の言葉。ヒスイ狭の硬い岩脈には流れ出る土塊がなくなっているのであろうか。それは神秘の色であった。何度かヒスイ狭を訪ねている私にとっても忘れられない光景であった。韓国のヒスイ製勾玉は日本製であるとする説があり、その諸問題を意識しての見学であった。

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