台湾大好き

2016/02/01から90日滞在予定。

四大原則の相関関係

2020年03月31日 | 健康増進
四大原則の相関関係
これまで、心身統一の四大原則を一つずつ説明してきたが、この四つのことを同時に行なえということではない。私が日本国内および欧米で心身統一を教えるたびに、次のような質問を受ける。「心を臍下の一点にしずめながら、身体の下側を考えたり、同時に氣を出すと考えたり、とても一度にはできません。心は一つしかありませんから」もっともな意見である。私だって一度に異なることを同時にはできない。寝ながら立てというようなものである。

たとえていうなら、四大原則は、心身統一という山を上るための四つの登頂ルートのようなものと考えたらわかりやすいと思う。心身統一の四大原則も、言葉は変わっても目的はまったく同じ。すべて同じことをいっているのである。だから、四つのうちどれか一つがしっかりと体得できれば、ほかの三つも自動的にできるようになるのである。大別すると第一と第四は心の法則、第二、第三は身体の法則である。心身は本来一つである。心の法則と身体の法則が、車の車輪のごとく、一致して動くのが真の統一である。もし第一から心身統一することが難しかったら、第二、第三、第四のしずれかをやってみるといい。あまり難しく考えず、できそうなものからやることだ。順番は関係がない。心の法則がうまくできなかったら、からだの法則を用いればいい。身体を使ってうまくいかないときは、心の法則を考えたらいいのである。どんなとき、どんな場合でも、この四つの法則のどれかはできるはずである。

全身の力を完全に抜く

2020年03月30日 | 健康増進
全身の力を完全に抜く
原則の第二にある「全身の力を完全に抜く」とは、要するにリラックスすることである。張りつめたままの弓がすぐ使えなくなるのと同様、人間も緊張したままでは疲労し、病気になってしまう。最近の医学界の発表を見ると、現代病の80~90㌫はストレスや過度の緊張の連続といった神経によるものから引き起こされているという。医者は患者に、リラックスして神経を使わずにゆったりしなさいと教える。ところが、これがなかなかできない。そう教える医者自身が神経症の胃潰瘍になったり、心臓を患ったりしている。目まぐるしく変化する政治経済、複雑化する人間関係、受験戦争、騒音など、現代社会は人をイライラさせ、ストレスを感じさせるものであふれかえっている。新聞に報じられている殺人事件の記事を読むと、「なんでそんなことで人を殺すのか」と首をかしげたくなるようなささいなことが原因の場合が多い。ストレスがたまると、ちょっとしたことで爆発し、取り返しのつかない悲劇が起きてしまうのだ。人間の心は本来、静かなものである。だから、本当にリラックスしていれば、心に波はそう立たないものだ。しかし、現代人はストレスで身体を硬直させ、いつも心を波立たせていて心の休まるひまがない。

たとえば指先に一の刺激が与えられたとする。神経がこれを脳髄に一と報告するなら、これは正常である。ところが、これを100とか1000とかと報告しては、忠実な神経とはいえない。神経の異状報告である。風邪をひいているとき、髪の毛にはほんの少しさわられても身体中がぞくぞくする。暗闇を歩いているとき、木の葉が襟首に触れただけでキャッという。人にひと言注意されただけで、カッとしてケンカをする。これらは、みんな神経の異状報告である。最近の大きな社会問題である校内暴力の頻発は、ほとんどこの神経の異状報告に起因しているといってもいいだろう。神経が異状報告しては、脳髄もついには命令が乱れて、異状な行動を命令してしまうのである。だから、健康のためにも、健全な社会生活を営むためにも、すべての人がリラックスすることを心がけねばならない。もっとも、医者や私が大声で叫ばなくても、現代人はリラックスの重要性を知っているが、実際はなかなかリラックスできない。

なぜか?理由の一つには、多くの人が「リラックスするのは気持ちがよいが、弱い状態である」と錯覚していることである。心の底にそうした考えがあるから、いざというときにリラックスできないでコチコチになってしまう。ゴルフなどでも、ここ一番というときに身体が硬直して失敗したりする。リラックスとは「力を抜いた」状態をいうのであって、ルーズィング・パワー、つまり「力が抜けた」状態のことをさすわけではない。「力が抜けた」状態とは、虚脱状態のことだ。終戦後、戦地から帰ってきた私は、苦労したのだからしばらく温泉にでも行って身体を休めたらどうか、といわれた。しかし、私はそれを断り、翌日から畑を耕した。氣がゆるむことを恐れたからだ。氣がゆるんで虚脱状態になると、人は病気になる。後で聞いたところによると、温泉に行って氣がゆるみ、自然に衰えて死んだ戦友が何人もいたが、私は病気ひとつしなかった。風邪をひくのも氣がゆるんだとき、「氣が抜けた」ときである。第一線で活躍していた人が定年になったり、引退して隠居をしたりすると急にボケたり、生氣がなくなったり、身体が弱ったりするのも、氣を出す目的を失い、虚脱状態になってしまうからだ。リラックス、「力を抜く」というのは本当の意味の「ドゥ・ナッシング」であり、天地に任せきって何もしない状態、すなわち心身統一の一番強い状態のことなのである。

心身統一の四大原則

2020年03月29日 | 健康増進
心身統一の四大原則
①臍下の一点に心をしずめ統一する。
②全身の力を完全に抜く。
③身体のすべての部分の重みをその最下部におく。
④氣を出す。
この四つの原則は、仕事をしながらでも、寝ながらでもできる。よく「名人に二代目なし」といわれるが、それは名人・達人と呼ばれる人たちは自分でも氣づかずに心身統一を会得し、技に磨きをかけていても、その理屈がわからず弟子たちに教えることができなかったのだろうと思う。会得したものを教えられないのでは意味がない。次の項では、四大原則の一つ一つについて、わかりやすく解説してみよう。臍下の一点に心をしずめ統一する日本では古くか「腹」を大事にしてきた。「腹を決める」「腹を据える」「腹に収める」「腹が太い」、そして心から笑うことを「腹が笑う」といい、信頼できる人と本心を語るのを「腹を割って話す」という。死地に赴いたり、絶体絶命のところに追い込まれたりすると自然に腹ができてくるが、その難局を乗り越えて初めて腹ができるのであって、難局に腰を抜かしたりガタガタしたりしているようでは腹などできるものではない。そのために先人は座禅したり、滝に打たれたりして、事前に腹を鍛えることに励んだのである。あるドイツ人が日本で弓の修行をし、帰国して「HARA」、つまり「腹」というタイトルの本を出版してベストセラーになった。後に日本語で出版されたので読まれた方もたくさんいるだろうが、何のことはない、逆輸入である。頭でものを考え、理知的にものを処理することに慣れた欧米人が「腹」という本に関心を持ったというのは注目に値する。その結果、禅や茶道などを求める欧米人が増えたことも事実である。私も腹を鍛えようと、若い頃参禅に励んだ。京都の老師から座禅を学んだとき、「臍下丹田に力を込めて、しっかり坐れ」と教えられた。臍はヘソのことで、丹田は下腹部の面積を意味する言葉であるから、「臍下丹田に力を込める」というのは、つまり「下腹にぐっと力を入れろ」ということなのである。

それで、私もいわれたとおりに「ウン、ウン」と力みながら坐ったのだが、頭に血は上ってくるし肩はこる。昔の人はこのつらさを乗り越えてきたのだからと思い、心を奮い立たせて坐っていたが、徹夜では眠りに落ちてしまったりして心身統一どころではない。やはり、どこかに無理があるのだ。「臍下丹田に力を込めろ」という座禅の方法は理屈に合っていないことを感じていた。田で農作業を手伝っていたとき、下腹に力を入れて鍬を使ったらすぐに疲れてしまい、続かなかった。それに鍬を十分に使うことができなかった。合氣道の稽古のときも、下腹に力を入れては技も相手にかからない。道を歩くときも、下腹に力を入れたのでは歩けない。つまり、日常生活の上でまったく役に立たないのである。軍隊時代、戦地の中国で、敵地への夜間偵察に何度も出かけた。10人ほどの兵隊を連れ、足音がしないように地下足袋をはいて出かけるのである。初めての偵察のとき、下腹に力を込めて「さあ、行くぞ」と氣合いを入れるのだが、いっこうに心がしずまらない。力を入れれば入れるほど心臓がどきどきしてくる。いつ弾丸が飛んでくるかわからない敵地の暗闇に足を入れるのだから、氣持ちいいはずがない。そうかといって下腹など役に立たないと放棄してしまうと、暗闇が目の前に立ちはだかって一歩も敵地に入っていけない。それではしかたなく、「まあ下腹は大事だから、下腹に氣をつけて出かけよう。なんとかなるだろう」と出かけたら、以外と度胸がつき、後は割合楽だった。

そんな偵察を繰り返しているうちに、「そうだ。下腹は力を込めるところではなく、心を集中する場所だ。つまり氣を下腹に集中させるのだ」と氣がついた。しかし、臍下丹田、つまり下腹では心を集中させるのには広すぎる。やはり一点に帰さねばならない。そこで私は心をしずめるのは「臍下の一点である」としたのである。臍下の一点とは、ヘソ下約10センチぐらいのところで、昔から「ヘソ下三寸」と呼ばれてきたところである。この一点を指で押さえ、下腹に力を入れてみて、もし力が入るようだったらその一点は少し位置が高い。徐々に位置を下げると、力を入れようとしても入らない場所ある。そこが臍下の一点である。臍下の一点はどんなに力を入れようとがんばっても入らないところだから、ここに心を集め、しずめれば、全身の力も抜けてくる。これが本当のリラックスなのである。心をしずめるということを、どうしても難しく考えてしまう人がいる。だが、無理に意識しなくとも「臍下の一点はここにある」と思っていれば自然に心はしずまり、そして統一ができてくるのである。

気功法に意義あり

2020年03月28日 | 健康増進
気功法に意義あり
いま、気功法がブームであるらしい。たしかに、テレビや雑誌などあちこちで気功師が登場しては、摩訶不思議なパフォーマンスを披露している。中国の気功師が、手から発射する氣によって他人の手足を操ったり、あるいは日本の気功師たちもがんばって、数メートル離れた男たちを「エイッ」などと掛け声かけるだけで吹っ飛ばしたり、まるでマンガの世界のようだ。合氣道十段、世界中で演武を行い、プロレスラーや大男たちを投げ飛ばしてきた私でもそんなことはできない。読者の皆さんはできますか?客観的にはっきり確かめられたなら、そうした超能力みたいなものを信用してもいいが、自分の目で確かめもしないですぐに鵜呑みにするのは愚かなことだ。ある人が大金を出してフィリピンの有名な心霊手術者に胆石を取ってもらい、喜んで帰国したのだが、検査を受けたら胆のうには相変わらず石が残っていたというかわいそうな話もある。やはり、ありえないことはありえないし、不可能なことは不可能なのである。氣を商売にする人にとっては、氣は何か特別なもの、神秘的なもの、不思議なものであってほしいのだろうが、残念ながら氣ほどありふれたものはないのだ。私は氣が誰にでも出せることは何十年も教えてきたし、誰でも使えるからこそ、教える価値もある。だいたい、走っている車のタイヤを超能力で「エイッ」とやってパンクさせるといっても、驚くべき話ではあるが、それが何の役に立つというのか。そんなことより、パンクしたタイヤを「エイッ」とやって直すことができたら、どれほど社会の役に立つことだろう。

気功法ブームに巻き込まれている人たちにいっておきたいのは、中国の気功師たちの氣についての理解が、実は不足しているということである。中国の考え方では氣は使ったら減ってしまうから、気功師たちは氣をためておいて、めったなことでは使わないという。だから、実際に気功師たちによる治療(外気治療)が大病院で行なわれているが、何日か通って効果のない人はもう彼らの治療は受けられない。氣を無駄には使えないというわけだ。氣は使えば使うほど消耗するのは事実で、気功治療師に以外と病人が多いのも、患者に氣を取られてしまうからだ。しかし、天地の氣と耐えず交流している人間は別である。こういう人は氣を使えば使うほどまた氣が入ってくるから、ますます健康になる。気功師たちはそのことを知らないのである。使ったら減るような氣は氣ではない。それは「気」だ。すでに氣づかれた方もいると思うが、私は氣を「気」とは絶対に書かない。漢字は表形文字であり、「気」では天地のエネルギー、パワーを表してはいないからだ。もともと、この氣という字体は中国から来た文字である。昔、文字のなかった日本は、中国から文字が入ってきたときに、その便利さゆえにさっそくそれを取り入れた。中国では文字の形に意味があるが、日本語には音に意味がある。これはどういうことかといえば、天地のとらえ方が違うのだ。だから、日本では中国語の読みと日本語の音を両方生かしておいた。つまり音と訓である。ところが、氣という字には音も訓もない。ただ「き」と読むだけだ。しかも、この「き」は、中国語の音ではなくて日本語の音なのである。

中国では氣を「ち」と読み、「き」とは読まない。「き」というのはあくまでも日本語の音であり、古代日本では天地の、あるいは大地の力をさして「き」といっていた。そして、これが合いそうだというので当て字をしたのが氣という文字だったのだ。この氣という文字は、もともとは雲の形からできたのではないかと私は考えている。学者諸氏は、米を主食にしていたから中に米という字を書いたと説明しているが、そうではない。上の「气」という部分は天体をかたどっており、下もまた米ではなく、八方に開いている姿をかたどっている。つまり、てんたいの下で生命エネルギーを四方八方に放出していく状態を表したのが、もともとの「氣」という文字の意味で、氣とは出すものなのである。しかし、最近のように「米」ではなく「メ」(締める)と書いてしまっては、氣を内側に閉じ込めるという意味になってしまう。これは、古代中国では氣が一方に出れば他方が少なくなる、だから出口を締めてできるだけ氣をため込んでおくほうがいいと考えていたので、その影響を受けてのものだ。氣はもともとためるものではない。氣は出すから入ってくるのである。天地の氣と人間の氣が交流することを「息」というが、息が一時的にとだえれば氣絶する。永久にとだえてしまえば死ぬ。つまり、天地の氣と人間の氣の交流が止まったときが死なのである。氣を出していればこそ、生き生きとした健康な生活が送れるのである。


氣の威力b

2020年03月27日 | 健康増進
氣の威力b
メルビン博士との対話
1974年、私はカリフォルニア州立フラトン大学で、サマースクールの講義を6週間ほど行なった。ラトン大学では心理学と並んで「キ・ディベロープメント・インスティテュート」という科目を新設してくれたのだ。心理学科は心だけを説き、体育学科は身体のみを説く。人間は本来「心身一如」、すなわち心と身体は一つのものである。それを無理に心理学と体育学に分けるから問題が解決しないのであって、「心身統一科」をつくらなければいけないというのが私の持論であった。日本の大学ではどこも耳を貸さなかったが、アメリカではハワイ大学、ポートランドのルイスアンドクラーク大学が注目し、フラトン大学ではついに前述の新学科の設置に踏み切ったのだ。「キ・ディベロープメント・インスティテュート」のキは「氣」である。講習会には学生だけでなく、医者、弁護士、大学教授など300人あまりの人々が参加してくれた。遠くダコタ州のダコタ大学心理学教授のテーリー・ガンター博士、ジョージ・ブリード博士、フィラデルフィアのペンシルベニア大学物理学のメール・メルビン教授、フラトン大学の哲学教授スティーブ・サイモン博士や、ラウサン・ツアイ心理学教授も熱心に聴講しに来てくれた。

ツアイ教授は、犬と猫とネズミを飼育して共同生活させるという実験をし、ライフ誌に大きく取り上げられ、猫とネズミのような宿敵同士でも平和に共存・生活ができるのに、人類はなぜ平和に共存できないのかと説き、ノーベル賞候補にまであがった方である。私は昼休みの一時間を利用して、参加者とさまざまな質疑応答をした。そのとき、物理学教授のメルビン博士が次のような質問をしてきた。「先生、音や光は数字で表せますが、氣を数字で現れますか。また、表した人はいるのですか」「できます。表した人もいます」「それは誰ですか」「私です」私が笑顔で答えると、会場は笑いにつつまれたが、メルビン教授は真剣な表情を崩さなかった。「では、どうやって表すか教えていただけますか」「数字はまず一を仮定しますね。一を仮定しなければ数字は成り立ちません」「おっしるとおりです」「その一が問題です。宇宙も一なら、人間も一、石ころも一です。いまここに一があるとします。これを二分一にしても、その二分一の一自体は一です。これを無限に二分の一にしながら追っていったらゼロになりますか」「ゼロにはなりません」「この一はどこまでさかのぼっても一、つまり無限小の一です。この無限に小なるものの無限の集まりを総称して「氣」というのです」皆私の答えに拍手を送ってくれた。たしかに数学的説明には違いないというわけである。これを般若心経では「色即是空、空即是色」といっている。お経にすると難しいが、数学にすると子供でもわかる。メルビン教授は「無限では計算に困る」と盛んに首をかしげていたので、会場は再び笑いにつつまれた。