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岡崎公園 散策  『岡崎城天守閣へ』

2015年05月06日 21時00分00秒 | ぶらり散策
5月4日 小雨の降る中 岡崎市にある『岡崎公園』へと遊びに行った続きです。・・・



↑ 上の画像クリックで岡崎公園 園内マップが表示します。

 
  今回 散策したコースは適当なんで 何処をどう歩いたか?は

  さっぱり覚えていません

  画像も順不同ってことで ご勘弁を 





↑ この銅像 どこかで見たことがある像だなと 良く見てみると

←クリックで拡大表示

↑ 徳川家康が三方原合戦の負け戦の時 脱糞しながら逃げたって話しは有名ですね

  その時の悔しぃ思いを後々まで忘れないよう 

  逃げ帰ったままの状態のとき 描かせた「しかみっ面の画像」を元に作った像だったんですね



↑ よほど 悔しかったって様子が判りますね。








↑ 岡崎城をぐるりと囲むように堀も残っています。

  前回載せた噴水のある場所も堀の一部ですよ。




↑ しかし岡崎城って こんなに木が多かったのか? 遠い記憶から思い起こそうとしても

  無理ですが もっと城が大きく見える場所があったと思ったんですが・・・?




↑ 竹千代と岡崎城  竹千代の名は誰もが知っていると思いますが

  徳川将軍家の世子の幼名ですね。

  ただ知られていないのが徳川家康の幼少期の名だけではなく

  松平家から続き 徳川家でも代々 幼少期に使われていた名なんです。

  あっ 松平家は?って人もいるかもってことで

  松平家は 徳川家康が まだ徳川と名乗る前の姓で 最初は松平元康だったんですね

  松平竹千代 → 元服して名を松平次郎三郎元信 → 正室築山殿と一緒になり蔵人佐元康 

   →  織田信長と同盟を組んだ時 名を松平家康と改め 

   →  永禄9年(1567年)徳川家康と名乗るようになったそうな

  (竹千代wikipedia)←詳しくは、こちらで・・・



↑ 家康と岡崎城

  岡崎城は、家康の生まれた城で その後 人質として今川→織田と移動し 

  永禄3年(1560年)桶狭間の戦いのあと岡崎城を取り戻し

  元亀元年(1570年)家康が浜松城へと移るまで 岡崎城で頑張ってたんですね




↑ 東側から見た 岡崎城



↑ 南側から見た 岡崎城

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↑ 何故? 亀??  長生きと関係があるのかな?

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↑ 家康公の遺言



  さて天守閣へと登って 周囲の景色でも











↑ 最後の画像だけ 向きがわかりました。  北向きで「大樹寺」方面に向いています。

  ちなみに大樹寺は、松平・徳川家の菩提寺です。

  この「大樹寺」にも帰り道に寄り道してきているので 後で紹介しますね。




↑ 二葉葵  徳川家の葵の御紋は この葉より作り上げた図案でミツバアオイって植物はありません



↑ 神橋と 岡崎城がチョッピリ見えてます



↑ 石垣 苔むして いい感じになってます。



↑ 何故? 公園? もしかしたら もっと大きかったのかな? 上の部分が欠けて無くなったとか??





↑ 松平元康の像




↑ 北側より 岡崎城



↑ からくり時計塔






↑ 公園ってことで植物も撮ってきました。

  
  ではまた 






















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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
岡崎公園 (季楽)
2015-05-06 23:57:25
隈なく回って来たようですね。
これだけしっかり説明できれば、案内係りができるかも。
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岡崎公園 (ヤスケ)
2015-05-07 18:42:24
季楽さん
公園内は全部回っていませんよ。
岡崎城二の丸能楽堂・東照公産湯の井戸・東照公えな塚「家康公の「えな(へその緒)」を埋めた塚・茶室 葵松庵・船着き場跡・東隅櫓なども見たかったんですが また次回の楽しみに、とっておきました。
徳川家康公は浜松市とも関係が深く こちらでも色々なエピソードを残しているんで 岡崎での出来事も調べてみたく出かけてみました。
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