特に、韓国の考古学界で注目を集めているものに半月状勾玉がある。文字どうり半月形をした垂飾品で、一端に一孔を有するものと、両端近くにそれぞれ一孔を有するものとがある。近年の韓国の研究では、これらが勾玉の起源に深く関わっているとする。平安南道の龍興里遺跡で半月形勾玉が、中国の寮寧(りょうねい)式銅剣に類似する古式の細形銅剣、青銅刀子(とうす)、石斧(せきふ)とともに出土した。寮寧式青銅器文化葉、紀元前八世紀から同二世紀まで続くといわれている。その文化に属する中国潘陽市の鄭家窪子第6512号墓で半月形勾玉がみられる。管玉で構成された長さ1メートル近い頸飾りの主飾りとして垂下されている。それは龍興里遺跡とまったく同種といってよい。近年の韓国では、中国寮寧式の青銅器と一緒に半月形の垂飾品が朝鮮半島に流入して、だんだんと勾玉の形ができたとする説が有力である。たしかに半月の弦の部分をえぐって、かつ両端にある孔を一つにすれば勾玉形となる。合理的で魅力的な考えであるが、少しだけわからない点がある。
まず、半月形の垂飾品が起源とするならば、半决状勾玉出土遺跡より先行してそれが存在しなければならない。紀元前5世紀とされる龍興里遺跡は他の遺跡からみれば古そうだが、それでは一孔だけの半月形勾玉のソウル市の鷹峰洞やテグ市の燕厳山遺跡なども古いのであろうか。少なくとも弦(腹)部がえぐれた半决状勾玉出土遺跡より古くなければならない。この点が土器や遺跡の状態の検討から確認されているのであろうか。そして、半月形勾玉自身の弦部をえぐって成品としたものか、あるいは勾玉でいうところの腹部を作出しようとする未成品があればより確実となるのであるが。私は半島情勢に疎いいのでこれらの点がわからない。そこで、韓国考古学の主説にこだわらず、とりあえずつぎのように理解している。鰹目文器時代の先史勾玉が発展しバリエーションを生じたのが無文土器時代の牙形勾玉、獣形勾玉、不定形勾玉、半環状勾玉であった。これらには青銅器が伴ったとする報告は希なようだ。半島の風土で生まれ発達した勾玉類である。これに対して半月状勾玉は、龍興里遺跡はむろんのこと、京畿道の紫浦里遺跡でも古式細形銅剣と伴出しているという。寮寧式青銅器文化の流れの中で存在している垂飾品である。
他の勾玉との関係でいえば、起源となったとするよりも無文土器時代の中の垂飾品のバリエーションの一つであるとしたい。半月状勾玉は、あくまでも勾玉ではなく垂飾品とするのがよいと思っている。無文土器時代のもう一つ大きな特色は、勾玉の多くが「天河石」と呼ばれる緑と白色の明るい斑文様をもつ石で作られることである。別名アマゾナイトとかアマゾン・ストーンといい、微斜長石(びしゃちょうせき)の一種とされる。日本で、この石材による飾り玉の例を知らない。半島特有の玉材といってよいだろう。これによって、独自の玉文化の形成があったことを知ることができる。つぎに来るのが、原三国時代(紀元前後から起源300年頃)で、日本の年代では弥生時代の後半に相当する。慶尚南道山市の城山貝塚からは、長さが2.8センチの水晶製勾玉が出土している。これは私が、日本製の可能性があるとしているものである。また、金海市の府院洞遺跡からは土製勾玉が6個も出土し、ほかにも慶尚南道鎮海市の熊川貝塚で一個出土している。この時代においても、依然として動物の牙勾玉が使われていて熊川貝塚や城山貝塚などで発掘されている。原三国時代の遺跡はまだ多く発掘されていないが、現状では、ヒスイ製勾玉の検出は一点も認められていない。それが出現するのは、この後に続く三国時代に入ってからのことである。勾玉に関していえば、原三国時代と三国時代とでは大きな落差がある。
まず、半月形の垂飾品が起源とするならば、半决状勾玉出土遺跡より先行してそれが存在しなければならない。紀元前5世紀とされる龍興里遺跡は他の遺跡からみれば古そうだが、それでは一孔だけの半月形勾玉のソウル市の鷹峰洞やテグ市の燕厳山遺跡なども古いのであろうか。少なくとも弦(腹)部がえぐれた半决状勾玉出土遺跡より古くなければならない。この点が土器や遺跡の状態の検討から確認されているのであろうか。そして、半月形勾玉自身の弦部をえぐって成品としたものか、あるいは勾玉でいうところの腹部を作出しようとする未成品があればより確実となるのであるが。私は半島情勢に疎いいのでこれらの点がわからない。そこで、韓国考古学の主説にこだわらず、とりあえずつぎのように理解している。鰹目文器時代の先史勾玉が発展しバリエーションを生じたのが無文土器時代の牙形勾玉、獣形勾玉、不定形勾玉、半環状勾玉であった。これらには青銅器が伴ったとする報告は希なようだ。半島の風土で生まれ発達した勾玉類である。これに対して半月状勾玉は、龍興里遺跡はむろんのこと、京畿道の紫浦里遺跡でも古式細形銅剣と伴出しているという。寮寧式青銅器文化の流れの中で存在している垂飾品である。
他の勾玉との関係でいえば、起源となったとするよりも無文土器時代の中の垂飾品のバリエーションの一つであるとしたい。半月状勾玉は、あくまでも勾玉ではなく垂飾品とするのがよいと思っている。無文土器時代のもう一つ大きな特色は、勾玉の多くが「天河石」と呼ばれる緑と白色の明るい斑文様をもつ石で作られることである。別名アマゾナイトとかアマゾン・ストーンといい、微斜長石(びしゃちょうせき)の一種とされる。日本で、この石材による飾り玉の例を知らない。半島特有の玉材といってよいだろう。これによって、独自の玉文化の形成があったことを知ることができる。つぎに来るのが、原三国時代(紀元前後から起源300年頃)で、日本の年代では弥生時代の後半に相当する。慶尚南道山市の城山貝塚からは、長さが2.8センチの水晶製勾玉が出土している。これは私が、日本製の可能性があるとしているものである。また、金海市の府院洞遺跡からは土製勾玉が6個も出土し、ほかにも慶尚南道鎮海市の熊川貝塚で一個出土している。この時代においても、依然として動物の牙勾玉が使われていて熊川貝塚や城山貝塚などで発掘されている。原三国時代の遺跡はまだ多く発掘されていないが、現状では、ヒスイ製勾玉の検出は一点も認められていない。それが出現するのは、この後に続く三国時代に入ってからのことである。勾玉に関していえば、原三国時代と三国時代とでは大きな落差がある。
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