漫画家アシスタント物語 1~3章 22年改訂版 

ブログ「漫画家アシスタント物語」の第1章から第3章までをまとめました。 初めての方は、どうぞこちらから!

漫画家アシスタント物語 特別原稿「死亡少年」

2024年12月23日 15時29分02秒 | 漫画家アシスタント
                     「死亡少年」

              1987年「ヤングジャンプ」月例新人賞佳作賞受賞 


        この作品は、私が32歳の時に描いた作品で、「別冊ヤング
       ジャンプ」に掲載されました。死後の世界を描いた物語です。
       小さな漫画賞でしたが、運よく掲載していただく事が出来ま
       した。

        ただ、見開きページが多いので、少し読みにくいですが、
       どうか、ご勘弁ください。
 


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      ご覧いただきまして、ありがとうございました。 [2024 12]









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漫画家アシスタント物語 特別原稿「龍馬さんとボク」

2023年05月05日 01時40分07秒 | 漫画家アシスタント

               「龍馬さんとボク」


   この作品は、リョウさんが拙ブログのために描いてくれた作品です。(2009年)


                      
     


                      
     


                      
     


                      
     







             リョウさんのイラスト選集(6枚)

                      
     


                      
     


                      
     


                      
     


                      
     


                      
     





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漫画家アシスタント物語 特別原稿「お父さん」

2023年05月02日 14時39分40秒 | 漫画家アシスタント
ガンさんことツカサ久賀氏による連載漫画「親不孝通り」の中の傑作「第40話お父さん」
を特別に掲載いたします。

「親不孝通り」は1980年代に「別冊漫画ゴラク」に連載された、ソープランドを舞台に
繰り広げられる人情ドラマです。

ただし、古い原稿の上に画像の大きさに限りがありますので、セリフが読みにくいところ
があります。どうか、昔の白黒映画でもながめる気分でご容赦下さい。

 
 
 

              親不孝通り 第40話 お父さん

    


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       ご閲覧いただきまして、ありがとうございました。


 




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漫画家アシスタント物語 特別原稿「雨のドモ五郎」

2023年05月01日 12時01分26秒 | 漫画家アシスタント
                  「雨のドモ五郎」
            1987年ヤングジャンプ青年マンガ大賞準入選作品 


        この作品は、私が31歳の時に描いた作品で、ヤングジャ
       ンプ本誌に掲載された中年漫画家アシスタントの物語です。
       小さな漫画賞をいただいた事はあるのですが、本誌に作品
       が掲載されたのははじめてでした。
 


                       
        


                       
        


                       
        


                       
        


                       
        


                       
        


                       
        


                       
        


                       
        


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     ご覧いただきまして、ありがとうございました。









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漫画家アシスタント物語 第3章 22年改訂版 まとめ4

2022年12月11日 12時01分17秒 | 漫画家アシスタント

          
( この写真は、28年前にユミさんが使っていた古デスクです。秋山プロのアシスタント用デスクは
  8つありますが、今はその内の3つしか使用していません・・・・。《2006年2月撮影》 )  


 【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】



 
              その31 ・・・・・・・・・ 2006年03月05日 03時44分 (公開)



インベーダーゲームが流行った1979年昭和54年、春・・・・・・。 

私がジョージ秋山プロに入ってから1年後に新しいアシスタントが来る事にな
りました。

ジョージ先生の大ファンだった彼の名はA君( 栃木県出身、22歳 )。背景画の
技術は、秋山プロの画風とかなり違う、児童漫画的なレベルでした。

ジョージ先生が彼と同じ栃木県出身なので、気が合ったのか、すぐに弟子入
りが認められました。

A君は、藤子不二雄などの児童漫画や、童話の世界に憧れていたのだと思いま
すが、ドロ臭い油じみた秋山プロへ入って来た事がはたして彼にとって、幸
せな事だったのかどうか・・・・・

こっちにしようか、あっちにしようか、そんなちょっとした選択で人生の航
路が決まってしまうものです。


彼の出勤初日・・・・・・

とんでもない事が起きたのです・・・・・・

その日の朝、まだアシスタントが誰も出勤していない時・・・・・・

ジョージ先生はA君の席を、作画の参考になる様に画力№1のカンさん( 仮名:
菅原 浩二、神戸出身、26歳 )の隣に決めたのですが・・・・・・

この席は元々ユミさんの席なので、彼女の荷物を全て仕事部屋のスミの席に移
してしまったのです・・・・・・・。

 ( あくまで、技術的な事をカンさんの隣りで勉強させようと先生は考えた
  のです )


アシスタントたちが出勤してきます・・・・・・

この時間、私はまだアパートで寝ています。

A君は仕事場へ来て、自分の席( 前日まではユミさんの席! )に座り、他のス
タッフとあいさつをしょうとしていました。

そこへ、何も知らないユミさんがやって来ます・・・・・。

ユミさんは自分の席に見知らぬ男( 1週間ほど前に秋山プロに面接に来た時
に案内しているので、初対面ではないのです )が当たり前の様に座っている
のを見つけます・・・・・ 

はじめは理解出来なかった彼女ですが、すぐにその意味を悟りました。

自分の作画道具一式が・・・・漫画の資料が・・・・雑誌が・・・・私物が・・・・ゴミ箱さ
え・・・・雑然とスミの席に置かれていたからです・・・・・・!

ユミさんは、口を少し歪めながら目を見開き・・・・ 一瞬、固まります・・・・・・・。

 「 えェーーーツ? 何でェエエーーーッ?! 」

顔面蒼白のユミさんは、そのまま一言もなく仕事場を飛び出し・・・・・・・・・
 




           
( この写真は、現在の秋山プロの玄関ドアを外側から撮影したものです・・・・ 意味不明の札『 まことに
  勝手ながら本日は遊んではいませー 』(先生直筆)がかかっています。《2006年3月撮影》 )  




              その32 ・・・・・・・・ 2006年03月11日 03時48分 (公開)
 
 
 
ドアを開けて飛び出して行ったユミさん( 仮名:吉村由美子、?出身、自称
24歳。本当は27歳だった )・・・・・。 ( 1979年 冬 )
  
何が起こったのか他のアシスタントには事情がよく分らなかったのですが・・
・・・すぐにテラさん( 仮名:寺山 新一、博多出身、当時27歳 )が後を追いか
けました・・・・・・
 
しかし・・・・ ユミさんは戻りませんでした・・・・・・。

ホントに、糸の切れた・・・・・ユミさん・・・・・・・・

それきり、連絡もなくなりました・・・・・・
 

自分のデスクが勝手に移動された事が相当なショックだったのは確かだと思
うのですが、それ以外にも色々な事が重なったのかもしれません・・・・・・。 
 
性的潔癖症のユミさんに性的なジョーク( 当時の世相にセクハラなんて概念
はありませんでした )はまったく通じませんでした・・・・・・
 
たとえばカンさん( 仮名:菅原 浩二、神戸出身、当時26歳 )のこんな思い出
があります・・・・・・ 
 
仕事場でユミさんが先生にお茶を運んだ時の事です・・・・・

カンさんが冗談半分でユミさんのおしりをちょっと(!)さわったのです・・・・

その瞬間、彼女は手に持っていた木製のお盆でカンさんの頭を一撃!

木製とはいえ、固いお盆でで思い切り叩いたのです! 

カンさんは落雷に撃たれた様な頭頂部の激痛の中で・・・・・・
 
 『 痛ッテ~~ッ こ・・・・この娘には、冗談が通じねェ~! 』
 
歯を食いしばりながらそう思ったのです・・・・。 

そして、これ以外にも・・・・・・・

 
実はこのブログの「 第3章 その29 」で、「 ある先輩アシスタント 」が
ユミさんのスカートの中を覗こうとする話を書きましたが、初稿では当人を
仮名で表記したのですが・・・・・

その当人から「 事実誤認だ! 」との指摘を受け、すぐ( 公開から3日後 )改
稿しました。

その話が、ユミさんが秋山プロを辞める原因の一つになっていたかも知れま
せん・・・・・・。
 
その「 ある先輩アシスタント 」氏が語るには・・・・
 
 「 あれは××のホラよ! 確かに消しゴムを落とした事はあるけど 」

笑ながらも、目は真剣に氏は訴えます・・・・・

 「 のぞきなんかしね~っつ~のッ! だいたいユミさんはミニスカ
   ートなんかはいてたかァ?」

そういえば・・・・・・いつもGパンだったような・・・・・

  「 俺は、この事をユミちゃんに弁解する機会がないままユミちゃん
   が辞めて行った事が、悔しくてならねェ~んだよなァ・・・・ 」
 
私はさっそく××氏に真偽を確かめると・・・・・
 
 ××氏 「 じょ・・・冗談じゃ~冗談ッ! 」
 
・・・・と、ユミさんにホラ話をした事を認めた・・・・・。

しかし・・・・・ ユミさんに「 覗かれてるでェ! 」などと言う冗談が通じる
わけもなく・・・・・・。
 
確かに色々と不愉快な事があったのかもしれません・・・・・。

これは、私の推測ですが・・・・・ 

結局の所、ユミさんが一番好きだった( 惚れていた )のは、ジョージ先生ひ
とりであり、その先生に自分の席を隅に押しやられた事が、やはり大きな
原因なのではないか・・・・・と、思うのです。





           
( この写真は、27年前に住んでいた東京都豊島区南長崎のアパートの窓から見た隣の「トキワ荘」
  である。《1979年昭和54年 撮影》 )  




              その33 ・・・・・・・・・ 2006年03月17日 03時21分 (公開)
 
 
 
ジョージ秋山先生のアシスタントになった1978年( 昭和53年 )・・・・・・。 

その年の秋に高円寺( 杉並区堀の内 )から秋山プロの近く豊島区南長崎へ引
っ越しました。

私の父方の親戚が南長崎に住んでいたので、その紹介があって引越したの
です。
 
6畳一間に小さな流しが付いた木造アパートの名は「 うさぎ荘 」。その2
階の一番奥。 

高円寺のボロアパートが「 銀嶺荘 」と言い4畳半でしたから、少し広い所
へ出世(?)したわけです。
 
木造のボロアパート、ドロドロの共同便所・・・・・・もう、すっかり慣れまし
た。

でも、その新居で一番驚いたのは、お隣のアパートが、あの有名な「 トキ
ワ荘 」だった事です! 

入居してずいぶん経ってからそれを知りました。
 
私の角部屋の西側に「 トキワ荘 」があったのですが、ここの西日が強いの
で、いつもカーテンを閉め切っていました。

窓を開けると、かつて手塚治虫先生や石ノ森章太郎先生がいた2階の部屋が
真向かいに見えるわけです。 

その当時は、すでに「 トキワ荘 」の屋根瓦はその重みで中央部に歪みがで
きていました。 外壁も汚れ、全体にそうとう痛んでいました。
 
世の中は、空前のマンガブーム( 「 がきデカ 」「 ベルばら 」「 ドラえも
ん 」 )。

それなのに、漫画の原点( 聖地と呼ぶ人もいる )でもある「 トキワ荘 」が目
の前で崩れ落ちそうになっている・・・・・。 
 
漫画のヒットで出版社の社屋がボコボコと新築されたり、週刊マンガ誌の
発行部数が何百万部になったとかでマスコミに騒がれているのに・・・・・ 

あの「 トキワ荘 」が、見捨てられた様に崩れていく・・・・・・。
 
私は毎日複雑な気持ちで、窓の「 トキワ荘 」を眺めていました。
 
 
近所には「 トキワ荘 」で暮らした諸先生方の胃袋を満たしたラーメン屋さ
んが健在でした。私もよくラーメンやギョーザを食べに行ったものです。 

現在( ‘06年 )でも、お店が有りますが・・・・・・

店の内外にベタベタと漫画や色紙を貼ってアピールに勤めているのですが・・
・・・・残念なことに・・・・・・

当時の味も雰囲気も今ではすっかり消え失せてしまいました・・・・・・・・・・。
 
 
トキワ荘のある南長崎の商店街( 当時はとても賑やかだったのです )や、目
白通りの二又交番・・・・・・

私は胸までかかる長髪とちびたゲタをはいて、この町をクラゲの様にフワ
リフワリと浮いていたのです・・・・・・・・・・。 





           
( この写真は、27年前・・・「トキワ荘」正面玄関前から撮影した「うさぎ荘」2階の我が部屋の窓
  である。今は・・・もうない。《1979年昭和54年 撮影》 )  





              その34 ・・・・・・・・・  2006年03月25日 21時27分 (公開)
 
 
 
私が東京豊島区南長崎の「 うさぎ荘 」に越してきたのは1978年 秋・・・・23
歳の時でした・・・・・・。

部屋は2階の角、隣は無口な学生さんが住んでいました。 夜中に喜多郎や
イーグルスをガンガンかけて随分、不愉快な思いをさせてしまったのではな
いかと思います・・・・・・。

私は完全に夜型の人間でしたので、昼間はカーテンをしっかり閉めきって、
薄暗い部屋の中でウジウジと過ごしていました。

たまにその薄汚れた青いカーテンを開けると・・・・・目の前にボロボロの「 ト
キワ荘 」があったわけです。

 『 トキワ荘の2階・・・・この部屋だったのだろうか・・・・・石ノ森先生が酔っ
  払って窓から小便をしたのは・・・・・ 』

ボンヤリと視線をトキワ荘の内庭の地面に落とす・・・・・

その黒い地面に浸み込む石ノ森先生や赤塚先生の小便のシミ・・・・・今頃、
そんなものがあるわけないけど・・・・・・

誰もいない、寒々としたトキワ荘の内庭を眺めつつ、ふと・・・・想像したもの
です・・・・・。

 『 冬だったら、湯気がたっていたかもしれないなァ・・・ 』


毎日、お昼過ぎからの仕事に必ず遅刻して来る私に、先輩アシスタントは誰
一人として、文句を言ったりしませんでした。

しかし・・・・・ ある晩、仕事帰りに初めてリョウさん( 仮名:内海遼一、岡山
出身、25歳 )のアパートに行った時・・・・・

 リョウさん「 小池君(私)・・・ ちょっとヤバいかもしれないよ・・・・
       気を付けた方がいいよ・・・・。」

 私    「 え・・・・・??? 」

 リョウさん「 ジョージ先生はしばらく様子を見るんだよね・・・・。 そし
       て・・・・急に来るから・・・・ 」

 私    「 え・・・・・? 何が来るんですかァ? 」

 リョウさん「 小池君、危ないよ・・・。 」

この時、私はリョウさんの忠告をまったく理解していませんでした。 

ただ、ジョージ先生が私の事を相当怒っているらしい・・・・ってな事くらいは
理解したのですが、私は相変わらずノー天気に過ごしていました・・・・・・。


いつもの様に夜更かしして、床についたのが早朝5時・・・・・朝の7時頃まで寝
付けずにモンモンとしてから、やっと眠ったと思ったら時計は午後2時を指
している・・・・・!

午後の日差しは、トキワ荘の汚い屋根瓦に反射して、その西日と共に私の部
屋へ差し込みます。

私は寝汗をグッショリかきながらあわてて飛び起きる・・・・・・ 

その時・・・・

りりりりりッ・・・・! 電話が鳴る・・・・・ 

また・・・ 私はやってしまった・・・・。

 「 小池君~ン、仕事ですよォ~ッ! 」( おカミさ~ん、時間ですヨ~!
  みたいな・・・ )
 
ユミさん( 仮名:吉村由美子、?出身、自称24歳。本当は27歳。 )からの( 明
るい! )電話。

これは、彼女が秋山プロを去る数日前の出来事でした・・・・・・。

 私 「 すいませ~ん。すぐ行きますから~ッ!」

いつもは20~30分の遅れが、今日は2時間近い遅刻になってしまう・・・・・ 

額にビッシリとこびりついた汗をぬぐうヒマもなく、大急ぎで服を着て外へ飛
び出して行く・・・・・・。 

頭の中に真っ白な蒸気がズッシリと詰っている様な・・・・・・吐きそうな気分で自
転車をこぐ・・・・・・。

この時、私は2~3日前にリョウさんから言われた忠告などは、完全に忘れ去っ
ていた・・・・・

いや! 忘れようとしていた!





           
( この写真は、秋山プロのアシスタントの仕事場から見たジョージ先生の個室入り口である。
  《 2006年3月 撮影 》 )  




              その35 ・・・・・・・・・・ 2006年03月31日 21時34分 (公開)
 
 
 
1979年( 昭和54年 ) 冬。 

ユミさん( 自称24歳。本当は27歳。)が秋山プロを辞める少し前・・・・・・ 

私( 当時、24歳 )は2時間ほど遅刻して仕事場に入った・・・・・。

いつもユミさんは、30分ほど遅刻して来る私のために店屋物のうどんなどを
取っておいてくれていました。 

そのうどんが2時間近くたつと・・・・・・のびて、乾いて、とても人の食べ物とは
思えない変わり方をしていました・・・・・。

いつもの様にのっそりと仕事場へ入った私は、もう下書きを終えてペン入れを
始めている先輩たちに・・・・・。

 私    「 すいませんでした~ 」

いつもの様に先輩アシスタントたちに謝って、いつもの様に自分の席に行こう
とした時・・・・・・

 ユミさん 「 先生が呼んでますよォ・・・ 」

寝ぼけ頭の私には「 ただ呼ばれた 」という認識しかありませんでした。 

寝ぼけ頭についた二つのド遠視の目玉には、ただボンヤリと・・・・・・7階の窓か
ら、遠く新宿新都心が霞んでいる・・・・・・

 『 ちょっとヤバいかな・・・・ 』

私は恐る恐る先生の部屋へ・・・・ 

古い応接セットにはゴミと雑誌が散らばっている。 

ジョージ先生は6畳ほど洋間の窓際に机を置き、こちらに背を向けて「 浮浪雲 」
の下書き中だ・・・・・・

足元には何年も( ? )掃除をしていないゴミがどっさり溜まっている・・・・・・

暗い部屋の中で、窓明かりによってシルエットになった先生の丸い背中がとて
も大きい・・・・

ゴクッ・・・・ 私は蚊の鳴くような声で・・・・・・・・

 私  「 セ・・・ ン・・・・・ セ・・・・・・・・ 」

振り返った先生の顔は、赤黒くまるで仁王像の様な顔だった・・・!

 先生 「 おみィ~は、何、考ェ~てんだァ! 」

とても小さな声だが、その声はまさに地獄の底から響いてくる様な迫力が・・・・

 私  「 す・・・・・ すいませ・・・・・・ ]

 先生 「 もう陽が傾いてっだろォオ! みんな時間通りに来てんのによォ!
     おみィ~だけだよなァ~! 」

 私  「 す・・・・ すい・・・・ ま・・・・・・・・・ 」

 先生 「 今まで一度もちゃんと来てにィ~よなァ~ッ! 」

 私  「 す・・・ す・・・・・・・・・・ 」

赤黒い先生の顔が・・・・窓明かりの逆光の中で恐ろしい圧力で私に迫る。

 先生 「 おみィ~はよォ 何、考ェ~てっだよォ! 」

 私  「 ・・・・・・・・・・・・・ 」

精神の根本的な所から・・・・私は崩壊しつつあった・・・・・・・。

何も考えられなかった・・・・・・ 

考えられるわけもなかった・・・・・・・・!
 




           
( この写真は、東京目白にある秋山プロ玄関から見たアシスタントの仕事場である。正面のガラス
  窓の向こう側が先生の個室。《 2006年4月 撮影 》 )  




              その36 ・・・・・・・・ 2006年04月07日 21時17分 (公開)
 
 
 
1979年の冬、万年遅刻男の私は、ジョージ先生の怒りの洗礼を受けたわけで
す・・・・・・。 

その後、ずいぶん時間が経ってから先輩アシスタントに・・・・・・

 「 小池君・・・ あの頃、先生は小池君をクビにしようかどうしようか迷って
  たらしいよ・・・・・・・。」

つまり私は、まさに首の皮一枚を残して助かったわけです・・・・・・。
 
 
遅刻ぐせ、不眠、中途半端な人生・・・・・ 自己嫌悪と自信喪失の毎日・・・・・・

20歳代の上昇志向は、自己改革への強い欲求を生むものですが、私も例外で
はなく自分の暗さや無気力な性格から脱却したいと思っていました。

ジョージ先生と話し合っていて、よく言われたのが、

 「 明るくなれ 」( 何度も、何度も、私の顔を見るたびに言われました )

そして、私の漫画に対する芸術的な憧れや小難しい理屈を全否定しつつ・・・・

 「 漫画はエンターティメントだぜ! 」と・・・・

さらに、暗く黙り込んでいる私に・・・・・

 「 おみィ~は、コツコツ暗い世界を下に向かって穴を掘っている様なモン
   だぜ・・・・。 その内、下からガスが噴出しておみィ~はガスを吸って
   くたばる! 」

先生は、薄笑いを浮かべて私の顔をのぞき込む。 最後に声を大きくしてキ
ッパリと・・・・

 「 上を見ンかい、上を! でっかい空を! 明るい世界があるんだぜ! 」

まったくその通りだし、反抗するつもりもなかったのですが、ただどうすれ
ばいいのか・・・・・・? 

具体的にどうすれば良いのか・・・・・・

まったく、チンプンカンプンだったわけです。

とにかく、積極的に何かしなくてはいけない・・・・・・行動を起こさなくてはダ
メだ・・・・・・

この頃から・・・・・・

暗いエゴの泥沼を進みながら、少しだけ・・・・スタートラインが見えて来て
いました・・・・・。
  
  
1979年( 24歳 )頃の私はまだ同人誌に関わっていました。 

ジョージ先生からは『 同人誌なんかやめちまェ! 』と、バカにされていました
が・・・・。 

しかし、辞める事にためらっていました。 

ささやかに自分の漫画を発表できる場を失いたくなかったのです・・・・ ( それに、
同人誌で女の子と知り合う機会を失いたくなかった・・・ )

自分の意識を変える・・・・ 自己改革・・・・・ 

その機会はユミさんが秋山プロを辞めた時にやって来ました・・・。

その頃は、まだハッキリとは意識していませんでしたが・・・・ 今から思い起こ
すとまさに、この時、この機会に、自分の中でなにかが変わりました・・・・・・・。

この事は次回に・・・・・・・・・。





           
( この写真は、東京、目白の秋山プロのドア前から見た池袋方面の遠景である。《'06年4月 撮影》 )  




              その37 ・・・・・・・・・ 2006年04月14日 00時38分 (公開)
 
 
 
ユミさんが秋山プロにいた時は、仕事場の雑用は全て彼女がこなしていました
・・・・・・掃除、買い物、電話番・・・・・。 

しかし、ユミさんが辞めるとこれらの雑用を新しく入ったA君がやらされる事
になりました・・・・。

私は自分を変えたい、積極的に何かやりたいと思っていましたので、トイレ掃
除を自分から申し出ました、

 「 先生、トイレ掃除をやらせて下さい! 」と・・・・・。

ジョージ先生は冗談半分で・・・・・・

 先生 「 困ったにィ・・・・オリがやろうと思ってたんだよなァ・・・・・・・。 」

 私  「 え~? 」

 先生 「 おみィ~に取られちゃうのか・・・・・まあ・・・・・いいか・・・・・。 」

妙な会話ですが、私はこうしてトイレ掃除係りになったわけです・・・・・。

1~2年の修行のつもりで・・・・・・ そう・・・精神修行のつもりで自分から進んで
トイレ掃除をする・・・・・・。 

この事が自分という人間を変える大きな一歩になりました・・・・・。 

たぶん・・・・・。

・・・・しかし・・・・・・・私の目論見はあくまで、1~2年の修行・・・・そして・・・・華々
しく漫画家デビューする・・・・・・という甘いものでした。 

まさか20年以上も秋山プロの便器を雑巾がけすることになろうとは・・・・・・こ
の時は想像だにしていませんでした・・・・・。

この頃から私は同人誌に見切りをつけ、デビューのために商業誌向けの本格的
な漫画制作に入ります。

不思議と遅刻の回数も減っていきました。 

「 明るく 」なる事を目指す事が、不眠に苦しむ時間も減らしていきますが、こ
うした生理的変化は、とてもゆっくりしたもので、ハッキリとその変化を自覚
できるまでには2~3年かかりました。

漫画を趣味的な夢ととらえて、中途半端な「 芸術 」表現と気取っていた事から
・・・・・・商業主義の世界へ、その方向性を大きく変える・・・・・

この事が、それまでのマンガの画風さえ完全に変えて行きます。

秋山プロに入る前にいた、村野守美先生の所で受けた背景画法をそのまま未熟
な画力で実験していました。

私は、その誤りにもようやく気づき・・・・先輩たちの背景画法から学ぶべきは学
ぶ姿勢をとるようになりました。

次回は、具体的なアシスタントの背景画法について、書いてみたいと思います。





           
( この写真は、東京、豊島区南長崎の『トキワ荘』とその隣の『うさぎ荘』があった辺りである。《'06年2月 撮影》 )  




              その38 ・・・・・・・・・・・・ 2006年04月21日 19時43分 (公開)
 
 
 
1978年、春。 秋山プロで私がはじめて描いた背景は、1ページ断ち切りの川
ぞいの古い町並みでした・・・・。

この背景が漫画雑誌ビックコミックオリジナルの「 浮浪雲 」に掲載されたのは
絵を完成させてから3~4ヶ月たってからでした。 ( この背景はコピーされて、
この後15年位の間に何回か使用されました )

漫画背景は漫画家先生やそのアシスタントの個性によって多種多様なバリエー
ションがあります。
 
私の場合は、かわぐちかいじ先生( 『第2章22年改訂版その7』~『その17』参
照 )の影響を強く受けていたので、かなり劇画調でした。 

資料写真に忠実に丸ペンを使ってカリコリ細かく描いていくといった感じで・・・
・・・・・。
 
 
秋山プロに入った当時( 1978年春 )、アシスタントの仕事をナメきっていた私は、
ジョージ先生の背景を描くこの仕事を自分の漫画背景のための実験の場として
考えていました。

村野守美先生( 『第2章22年改訂版その18~23』参照 )の所で見聞きした斬新な
画法。迫力のある構図や大胆なタッチ。

その芸術的な背景世界にあこがれ、事もあろうにジョージ先生の背景にそれを試
していたのです・・・・!

私に画力が備わっていればまだしも、まるで実力の伴わない「 芸術的背景 」は、
まさに「 奇妙な凡作 」と成り果て、それはジョージ先生をして『 あいつはクビ
だ! 』と決断させかねない、危険極まりない大チョンボでした・・・・・・・。

背景技法で試したかった事は、ペンを使わずに筆とスクリーントーン処理だけで
絵を完成させる事や、奇抜で( 粗雑な )実験的な構図を考え出す事でした。 

しかし・・・・・・・そんなお気楽な期間は1年足らずで終わります。

前回、書きました様にジョージ先生の「 一喝 」(まさに雷撃)で全て変わって
しまいました・・・・・。

筆を使って、個性を出そうとか・・・・・奇をてらった構図で目立とうなどと考えた
りした事・・・・・・・それらの事が全て『 嘘の絵 』になっていたのです・・・・・・

自分の絵も人生そのものも『 嘘の絵 』を塗りたくっていたのです・・・・・ 

まるで、泥沼に頭から突き落とされて、そのドロドロの中でもがいているとい
った感じでした・・・・・ 

「 しかし・・・ 」と言うべきか「 だからこそ 」と言うべきか・・・・・・その内に手
の中に何か手ごたえのあるモノをつかんでいたのです・・・・・・ 

まったく人生とは不思議なものです・・・・・・。

自分の絵の『 嘘 』に向かい合った時、私の中で新しい自分が生まれるのです
が・・・・・・・・ 

古い自我が崩壊し、頭が真っ白になっていく経験は「 とてもいい経験でした 」
などと言えるものではなく・・・・・・・

それは・・・・・・単にゲロ吐きそうな苦痛でしかありませんでした・・・・・・。

秋山プロでの1年目がこうして終わろうとしていました・・・・・・・・。





           
            (持ち込みのための習作)


              その39 ・・・・・・・・・・・・  2006年04月29日 02時29分 (公開)
 
 
 
上の漫画は、私が秋山プロに入って最初に描いた持ち込み用( の、つもりの! )
原稿の一部です。( 実は・・・持ち込み以前にボツを予想し、お蔵入りに・・・! )

1979年、春・・・・ 24歳・・・・ 

この頃は、なぜかベタ筆で背景を処理したり、自分のキャラクターをペンでは
なく
筆で描いたりする事にこだわっていました・・・・・。 

しかし、それは前回の「 その38 」で書きました様に、ちょっと姑息な( 個性
を演出したいが為の )描き方に過ぎませんでした。

ジョージ先生の「 一喝 」や自主的に仕事場のトイレ掃除を始めた事で、改めて
全てを「 はじめの一歩 」からやり直そうと覚悟を決めたわけです。

全てを「 はじめの一歩 」から・・・・・ 

当然アシスタントの背景の仕事も初心に帰って先輩たちのマネをする事から始め
ました。 独りよがりの絵ではなく、あくまで素直に先輩たちの背景から学ぶ・・
・・・・

少なくとも私はそのつもりだったのです・・・・・。


秋山プロで一番画力のあったカンさん( 神戸出身、26歳 )の画風をマネする事で
基本を学ぼうと考えました。 

カンさんの絵は劇画調というより、ストーリー漫画の正統派といった感じで「 釣
りキチ三平 」の矢口高雄先生の影響を強く受けていました。

正確で丁寧な仕事ぶりは、とても私などがマネできるレベルではありませんでし
たが、当時は真剣にカンさんの絵から学ぼうとしていました・・・・・・。

私としては、一生懸命カンさんの画風に近づく事を毎日心がけたつもりなのです
が・・・・・ 

ある日、カンさんに意外な事を言われました・・・・・

まったく予想もしなかった事を・・・・・・・・・

 カンさん「 小池君・・・・。 最近、ヘタんなったんとちゃうかァ~? 」

 私   「 ・・・・えェ・・・・・? そ・・・そうです・・・ かァ? 」

私は、まさか『 カンさんの絵をマネして描いているんですよ! 』とは、とても
言えませんでした・・・・・・・。 

カンさんは、私の以前の劇画々々した暗い画風が気に入っていたのです。

この誤解は、100%私の画力が不足しているために起こった事です。 あくまで
「 はじめの一歩 」の通過点に過ぎません。

この頃は、1~2年後に自分流の画風が出来上がるまで・・・・・迷いと我慢の時期で
した・・・・・。
 
 
   漫画家アシスタント物語、血の教訓
   
  『 アマは、自分の描きたいモノをカッコ良く描こうとする。 プロは、
    人( 他者 )が見たいと思っているモノをカッコ良く描こうとする。 』
 




           
( この写真は、東京、目白のコ~キュ~住宅街より望むJプロのある某マンションの遠景である。《'06年2月 撮影》 )


              その40 ・・・・・・・・・ 2006年05月05日 21時43分 (公開)
 
 
 
自分の画力を上げる事、感性を磨き教養を高める事・・・・・・・それらの事は、自分
のカラに閉じこもっていてはなかなか前に進まないものです。

私は、20代の頃にはいつも自分を変えたいと考えていました。 

そして、絵を変える事は自分の人生を変える事につながる・・・・・・その事を、ゆっ
くり時間をかけて理解していきました。


秋山プロでの初めての新年会( 79年1月 )の時です・・・・・

東京、目白の住宅街にあるレンガ塀のオシャレなジョージ先生の自宅・・・・・

奥さんが作ってくれた手料理をご馳走になりながら・・・・・和やかに・・・・・

会食がすすんでいると思っていたら・・・・・・

ジョージ先生とアシスタントのテラさん( 博多出身、27歳 )との間で激しい口論
が起こりました。 

それは、テラさんの個人的な恋愛がテラさんの「 まんが道 」に深い影響を及ぼ
すかどうかと言う論争でした・・・・。

先生は、テラさんがどんな女とどう付き合うかは、漫画家に成れるかどうかにも
関わる事だと断言するのですが・・・・・・

テラさんは「 彼女と漫画とは関係ない! 」と、キッパリ反論すると言った感じ
で、新年会に緊迫した空気が流れました・・・・・。

周りで見ている我々( 見物人 )は、興味深い論争をハラハラしながら見ているだ
けでしたが、先生もテラさんも酒が入っていたせいか、かなり熱くなっていた
わけです・・・・・・・

テラさんは、自分の漫画についての話なら素直に聞けもするが、何で先生に自分
の恋人についてとやかく言われ、その上漫画家に成れるの成れないのと言う話に
なってしまうのか・・・・・まったく訳が分らないと腹を立てていました。

テラさんは、顔を真っ赤にしながら言い放ちます・・・・・

 「 漫画家に成れないなら、成れないでもかまわないですよ、僕は! 」

決然とした言い方ですが・・・・・・明らかにオーバーヒートです・・・・・

結論的には、漫画制作と実際の恋愛とはジョージ先生の言う通り深く関係してい
ると思うのです。

テラさんは当時を振り返り、先生の言っている事は十分理解できたが、自分の恋
人に対する嘲笑的な評価( かなり年上の女性だったのです )には、どうしても
我慢できなかったそうです。

私が同人誌活動をしていた頃にお世話になった、ある女流漫画家先生( 当時はま
だ無名の新人でした。 )は、こう言いました。

 「 漫画と関係が有るとか無いとかじゃなくて、『 全て 』が漫画なのヨ。 」


私は「 はじめの一歩 」から「 まんが道 」をスタートさせるつもりで24歳( 19
79年、秋 )をむかえました。 

この年からデビューまでの7年間で、ゆっくり確実に、一歩づつ階段を登って行
きます。( 時々コケますけど・・・ )

その一歩一歩のステップを具体的に書いていきたいと思います・・・・・・・。

「 明日のためのその1 」が、次回「 第4章 」から始まります!


  追記 :

 拙ブログが出版される時に、登場する漫画家先生方から実名表記の承諾を得て
 います。そのため、この「22年改訂版」では、漫画家名や一部の人物、出版社
 など、実名表記させていただきました・・・・。

 ただ「第4章」からは、以前と同じく「仮名」や伏字などを使用しています。

 ちょっと、読みずらいかも・・・・ですが・・・・どうかご了承下さい。 
 


        「 漫画家アシスタント 第4章 その1 」 へつづく・・・



            【 「漫画家アシスタント第3章 22年改訂版 まとめ3」へ戻る 】




 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
             私(yes)の履歴書
          
  1955年昭和30年 東京生まれ 世田谷区立駒沢小学校卒。 14歳より、映画館
          のキップ切り、ビル清掃人、冷凍食品倉庫、等々(10数種)

  1974年昭和49年 19歳より、漫画家アシスタントを始める。以降 漫画履歴・・・

  1974年昭和49年 さがみゆき先生 主に(少女系)怪奇漫画。単行本1冊分、
          3,4ヶ月のお手伝いでした。(19歳)
     
  1975年昭和50年 かわぐちかいじ先生 この当時の氏は今ほど有名ではありま
          せんでした。背景技術をみっちり仕込まれました。(20歳)

  1976年昭和51年 村野守美先生 漫画界一の豪傑と噂され、エピソードには事
          欠きません。たった1週間しか、勤まりませんでした。(21歳)

  1978年昭和53年 ジョージ秋山先生 当時「浮浪雲」(ビックコミックオリジナル
          に連載)が、すごい人気で、渡哲也、桃井かおりの主演でTV
          ドラマ化されていました。(23歳)

  1984年昭和59年 あと1年で、30歳! 焦っていた。 漫画制作に没頭。出版社め
          ぐりの日々。(29歳)

  1985年昭和60年 「ヤングジャンプ新人漫画賞」にて、奨励賞、努力賞、佳作賞、
          受賞。

  1986年昭和61年 「雨のドモ五郎」が、「ヤングジャンプ」新人漫画賞準入選。本
          誌に2色指定で掲載。事実上のデビュー作。これが同誌への
          最初で最後の作品となる。(31歳)

  1989年平成元年 別冊(!)ヤングジャンプ「ベアーズクラブ」にて、100ページ
          読み切りの「蟹工船・覇王の船」(小林多喜二原作)を発表。(34歳)

  1992年平成4年  宇都宮病院事件の「悪魔の精神病棟」を原案とした書き下ろし
          単行本「サイコホスピダー」製作開始 (37歳)

  1995年平成7年  タイ王国チェンマイ郊外の山村にて結婚。(40歳)

  1996年平成8年  三一書房より「サイコホスピダー」初版出荷、初版で絶版。(41歳)

  2008年平成20年 拙ブログ「漫画家アシスタント物語」がマガジン・マガジン社に
          て書籍化、「雨のドモ五郎」収録。(53歳)

  2008年平成20年 TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」にゲスト出演、漫画家ア
          シスタントについて語る。(53歳)

  2008年平成20年 「劇画 蟹工船 覇王の船」宝島社より「覇王の船」が加筆訂正さ
          れ完全版として出版。小説「蟹工船」収録。(53歳) 

  2009年平成21年 新宿の宝塚大学、漫画学科で非常勤講師になり、「背景美術」
          を担当する。

  2017年平成29年 ジョージ秋山プロを退社、43年のアシスタント人生を終え、タイ・
          チェンマイにて隠居中。(62歳)
             
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ( 注:不確かな記憶によって記されている個所があります事をご容赦下さい ) 





【 各章案内 】   「第1章 改訂版」  「第2章 改訂版」  「第3章 改訂版」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」   「古い話で章 その1」
          
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」

          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )




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漫画家アシスタント物語 第3章 22年改訂版 まとめ3

2022年12月09日 17時59分05秒 | 漫画家アシスタント

          
( この写真は、1970年代に秋山プロがあった東京、新宿区中落合の住宅街です。・・・・ 《2005年11月撮影》 )  


 【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】



 
              その21 ・・・・・・  2005年12月16日 22時41分 (公開)
  
    
秋山プロでもそうですが、他の漫画家アシスタントも意外と漫画を描きませ
ん。 

勿論、描く人は描くのですが・・・・・・ やはり描かない人の方が、かなり多い
ようです。

前回は、アシスタントになってから7~8年漫画を描けなかったマツさんの事
を書きましたが、今回は35年間漫画を描いていないカンさん( 仮名:菅原 浩
二、神戸出身、現在53歳 秋山プロ在職 )の事を書きます・・・・・・


カンさんが秋山プロに入った( 「 第3章、その9 」 )のは16歳の時、1969年
( 昭和44年 )。その時までは確かに漫画を描いていたのですが、秋山プロ
に入った時から35年間( 2005年まで )ピタリと漫画制作が止まります・・・・。

カンさんにも実はマツさんと似たような経緯があります。 それは秋山プロ
に入ってすぐ、16歳のカンさんはジョージ先生にこう質問したのです・・・・・・

 カンさん「 オレは今、何をやったらいいんでしょうか・・・? 」

当然、漫画をたくさん描けと言われると予想していたのですが・・・・・・・

 先生  「 15~16歳で何って事もね~なァ・・・ 遊んでな。このまま
      でいいんだよ・・・ 」

そして、カンさんは遊んでしまう・・・・・・

そして・・・・3年後・・・・・・

 先生  「 このままじゃダメだぞ・・・・・・読んだ本で面白いと思った物
      をネームにしてみろ・・・ 」( ネームは、漫画のシナリオです )

それを実行するのですが・・・・ ほぼ毎日ネームを作るのですが・・・・・ 深夜
に作ったネームを翌日の昼間に読むと・・・・・・ 面白くない・・・・・・ 

この繰り返しを10年・・・・・・あっという間の10年・・・・・・

私が秋山プロに入った頃には、コツコツとネーム作りをしていたカンさんだ
ったわけですが、その後ネームを作る事も自然になくなってしまいます・・・・

カンさんは、自然をテーマにした田園物や戦国時代をテーマにした物などを
せっせとネームにしていたのですが・・・・・・・

ついに原稿として完成する事なく35年がたってしまいました・・・・。


   漫画家アシスタント物語、血の教訓
   
 『 「 今度の夏休みに一本描くよ・・・ 」と言って、本当に描いた人を一人
    も見た事がない。 「 来月あたりから描こうと思ってるんだ・・・ 」
    と言って、本当に描いた人を一人も見た事がない。 「 今から描
    く! 」そう言える人しか漫画は描けない・・・・・・。 』
 




           
( この写真は、東京の目白通りから見上げた秋山プロのある某マンションです。・・・・ 《2005年12月撮影》 )  


              その22 ・・・・・・  2005年12月23日 20時54分 (公開)
  
    
私が入った秋山プロには( 1978年昭和53年 )、初めガンさん( 仮名:羽賀 司
郎東京出身、28歳 )という漫画をよく描く先輩がいたのですが、2ヶ月ほどで
少年Kに連載を持って独立して行きました・・・・・・。

そして、全然漫画を描かない漫画家アシスタントたちが残りました・・・・・・・。

漫画よりカット絵の才能があるテラさん( 博多出身、26歳 )

秋山プロ漫画背景の大黒柱、カンさん( 神戸出身、25歳 )

幕末浪士の生まれ変わり、リョウさん( 岡山出身、24歳 )

下ネタと博打ならおまかせのマツさん( 広島出身、24歳 )

暗い清純少女漫画を描くユミさん( ?出身、推定25歳 )


私は当時( 1970年代後半 )から同人誌用にせっせと漫画を描いていましたが、
どれもプロを目指すというより実験的な「自己満足」だけの作品ばかりを描
いていました。

もし、そのままダラダラ同じ事を続けていたら100%デビュー出来ずに終わっ
ていただろうと思います・・・・・。

秋山プロに入った事は私の人生を大きく変えて行きますが、その事はいずれま
た・・・・・・・。


秋山プロの仕事場には毎夕方、富士山をシルエットにした夕陽が室内に差し込
みます・・・・・。 

私は情熱よりも倦怠感のただよう様な仕事場の空気に違和感を覚えていました・・
・・・・。

 『 アシスタントの仕事は2~3年で辞めてデビューする 』 

・・・・漫画家アシスタントなら、誰もが考えるパターンです・・・・・・ 

実現する可能性は1~2割しか無い事を、まだ知らずにいたあの頃・・・・・。 

夢もエネルギーもあるのに何をどうすれば良いのか判らない・・・・・・時間はどん
どん過ぎてゆくのに、自分だけ取り残されたような気分・・・・・・ 

仕事場をオレンジ色に染める夕陽に感傷的になるより、イライラと焦りを感じ
る20代前半のとんがっていた上昇志向・・・・・。


まだ、仕事に慣れずにいた頃です・・・・・・

秋山プロの当時の仕事は少年誌、青年誌あわせて連載が4~5本ありました。そ
の中でも長期に連載されていたギャグ(?)漫画に「 花のよたろう 」( 秋田書
店 )という作品がありました。

ギャグ漫画など描いた事がなかったのですが・・・・・・ 少年チャンピオンに連載
されていた「花のよたろう」の原稿にはジョージ先生の指示が何もありません
でした・・・・・・。

原稿には、何処かを歩くキャラクターだけ描かれていて、バックは真っ白・・・・
・・・・・

何を描いたらよいのか分らず、隣のテラさんに・・・・・・

 私    「 この背景には何を描いたらいいんですか・・・? 」

 テラさん 「 土手 」

 私    「 どてェ・・・・・・??? 」

 テラさん 「 よたろうが何時も歩いているのは土手なのヨ。 何時も
        同じだから、前回のゲラを見て。 」

 私    『 そうか・・・歩くキャラの背景には土手か・・・・・ 』


私の薄弱な記憶によると秋山プロにおける最初の仕事( 大ゴマ以外 )はこの
『 土手 』でした。

空は真っ白、アスファルトの道も真っ白、道の両側に少しだけ草を・・・・チョロ
チョロと描くだけの簡単な背景・・・・・・

・・・・・・1時間ほどで1ページ仕上がり!

あまりにも楽な仕事に私は内心ワクワクしたものです。
  




           
( この絵は、1978年昭和53年、私が22歳の時に同人誌用に描いた漫画の一ページです )  


              その23 ・・・・・・ 2005年12月31日 04時25分 (公開)
  
    
若い漫画家志望者がいつも、漫画の事ばかり考えているわけではありません。
20代の若さなら「 飲む、打つ、買う 」に、はまり込む事がよくあるものです。

私が23歳で秋山プロに入った頃( 1978年昭和53年 )の頭の中は漫画半分、性
欲半分といったところでしょうか・・・ 

男の場合は本能的な欲望もありますが、自分が一人前の男であると言う事を証
明したいという焦りや、女性との関係において性的関係を結ぶ事が、より強い
恋愛関係を作れる・・・・・

・・・・そんな幻想を信じて日々悶々とするわけです。

酒が好きな男はスナックに通ってウェイトレスさんを口説き、口が達者な男は
街で出会う女性に片っ端から声をかける・・・・・・。 

酒も金も喋りもダメな男は、エロ本( アダルトビデオが当時まだありませんで
した! )を買って家に帰る・・・・・・。

20代の前半、私はせっせと同人誌活動に励みましたが、漫画が好きだからとい
う理由が半分・・・・・後の半分は女性と知り合える事が出来るという下心のためで
した。

秋山プロに入った当初はジョージ先生から・・・・

 「 同人誌なんか辞めちまえ! 」

などと、アマチュアの世界をクソの価値も無いものとバカにされましたが、も
し私が先生に、

 「 実は、女を引っ掛けられるんですぜ・・・・・・先生! 」

と言ったら・・・・・・ きっと、ジョージ先生は・・・・

 「 俺ィも入れんかい! このバカモン! 」

と、言ったかも知れません・・・・・。


漫画研究会に入る・・・・・・・・( これは、ジョージ先生のところへ来る2年ほど前
21歳の時の話です )

いい娘がいなければ、すぐ他の漫研を捜す。

それでもダメなら、自分で漫研を作る!

当時、自覚はありませんでしたが、今から思えば純粋に漫画の事を考えていた
・・・・( 自分にはそう言い聞かせていましたが )のではなく、気持ちの半分はイイ
娘を捜していたのです。

そんな時に一人の女性に出逢いました。 

彼女も私も21歳の春・・・・・。 

その人は真ん中で分けた長い黒髪を、そのまま顔の半分ほどを隠す様にして、
胸下まで伸ばしていました。 

その左右の長い黒髪からのぞく大きな瞳・・・・・・・それが、香る様に魅力的でした。 

彼女の描く漫画は平凡でしたが、ルックスは非凡な美しさがありました。

素晴らしかったのは、美人なのに・・・・もの凄く優しかった事です。 

私なんぞは「 一目会ったその日から! 」もう夢中でした・・・。

しかし・・・・・・ 

4年後・・・・・・彼女はあっけなく死んでしまいます。 

25歳でした。 

埼玉県浦和市の小さな病院で消化器系の病気によって亡くなりました・・・・・・。





           
( この写真は、1975~8年頃に住んでいた東京杉並区のアパートです。キレイに改装されています。
  《2005年7月撮影》 )  


              その24 ・・・・・・ 2006年01月05日 02時49分 (公開)
  
    
艶やかに下がる長い黒髪・・・・・・大きな瞳・・・・・・・・

美しかった彼女は、25歳で死んでしまいます・・・・・。

埼玉県浦和市にある小さな病院に入院していた彼女を何度か見舞いに行きまし
た。

当時( 1976年昭和51年 )21歳だった私は、まさか4年後に彼女が死んでしまう
なんて想像もしていませんでした。

住んでいた高円寺から病院まで電車を4回乗り換え2時間以上かけて見舞いに行
ったのは真夏の頃だったと思います。( 埼京線はまだなく、赤羽線でした )

その頃はまだ、ジョージ先生に師事してはおらず、かわぐちかいじ先生の所で
仕事をしていました。 

休みの日に病院へ見舞いに出かけるのですが・・・・・・ 

ある日・・・・・・

彼女には好きな彼氏がいる事を知りました・・・・・・。( 「 22歳の別れ 」なんて曲
が流行っていました )

その彼氏というのは、当時有名だった某ロックグループ( 大ヒットした曲もあ
りました )のリードギタリスト・・・・・( 確かにカッコイイよなぁ )

彼女が元気な頃にライブハウスへコンサートを見に行き、その時に知り合った
ようです。

彼女は私の事などまるで眼中になく、そのロックグループのリードギタリスト
の事を病床で慕いつづけていたのです・・・・・・。 

毎日、毎日・・・・・・いつ見舞いに来てくれるのかと・・・・・・。

ところがその某ロックグループのリードギタリストのクソ野郎は・・・・・・・ただの
一度も見舞いには来なかったのです。

真夏の炎天下を汗ダクになりながら何度も見舞った私は、みじめに落ち込んで
いくだけ・・・・・・・

ちなみに、私の和製ロック嫌いはこの頃から始まりました・・・・・・ 

まあ、そんな事はともかく、私の恋は晩秋の枯葉の様にむなしく散ってしまう
わけです・・・・・。

ちなみに、彼女はその後退院して、元の生活に戻って仕事に趣味に夢に・・・・・時
間を惜しむ様に走り出します。

イギリスのロックグループが好きで、ライブを見にイギリスまで出かけるほど
活動的でした・・・・・

そんな頃の私は・・・・・・

毎日々々・・・・彼女の事をあきらめよう、忘れよう、消し去ろう・・・・と悶々として
いました。

あたかも、腐った油の中をもがき進む様に・・・・・・。

そして、2~3年してやっと彼女の事をあきらめられた頃に、彼女は死んでしまい
ました・・・・・・


25歳( 1980年昭和55年 )、当時、私は( ジョージ先生に奨められ )夢中で本を読
んでいました。

時代小説、世界文学、日本文学、純文学、雑誌、情報誌・・・・・・片っ端から読みま
した・・・・・・1年ごとに、スチール製の大きな本立てが1つづつ増えていきます。

この頃の読書への集中は、私の朦朧とした人生に確固たる進路を照らし出してく
れます・・・・・・・。


   漫画家アシスタント物語、血の教訓
   
  『 私の師匠は「 やさしい人間でなければ、漫画は描けない! 」と、
    決然と言われたが・・・・それは、「 優しくなければ、描く資格がな
    い 」という意味にもとれる 』





           
( この写真は、1978年頃、秋山プロの先輩たちに誘われてよく行った喫茶店です。目白通りと山の手
  通りの交差点に今でもあります。《2005年12月撮影》 )  


              その25 ・・・・・・  2006年01月19日 21時55分 (公開)
  
    
23歳、1978年昭和53年の春・・・・・・・。

私は秋山プロに入社以来ほぼ毎日( 数ヵ月間 )、出勤時間( お昼 )に遅刻して
いました・・・・・。

私の暗い性格は、その生活を夜更かし型に変え、しだいに寝つきも悪くなり・・・・
・・朝、起きる事がなかなか出来なくなりました・・・・・。 

ついには目覚まし時計を3~4個も用意して寝床につく始末・・・・・・・。 

夜明け近くに横になっても2,3時間は寝付く事が出来ない・・・・昼頃、幾つかの目
覚まし時計を蹴飛ばしながら、あわてて秋山プロに向かう・・・・・。

汗びっしょりかいて秋山プロのドアを開け、いつもの様にとぼけた顔して自分の
イスに体を沈める・・・・・・ 

先輩スタッフ6人は、もうせっせと仕事を始めている。毎日30分以上遅刻して来
る私に誰も何も言わない・・・・。

 「 小池君! お昼は何にしますかァ? 」

いつも、明るくそう声をかけてくれるユミさん( 仮名:吉村由美子、?出身、?
歳 )。 近くのおそば屋さんに出前の注文をしてくれるのだ・・・・・。

そこで私はいつもの様に・・・・・・

 「 鍋焼きうどん! 」


私が秋山プロに入ってきてから2ヶ月ほどで、ガンさん( 仮名:羽賀 司郎、東京
出身、28歳 )は独立して、辞めていかれました・・・・・。

ガンさんは「 週刊少年K 」に喫茶店のボーイさんを主人公にした漫画の連載を
勝ち取ったのです・・・・・・当時、ガンさん28歳。

映画「 サタデーナイトフィーバー 」が流行、ディスコが雨後のたけのこの如く
あちこちに出店した頃でした・・・・・・

ガンさんはTVで見た若者のインタビューをよく引用していました・・・・・・

 ガンさん「 小池ちゃん! そのテレビリポーターがディスコで踊る若者
      にさぁ、こう質問したのよ・・・ 『 あなたにとって青春とは? 』
      って・・・ その若者、何て答えたと思う? 」

 私   「 ・・・さ・・・さァ・・・・・・・・・? 」

 ガンさん「 自分の額の汗を示しながら・・・ 『 これだゼ・・・・! 』って!
      小池ちゃん! カッコイイと思わない? 暗いのはダメよォ~
      ッ! これが青春よォッ! 」

当時、何度も同じ話を聞きました・・・・・・・。

私は俗に言う「 流行り物 」は苦手で、ディスコも大嫌いでしたから、この話を
されるたびに気が滅入ったものでした。

ガンさんは、デビュー前からものすごく作品を描いていました・・・・・・しかし、
あまり推敲もせず安直に描き飛ばしてしまう欠点があったのです・・・・・。

とにかく「 週刊少年K 」で連載を持った事は確実に漫画家への第一歩を踏み出
した事になるのですが・・・・・ 

この時は、それがまさか地獄の一丁目への門出になろうとは、誰一人予想もし
ていませんでした・・・・・・。





           
( この写真は、最近撮った秋山プロの玄関です。書き下ろし単行本の刊行に伴い久しぶりにお客さん
  が大勢来ました。《2006年1月撮影》 )  




              その26 ・・・・・・  2006年01月26日 21時14分 (公開)
 
  
    
多くの漫画家アシスタントが夢見る事は連載を持って独立する事です。
 
もし、すぐ横にいる先輩が連載を持って独立して行ったら・・・・・・

どれほど、その先輩が光り輝いて見える事でしょう・・・! ( 数年後の自分の姿
をオーバーラップするわけです・・・ )
 
独立する苦しみなど理解出来ずに、白紙がのった机と向かい合う毎日の孤独な
苦行を想像すらせず・・・・・・・

私は、ただ・・・・・・ 漠然とあこがれていたのです・・・・・

私はこの頃のガンさん( 東京出身、28歳 )を見ていてさわやかに羨ましく、そ
の明るい面だけを眩しく見上げていました・・・・。
 
ガンさんには当時、同い年の奥さんがあり、老母も扶養しておられました。
そのガンさんが長年( 10年近く )のアシスタント生活から独立!

「 ○○なあいつ 」「 ○○サニー 」( 「 週刊少年K 」 )、ガンさんが描くウ
ェイター物語、連載開始・・・・・・


独立、連載・・・・・・いよいよ、一人前の漫画家としての第一歩を歩み始めたわけ
ですが・・・・・・・
 
 
1978年( 昭和53年 ) 初秋・・・・・ 街には、沢田研二やピンクレディーの明る
い曲が流れていました・・・・・・。
 
連載は少なくとも半年位は続くのでは・・・・と思われていたのに・・・・・・
 
たった2ヶ月ほどで終わりました・・・・・・・。 

ものすごく突然切られてしまいました・・・・・・・。 

はた目には、また何処か他の出版社で仕事をするのかなぁ・・・・などと、のん気
に傍観していたのですが・・・・・・・

本人の焦りと苛立ちは、尋常ではなかったろうと思います。
 
ガンさんは新作を持って出版社を回ります・・・・・・

その新作を私も見せてもらいまいたが・・・・・・・・ 

 『 ん~・・・・・・・ イマイチ・・・・か・・・・・・ 』
 
 
連載が打ち切りになった頃・・・・・・ 

たまたま、遊びに行っていたマツさん( 広島出身、24歳 )のアパートで、私は
ひどいイタズラを思いついたのです・・・・・・・ 
 
マツさんと私は声色を使ってガンさんをだましてやろう・・・・・・などと考えたの
でした・・・・・・ 

 マツさん「 引っかかるワケなかろ~ 」

 私   「 そうですよねェ・・・・ 」
 
二人はバカバカしいとは思いつつ・・・・ガンさんにニセ電話をかけます・・・・・

まず私が渋い声色を使い・・・・
  
 私   「 羽賀先生のお宅ですかぁ? 私は少年ジャンプのウソノと
      言うものですが・・・・・・実は少年○○に連載された、先生の
      作品を拝見してお電話しました・・・・・ 」
 
すぐ、バレると思っていたのですが・・・・・・・ 

ガンさんは意外にもすっかりハメられて、緊張から声を上ずらせる・・・・・。 

人の気も知らない私は、命がけで笑いをこらえていました・・・・・。
 
 私   「 是非、先生に連載のご相談などしたいと・・・・・・一度、
      お会いしたいと思うのですが・・・・・」

・・・・・もう我慢できない!

 私   「 あ・・・ 今、編集長と代わりますので・・・・・・・ 」
  
後で聞いたのですが、この瞬間、ガンさんは受話器を握りながら、新連載の
構想が頭の中をかけめぐっていたそうです・・・・・

ところが・・・・・・
 
 マツさん「 ・・・・・・ガンさん! ワシじゃ! 」
 
 ガンさん「 ・・・・・・・・・・??? 」
 
ガンさんはこの時、頭の中が真っ白に・・・・・・
 
 マツさん「 ワシじゃっ! マツじゃっちゅ~の! ガンさん!」

新連載の構想が・・・・真っ白に消えていく・・・・・

 ガンさん「 ・・・・・・・・・・・ 」

 マツさん「 まだ、分らんのけェ・・・? 」

ガンさんは夢から覚めます・・・・・

 マツさん「 嘘なんじゃ~! ・・・・・・そう! ・・・・・・全部ウソ!! 」
 
大変申し訳ない事をしてしまいました・・・・ 

この後、ガンさんが新連載を得、漫画家になっていたならこの話はシャレで
済んでいたのですが・・・・・・
 
実は・・・・・・

後にも先にも、「 依頼 」の話はこの「 ニセ依頼 」ただ一つで終わってしま
い・・・・・・・

もっともこの時のガンさんには、後輩たちのイタズラを笑って許してくれる
余裕があったのですが・・・・・・。 
 
その後、何度も出版社をまわって持込みをした結果・・・・・・・ 

原稿を買ってくれる所はどこにもなく・・・・・・すっかり漫画制作を見切ってし
まいました・・・・・・・・・ 

これ以降、ガンさんは漫画家アシスタントに戻る事もありませんでした。
( 意地でも戻りたくなかったそうです・・・ )

アルバイトを転々とし・・・・・奥さんと別れ、老母とも別居して一人孤独に・・・
・・・・・どぶ川をはいずる様に生きていきます・・・・・・・
 
建設現場で日雇い労働の日々を送っていた頃、アパートの家賃やその日の食
費にも困るようになり・・・・・・

ついに、ジョージ先生の所へお金を借りに行く事になります・・・・・・
 
その時のいきさつは次回に・・・・・・。





           
( この写真は、ジョージ先生が、10年ほど前まで住んでいた目白の高級住宅街です。写真の奥を左へ入っ
  た所に、先生のレンガ風のシャレた自宅がありました。《2005年11月撮影》 )  


              その27 ・・・・・・  2006年02月02日 22時25分 (公開)
 
  
    
漫画家としてデビューする多くの新人の内、1年以上連載を維持できる人は
稀にしか居ない( 1割未満 )・・・ それが、この業界の現実です。

私も若い頃( 1978年、23歳 )はそんな事とは露知らず、他の漫画家志望者
と同じようにデビューすればなんとかなる・・・・と思っていました・・・・・・・。

デビューする苦労より、デビュー後の連載を維持する事の方が10倍苦しい
のではないでしょうか・・・・・・・。 

この時期を振り返って、その成功者は・・・・・・

 「 苦しいというより、充実してたよ 」とか、

 「 あの頃は、夢中だったしなァ 」とか、

 「 楽しく描くってのが一番大切ね! 」とか、

 「 銀行口座にじゃんじゃん金が振り込まれるんで怖かった 」

・・・・などと言いますが・・・・・・・

この業界では、この様なすっトボケた事を言えるタフさこそが要求される
のではないかと思います。


さて、ガンさんの話は「 例外 」ではなく「 通例 」といえます。

夢も希望も金もない・・・・ 

腹を空かして知人、友人に借金のしまくり・・・・そして、ついにジョージ先
生の所へ・・・・・・・・・


この話は、ずいぶん後になってから、ガンさん本人に直接聞いた事です
・・・・・・。

しかし、ジョージ先生から裏はとっていませんし、なにぶん古い話なので
当時の詳しい事情もよく分らないのですが・・・・・・


ガンさんは、ジョージ先生に10万円( 当時のアシスタントの平均的な月給
額 )の借金をお願いしに自宅を訪ねたのでした・・・・・・

連載が打ち切られてから数年、経っていました・・・・・

さっそく苦しい生活を切々と語り、借金を申し込むのですが・・・・・・

 先生  「 おみィ~には、貸せにェ~よ! 」

ガンさんはこの時、生まれて初めて「 殺意 」というものを感じたと言って
いました。( 注:カッとなったのは事実ですが、本意ではありません )

 『 10年も仕事をしたのに・・・・・たった10万円貸してくれね~のか
   よォ~! 』


 「 小池ちゃん、本当に殺意を持ったよ・・・・・・ 」( 苦笑)

ガンさんは、軽い冗談の様に・・・・・

 「 殺してやりたい・・・って・・・・・・・人間って怖いよなァ・・・・・ 」

ジョージ先生は決してケチではありません。

何人ものアシスタントたちが。給料日前に借金を申し出れば1~2万円( 現在
の2~4万円の価値 )はすぐ貸してくれました。

そして、誰も返す様子が無くても・・・・10年以上、3~40万借りっぱなしでい
ようとも、ただの一言も「 返せよ 」とか、愚痴ったりする事はありません
でした。  ただの一度も!


なぜ、ジョージ先生が10万円を貸さなかったのか・・・・・・・それは、今でもよ
く分っていません・・・・・・・。

ただ・・・・・・

最近になって、私が小耳にはさんだ噂では・・・・・・

ガンさんが借金しようとした時、先生に・・・・・・

 「 女が妊娠しちゃって・・・・・堕す金もないんです・・・・ 」

・・・・ってな話をしたとか、しないとか・・・・・・

まぁ・・・・その話の真偽はともかく・・・・・・


「 殺してやる 」と思った時から4年後には・・・・・・

 「 あの時、貸してくれなくて良かったんだよ・・・ 」

・・・・とガンさんの心境が180度変わっていました・・・・! 

そして・・・・・・・

連載打ち切りから多くの体験を積んだ8年後( 1985年ガンさん35歳 )・・・・・

新たな連載を引っ下げてどん底からの奇跡的なカムバックを果たします! 

この話はいずれ機会を改めまして・・・・・・・





           
( この写真は、秋山プロに送られてくる雑誌の山です。大体1~2週間分ですが、ちょっと整理するのを
  怠ると山の様に積み重なって大変な事になります。ほとんど未開封のまま処分されます。《2006年1
  月撮影》 )  




              その28 ・・・・・・ 2006年02月10日 03時51分 (公開)
 
  
    
東京、目白駅から10分ほどの所に秋山プロがあります。 13階建ての白い
マンションの7階・・・・・・ 

昼過ぎからの仕事だというのに、私はいつも2~30分遅刻してドアを開けま
した。

肩まで届く長髪と下駄。 ひざの擦り切れた汚いGパン。 タバコのヤニで
真っ黒な歯。 

度の厚いメガネの中に、まだ眠そうな目玉が浮いている・・・・・。

1978年、まだ23歳だった私は老人の様にノロノロと席につく・・・・・・。

そして、すぐ仕事をせずに、まず秋山プロの廃品同然のラジカセにズ~ズ
~しく私好みのテープをかける・・・・・。( ユーミン、イーグルス、山崎ハコ
・・・ )さらにタバコを一服・・・・・。

いつも最初に声をかけてくれるのはユミさん(仮名:吉村由美子、?出身、
自称23歳)でした。 

 「 今日は何にしますかァ~? 」

明るく、店屋物の注文を聞いてくれる。 

誰も喋らない仕事中にユミさんだけはよく喋りました・・・・。 

ほとんど、自分の好きな食べ物や趣味などの話。 後は自分が住んでいる
アパートの大家さんへの不満など、とるにたらない事を( 本人一人だけが )
面白そうに喋っていました。

私は、そのどうでもいいお喋りが大好きでした。 

以前、仕事をしていたかわぐちかいじ先生の所や、他の所でも仕事中のお喋
りは、アシスタントにとってはとてもいいガス抜きになると思っていたから
です・・・・ 

しかし、秋山プロではユミさん以外は誰も喋りません。

ユミさんが喋らなければ、完全に沈黙が支配します・・・・何時間でも・・・・・・。


彼女が秋山プロに来たのは、1977年、私が来る1年前でした。

当時、男性ばかり5人のスタッフの中に一人の女性がやって来たわけです。

今年で52歳になるマツさん( 広島出身、当時23歳 )は、秋
山プロに入って1年目の当時( 1977年昭和52年 )を振り返って・・・・・

 マツさん 「 わしゃのォ、あん頃は女がおってのォ、新入りのユミちゃん
         にはあんまり興味はなかったのォ・・・ 」

 私    「 じゃ、あんまり喋ったりしなかったんですか・・・? 」

 マツさん 「 いやァ・・・・ ヤラせろとは言ュ~ちょったのォ・・・・・ 」

 私    「 ・・・はあ・・・・・・・? 」

 マツさん 「 わしゃァ、ヤル事っきゃ考えとらんかったからのォ・・・・ヤラ
         せェ! ヤラせェ! ・・・そればっかヨ! 」 

マツさんは、例のしゃがれ声でハヒハヒッと、小さく笑う。

暗く陰気な漫画を描く潔癖なユミさんと、ざっくばらんな広島男は、以外に
気が合ったそうです。 

マツさんは・・・・・・

 「 わしゃァ、気兼ねなく何でも喋れる妹みたいに思ォちょったんよォ・・・ 」

・・・・と、当時を振り返りますが・・・・・・しかし、1年後にユミさんの小さな嘘が
和やかな二人の関係にヒビを入れてしまします・・・・・

それまで、盛んに口説き続けたマツさんを笑って相手にしなかったユミさん
は、実は22歳ではなく25歳であると分ったのです・・・・・。 

はた目には「 3つサバを読んだだけの事 」なのですが・・・

しかし、マツさんはユミさんを妹の様に思い、そして信じていた事が裏切ら
れたからか・・・・・1年間振られっぱなしだった恨みからか、この日を境にユミ
さんを毛嫌いする様になります。

私が秋山プロに入って来たのはそんな頃でした・・・・・。






           
( この写真は、東京池袋の映画館旧「文芸座」があった所です。今は大きなパチンコ店になっています。
  左側に「新文芸座」の入り口もあります。《2006年2月撮影》 )  




              その29 ・・・・・・  2006年02月17日 16時09分 (公開)
 
  
    
ユミさん( 仮名:吉村由美子、?出身、自称22歳 )が漫画家アシスタントと
して、秋山プロに入ってきたのは私が入る1年ほど前でした。( 1977年昭和
52年 )

男5人の中に突然、女性が入って来たわけです。 オオカミ( ? )たちが意識
しないフリをしていても仕事場の空気は微妙に変わりました・・・・・・。

それまでは男同士の気安さから、風呂にもはいらず、汗臭い体臭にさえ気付
かず、オナラも平気でしていたアシスタントたちが・・・・・

ユミさんが来てからは、服装にも気を付け、仕事中にオナラをしなくなった
のです。


しばらくしてから・・・・・

ある先輩アシスタントが、消しゴムを仕事中にわざと落として、ユミさんの
スカートの中を覗いているとか・・・・・・そんな噂が広まったりしました。

もっともそれは、ただのイタズラ好きのアシスタントのホラ話ですが・・・・・・。
( ユミさんとその先輩アシスタントが相当に傷ついた事は言うまでもありま
せん )

また、別の先輩アシスタントは、よく彼女をデートに誘ったりする事があっ
たそうです。 

その日も彼は、ユミさんを池袋の文芸座(映画館)に行こうと誘ったのです
が・・・・・・用事があるからと断られ、仕方なく一人で文芸座へ・・・・・

館内の通路を歩いていると・・・・・他のアシスタントと一緒に来ていたユミさ
んとバッタリ鉢合わせになった・・・・・・などという話もあります。

しかし、時間の経過とともにユミさんの身持ちの堅さと極端な潔癖さに気付
いたオオカミどもは、誰も彼女をデートに誘わなくなります。


私がユミさんにちょっと屈折した感性を感じたのは、二人でコーヒーを飲ん
でいた時の事です・・・・・

会話の中で、元カレの話になります・・・・・・

 ユミさん「 小池君、あたし初めてキスした時に分かったんだァ・・・ああ
       ・・・この人( 相手の男性 )は私を愛してはいないんだなァ・・・
       ・・・・って 」

自分に対して性的である相手を全て敵視する悪癖が彼女にはありました。
ところが、反面人一倍好奇心が強くエッチな事にも積極的に興味を示す
のです・・・・・・

マツさんがこの当時を振り返って語ります・・・

 私   「 マツさんが初めてユミさんをデートに誘った時に、映画を
       見にいったんですよね?」

 マツさん「 そ~じゃ 」

 私   「 その時は、映画がポルノ映画の『 肉体の○○ 』だって人から
       聞いたんですが・・・・ 」

 マツさん「 そりゃ~違うのォ・・・ 『 肉体の○○ 』じゃなく、『 妖精の
       ○○ 』じゃ。 だいたいワシがポルノに誘ったんじゃない!
       ユミちゃんがこれ見たいって言ュ~たんじゃ! 」

 私   「 初めてのデートで、ユミさんがポルノを?! 」

 マツさん「 そうじゃ。 ホンマよ。 じゃが映画館に入って5分もせん
       うちに出よったんじゃ・・・。汚らしいとか言うてのォ・・・・ 」

ユミさんは 『 妖精の○○ 』というタイトルで、清純映画と誤解したのか・・・?

 私   「 汚らしい・・・・ ですか・・・・ 」

 マツさん「 自分から見たいと言い出したくせに・・・・・勝手なもんよ 」


ユミさんには、性的な事は「 不純、不潔 」、禁欲的な事は「 純粋、純潔 」
なんだ、という固定観念がありました。 

このことが後に秋山プロを飛び出してしまう大きな原因になります。





           
( この写真は、J・Aプロで夜になるとアシスタントに配られる仕出し弁当(5~600円)です。この冷
  メシを毎日50代のオヤジどもが、がん首並べてムシャムシャ食うのです。《2006年2月撮影》 )




              その30 ・・・・・・  2006年02月25日 21時43分 (公開)



その頃、前回書きました様にマツさんとユミさんの関係がこじれるわけです。 

私が秋山プロに入った1978年春はちょうどそんな頃でした・・・・・。
 
マツさんは、仕事中に話をしたり笑ったりする事がまったくありません。し
かし、お酒が入ると饒舌な広島弁が流れ出します。 

ちょっと短気で( 高校時代はそうとう目立つツッパリだったそうです )無鉄砲
な所がありました。
 
ユミさんは、おしゃべりで明るく( 描く少女漫画は暗かったのですが・・・ )律
儀でやさしい人でした。
 
私が秋山プロに入って半年ほどした頃( 1978年 初冬 )、ちょっとした出来事
がありました。

それは、この二人の関係が険悪化している事が最初に分かった出来事でした
・・・・・・。
 
仕事開始の午後1時ごろ、いつもの様に遅刻して寝ぼけ眼の私が席へ着いた
のですが・・・・・・

ユミさんは、私に出前の注文を聞くのを忘れていたのです。 私自身も、注
文する事を忘れていていたのです・・・・・・

4~5分して、マツさんが席を立つと、ユミさんの背後へ回り・・・・・
 
 ガッシャーーーンッ!!
 
一瞬、アシスタント全員が凍りつきました。何が起こったのか・・・・?
 
マツさんはユミさんの椅子を蹴飛ばしたのです。

音は大きかったのですが、ユミさんが怪我をするような事はありませんでし
た。
 
 マツさん 「 注文を聞いてやらんかいッ!」
 
・・・・と、一声怒鳴るとそのままトイレへウンチをしに行きました・・・・・。
 
秋山プロに入ったばかりの私には、この二人の関係を知りませんでしたから、
いったい何がど~なっているのか、当時は全然分りませんでした。
 
 
数ヶ月前にはマツさんがしつこくユミさんに・・・
 
 「やらせェやァ・・・・ よかろォがァ・・・・・」( 今なら完全なセクハラ! )

などと、話しかけていたのに・・・・・・
 
その当時、マツさんはジョージ先生から・・・・
 
 「 おめェ~、手ェ出すんじゃねェ~ぞォ! 」
 
・・・・と、注意された事もあったらしいのですが・・・・・・セガレを大きくした広
島男には無駄な説教だったのかもしれません・・・・・。
 
ユミさんは、その後マツさんとは絶交状態に・・・・・。 

そして・・・・・・

他の先輩が、自分のパンツを覗いているんじゃないか・・・・? みんなにイヤ
ラシイ目で見られてるんじゃないか・・・・? 先輩アシスタントの一人が、ジ
ョージ先生の奥さんと不倫してるんじゃないか・・・・・・・・? 
 
・・・・・考えてみれば、バカバカしい誤解や嘘に一人で傷ついてきたユミさんだ
ったわけです・・・・・・・。 
 
ユミさんが秋山プロを飛び出す事になる決定的な事件が起きたのは、秋山プ
ロに新しいアシスタントがやって来るその当日でした・・・・・・・・。
 


        「 漫画家アシスタント 第3章 22年改訂版 まとめ4 」 へつづく・・・



            【 「漫画家アシスタント第3章 22年改訂版 まとめ2」へ戻る 】



       * 参考 *   
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  .............. 私(yes)のアシスタント履歴
  
  1974年昭和49年 さがみゆき先生 主に(少女系)怪奇漫画。単行本1冊分、
           4,5ヶ月のお手伝いでした。 (19歳)
     
  1976年昭和51年 かわぐちかいじ先生 この当時、氏は今ほど有名ではなか
           ったのですが、背景技術をみっちり仕込まれました。(20歳)

  1977年昭和52年 村野守美先生 漫画界一の豪傑と言われ、エピソードには
           事欠きません。たった1週間しか勤まりませんでした。(21歳)

  1978年昭和53年 ジョージ秋山先生 当時「浮浪雲」(ビックコミックオリ
           ジナルに連載)が、すごい人気で、渡哲也、桃井かおりの
           主演でTVドラマ化されていました。(23歳) 

  2017年平成29年 ジョージ秋山プロを退社、タイ・チェンマイにて隠居中。(62歳)

                    
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




【 各章案内 】   「第1章 改訂版」  「第2章 改訂版」  「第3章 改訂版」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」   「古い話で章 その1」
          
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」

          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )




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漫画家アシスタント物語 第3章 22年改訂版 まとめ2

2022年12月08日 00時48分26秒 | 漫画家アシスタント

          
( この写真は、東京都新宿区下落合方面から見たジョージ秋山プロの入っているマンション
  の遠景です。《2005年9月撮影》 )  


 【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】



 
             その11 ・・・・・・ 2005年10月05日 22時42分 (公開)
  
    
 「 ここは良いよォ・・・・・休みは多いし、徹夜は無いし・・・・・・本当に、
  ここは楽だよォ 」
 
ジョージ秋山プロで初めてジョージ先生に面接した時に会ったプレイコミ
ックの編集員が言った言葉・・・・・・・それは、まったく正しかったのです・・・・
・・・・。 ( 1978年昭和53年 春 )
 
古参漫画家アシスタント( 10年以上勤めている )が3人。他のアシスタント
も1年から2年勤めている。 
 
特別にここの給料がイイわけではない・・・ 前に勤めていたTBSテレビの
下請けのバイトが月10万円。 ここの初任給は手取り7万円( 会社なので一
応、厚生年金や社会保険有り )でした・・・・・全然多くない。 

ただ、今現在( バブル崩壊後 )はありませんが、当時はボーナスがありま
した。 年に4ヶ月分! これはありがたかったです・・・・・・。
 
 
ここはとにかく休みが多かったのです。 そしてただの一日も( 27年間! )
徹夜がありませんでした!( 漫画家の仕事場で徹夜がゼロというのは稀有
な例です )
 
仕事は週に3日から4日・・・・!

当時、まだ「週休2日制」すら一般に普及していなかった時代に秋山プロは
週給3~4日を実現していたわけです! 

その上、夏1ヶ月冬1ヶ月の長期休暇がありました。
 
さすが、「 お姉~ちゃん、あちきと遊ばない? 」というセリフで一世を風
靡した「 浮浪雲 」の作者です。 
 
我々アシスタントはジョージ先生に、貴重な時間をいっぱい与えられていた
わけですから、自分の漫画をガンガン描くチャンスだったわけですが・・・・・
 
私を含めこのチャンスを活かしきれずに、甘えて過ごしてしまった秋山プロ
スタッフ一同でありました・・・・・・いや・・・・・・

・・・・・・一人だけを除いて!
 
 
ガンさん( 仮名:羽賀 司郎、東京出身、28歳 )は私が秋山プロに入ってから、
2ヵ月後に独立するのですが、ガンさん( だけ? )は実によく作品を描いてい
ました。
 
だからこそ、デビューし連載を持って独立できたのだと思います。

ガンさんは、私がここに入った時にジョージ先生から「 小池( 私 )の事はおめ
ィにまかせるから・・・ 」と、言われたそうです。

そして、23歳、まだこの世の裏も表も何も知らない私に色々と・・・・・・・・・・
・・・・色々・・・・・・・・・・

・・・・・・そう「 色々 」の道を指南して下さった訳けで・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
さて・・・さて・・・・・・ 

この事については書くべきか、書かざるべきか・・・・・・・・

悩んでいるのですが・・・・・・・・・・・・・・・・

まぁ・・・・・・

大丈夫かな・・・・・・




           
( この写真は、東京池袋東口方面の繁華街です。ネオンの輝きは今も昔も変わりません。《2005年
  10月撮影》 )  


 
 
             その12  ・・・・・・  2005年10月13日 21時03分 (公開)
  
    
今回は、ガンさんが指南してくれた好色一代記です・・・・・・・。 

しかし、その前にガンさんについて少しお話したいと思います。
 
ガンさんがジョージ秋山プロに入ったのは1969年、春( 昭和44年、当時19
歳 )。

初めてジョージ先生に会った時は、耳に赤鉛筆をかけ、競馬新聞を小脇に抱
えてフラリとやって来たわけです。 

その時ジョージ先生は、いかにも軽そうなガンさんに一冊のノートを見せま
す・・・・・・

そのノートには、大勢のアシスタント志望者の名前が書かれていて、ガンさ
んが弟子入りできるかどうかは、難しそうな雰囲気が・・・・・・( この当時のジョ
ージ先生は少年ジャンプ、マガジン、サンデー、キング、チャンピオン・・・・
・・・ほぼ全てに週刊連載を持っていた頂点の時代でした。 )
 
ところが・・・・・・

意外と簡単に弟子入りがOKになったのです・・・・・・あのノートは先生の見栄
(?)だったのかもしれません・・・・・・
 
 
さて、ガンさんの話に戻ります・・・・・
 
ガンさんはスマートな色男でした。( 今現在は55歳ですが、もう10年以上会
ってないので、なお色男であり続けているかは不明 ) これほどの「 モテ男 」
はめったにいません。

私にとってはベスト3( No1はジョージ先生 )に入るほどの「 女たらし 」で
した。 悪い人ではないのですが、そのやさしいマスクと甘いトークに女性
はコロコロ転がされてしまいます。
 
私のようにモテない男にとってはとても信じられない様な事が起こります・・・
・・・・・・

ガンさんと一緒に西武池袋線沿線のある喫茶店に入った時の事です・・・・・

ウェイトレスさんが注文を聞きに来た時に、デレデレとガンさんを見つめま
す・・・・・初めて入った喫茶店のウェイトレスさんが、初見の客に向かってデレ
デレと色目を使うのをはじめて見ました。

彼女は、色気たっぷりに・・・・・

 「 あらァ、あたしの知り合いに、とてもよく似てらっしゃるから・・・・ 」

ウェイトレスが客をナンパするなんて・・・・・・モテない男にとっては不愉快極
まりない話です。

 
 「 小池ちゃん、簡単よォ。女は、みんな男を待っているんだからァ! 」
 
ガンさんによく言われた言葉です。 

夜の池袋駅前、雑踏の中を一緒に歩いていると・・・・・・

西武デパートや東武デパートなどの駅出入り口などで、その壁際に立ってい
る女性を指さしながら・・・・・・
 
 ガンさん「 小池ちゃん、あそこに立っている女に声かけてみ、誰
       でもいいから・・・・・・ 」
 
 私   「 え~ッ! 出来ませんよォ・・・ だってボーイフレンド
       か誰かを待ってるんじゃないですか・・・? 」
 
 ガンさん「 かまやしないよ、大丈夫だよ! 」
 
 私   「 出来ませんよ! 」
 
いったい何を話しかけろというのか、時々ついて行けなくなる事がありまし
た。
 
もしガンさんが漫画を描いていなかったら、絶対新宿あたりのホストクラブ
で売り上げNo1ホストになっていたのではないかと思います。 

ただ・・・・・・

表面上は、明るいガンさんなのですが・・・・・・

どこかに暗い一面があり、それが複雑な家庭環境に原因があるのか・・・・・水
子の霊が5~6体取り付いている事に原因があるのか・・・・・その辺のところは、
未だに分かりません。
 
 
漫画作品の明るさ、暗さ、重さ、軽さ、テーマ、キャラクターさまざまな事
に作者の「 性 」が関係してくると思います。

ですからここでは、その「 性 」ついて書いていく事が無意味では無いと信
じています。
 
 
23歳、私は当時風俗には全然興味がありませんでした。 そういう世界はテ
レビの「 11PM 」や「 ナイトショー 」( 1970~80年代の風俗番組 )の
中だけの世界だと思っていました。

そんなボンボンみたいな私をガンさんは・・・
 
 「 小池ちゃん、ダメよォ! もっと世の中の事知らなきゃ! 」
 
躊躇する私を笑い飛ばしながら・・・・・・
 
 「 暗いなァ! 小池ちゃん、ダメよォ! 明るく行かなきゃ! 」
 
当時、暗かった私にとって、『 明るく行く 』という言葉にまったく抵抗出来
ませんでした・・・・。
 
こうして私は・・・・・・

 「 小池ちゃん、大丈夫よォ! 」

羽虫が水銀灯に引き寄せられるように・・・・ 池袋のネオンの闇へ・・・・・・
 
 



          
( この写真は、東京池袋東口、サンシャイン通りです。私が行ったキャバレーはこの先を左折した
  所にありました・・・。《2005年10月撮影》 )  


 
 
             その13  ・・・・・・  2005年10月某日 (公開)
  
    
漫画家アシスタントの性生活について、誰か書いた人がいたでしょうか・・・・
・・・・? 

漫画と個人的な性生活に何の関係があるのか? 

全然関係ないと思っている人が多いかもしれません。 しかし、漫画家の感
性とそれは深くつながっています・・・・・。


私の「 好色一代記 」の旅先案内人であるガンさん( 仮名:羽賀 司郎、東京
出身、昭和53年当時、28歳 )は、あの有名な石森プロ( 石ノ森章太郎先生の
仕事場、東京練馬区桜台 )でアシスタントをしていた経験があります。

そこでは、「 ハレンチ学園 」や「 デビルマン 」で有名な永井 豪先生とも
一緒に背景を描いていたそうですが、徹夜がイヤで、夜逃げしました。

そして、ジョージ秋山プロへ・・・・・・。 

ジョージ先生の「 パットマンⅩ 」( 1967年・講談社 )が大好きで19歳の時に
師事。そして約10年後に私が秋山プロに入り、2ヶ月だけのお付き合いでした
が、その強烈な印象を私に残して独立して行かれました・・・・・。

  ( 独立後、数回の連載で打ち切られ、その後は老母と身重の奥さんをかか
  えて随分とご苦労なさったそうです。前回「 出世頭 」と書きましたが、
  同時に「 貧乏頭 」でもあったのです・・・・ )


現在、風俗といえば、ソープランド、ヘルス、イメクラ、キャバクラ、のぞ
き、ホテトル、デートクラブ、デリヘル、ランパブ・・・・・・・と、百花繚乱です
が、1970年代の日本にはトルコ風呂( ソープランド )とキャバレーとごく少数
のパンマ( マッサージ売春 )と、芸者遊びぐらいしか「 風俗 」といえるものは
ありませんでした。

男が夜遊びに出かけると言えば、このいずれかしか選択肢がない時代に、私
は生まれて初めて「 キャバレー 」へ・・・・・。


池袋の東口、今のサンシャイン通りの近くにあったキャバレー「 ハワイ 」へ
連れて行かれたのです・・・・。

赤とピンクの照明の中に私より年上の女性たちとサラリーマン風の客が一人
か二人・・・・・。

ビールは、下戸の私にとってはただの苦い炭酸水・・・・。 

ダサい演歌のBGMはまるで「 バカだ~バカだ~ッ バカになれ~ッ 」と
叫んでいるようにガンガン響く・・・・・!

客一人に対して女性が一人付くシステムのようでしたが、残念ながらその時
私に付いた女性の事は全然憶えていません。 

 私   「 なに喋ったらいいんですか~ッ? 」

どなるように話さないと聞こえない。

 ガンさん「 何ンでもいいんだよ! テキト~にさァ! 」

ガンさんは楽しそうに指名(!)した女性としゃべっている・・・。

 私   「 何をすればいいんですか~ッ? 」

 ガンさん「 何ンでもやっちゃいなァ~! 」

とにかくBGMのクソ演歌がうるさい!

 私   「 何ンでもって、何を~ッ? 」

 ガンさん「 指だよ~、指! 」

演歌はうなる・・・・・!

 私   「 指ィ~ッ? 」

 ガンさん 「入れちゃえッ! 」

だんだん付いて行けなくなる・・・・・。 

それでも恐る恐る相手の女性のパンツに触る・・・・・・鋼鉄のように硬いパンツ
でした。 

残念ながら・・・・・・

この女性については、パンツの硬さしか記憶に残っていません・・・・。




          
( この写真は、東京池袋駅東口を出て、真っ直ぐ行った先にある繁華街です。賑やかさは昔と同じ
  ですが・・・ 《2005年10月撮影》 )  


 
             その14 ・・・・・・  2005年10月28日 13時05分 (公開)
  
    
キャバレーでの緊張した時間は、漫画とは全然関係ない無駄な時間ではあり
ません・・・!

つまり、女の子のオッパイをもんだり、パンツを脱がそうと無駄な汗を流す
事が漫画制作に結びついていきます。( ポルノ漫画を描くという意味ではあ
りません )

より具体的な言い方をすれば・・・・・・私はこの瞬間( ガンさんとキャバレーに
いた1978年昭和53年6月某日の夜 )ガンさんを学んでいた( 盗んでいた )と言
えます。

ガンさんという人間を特別な状況下で捉えていたのです。・・・残念ながらお相
手の女性からは「 パンツの硬さ 」しか学んではいませんでしたが・・・・・

この「 捉え方 」や「 捉える大きさ 」が私の感性の限界を意味します。

この限界値の大きな人を「 感性の豊かな人 」といい、創作活動の重要な柱に
なるのではないかと思います。


記憶ではこのキャバレー「 ハワイ 」には3,4回「 旅行 」したと思いますが、不
満そうな私を見て、ガンさんが言いました・・・・・

 ガンさん 「 小池ちゃん、今いくら持ってる・・・? 」

 私    「 1万円くらい・・・・・・ 」

 ガンさん 「 よし! 行くぞ! 」

1978年昭和53年7月某日の夜10時ごろ・・・・・・私は生まれて初めてトルコ( ソー
プランド )旅行に行く事になりました・・・・・・。


私はそこで、「 ハワイ 」での出来事より、もっと強烈に相手の女性( トルコ人
ではありません! )から感性を刺激されます・・・。

「 ただのスケベだろ 」と、言ってしまえばそれだけの事なのかもしれません
が・・・・・・・・


 ( お待たせいたしました・・・・・・いよいよ、その時がやってまいりました )




          
( この写真は、1978年に初めて行ったトルコ(現ソープランド)「丘」があった池袋東口の路地裏
  ・・・・《2005年10月撮影》 )  



             その15 ・・・・・・ 2005年11月04日 18時51分 (公開)
  
    
ソープランドの料金システムは、受付で払う入浴料と個室内でコンパニオンさん
に払うサービス料の2回払い方式になっています。

当時の料金相場は安い所で両方合わせて1万3~4千円位( 今は、もうちょっと高
め )。 高級店で3万円位でした。 

80年代のバブルの時代に6万円、7万円という超高級ソープが出てきますが、同時
に「エイズ騒動」がこの業界に大打撃を与えました・・・・。

その後の平成不況下で料金が低く押さえられたまま現在に至っています。


私は聖徳太子( 当時の1万円札 )1枚を握りしめ、ガンさん( 東京出身、28歳。氏は
この時オケラでした )に連れられて池袋東口の路地裏へ・・・・・・・。

忘れもしません、池袋東口を出て「 耕路 」( 喫茶店 )のわきを真っ直ぐ行き、突き
当たりにある牛丼屋の横を入った所に・・・・・・・・・

「 トルコ( 現ソープランド )丘 」はありました。 

オレンジ色の小さな看板「 トルコ丘 入浴料4000円 」・・・・・陰気な和風の玄関・・・
・・・・ 

一枚だけのガラス引き戸を開ける・・・・・・

ガラガラガラ・・・・・


 ガンさん 「 オレ、待合室で待っててやるから・・・・ 」

 私    「 ガンさん、本当に1万円で大丈夫ですか? 」

 ガンさん 「 ん・・・? 入浴料4000円で・・・・・中が確か・・・・・・1万だから・・・・・ 」

 私    「 た・・・足らないじゃないですかッ! 」 

私は小さな声でそう言ったのだが・・・・・

 受付   「 いらっしゃいませェ~! 」

中年のボーイさんがニコニコしながらこちらを見ている・・・ 

とりあえず奥へ・・・・・・・会計で入浴料4000円を払う。 

ガンさんは、ボーイさんに自分は待合室で待っているからと告げる・・・・・・。


 私    「 ほ・・・本当に後・・・・・6000円しかないんですよォ! 」

ガンさんは、妙に落ち着いていて、あわてている私を哀れむように見つめながら・・
・・・・はっきりと・・・・・・!

 ガンさん 「 大丈夫。 大丈夫よォ~小池ちゃん! 値切ればまけてくれ
       るから! 」

 私    「 本当に大丈夫なんですかァ・・・? 」

 ガンさん 「 大丈夫よォ~小池ちゃん、 ホントに! 」


しかし・・・ それは、ウソでした・・・・・!




          
( この写真は、東京、池袋駅東口。初めて行った"トルコ丘"近くのネオン街です。・・・・《2005年
  10月撮影》 )  




             その16 ・・・・・・ 2005年11月10日 22時37分 (公開)
   
    
性風俗に対するイメージというものは未体験者にとっては不潔で危険な場所・・・・
・・・・・と、いった感じかもしれません。

1978年、初めて行ったソープランドに対して私もそうしたイメージを持っていま
した。 しかし、実際体験してみると以外に明るく清潔なので驚きました。


待合室で待っていてくれるガンさんを後に、安っぽいスリッパをペタペタさせな
がら個室へ・・・・・・

個室には担当するコンパニオンさん( ソープ嬢 )が案内してくれます・・・・・なんと
表現したらいいのか・・・・・ 

ハロウィンのかぼちゃキャラを少しカワイクしたような・・・・・・・田舎っぽい小柄
な女性・・・・・・・・・ ( 当時23歳の私より10歳位年上か・・・ )

初めてのソープランドで、最初に口にする言葉がサービス料金を値切る話とは・・
・・・・・今、思い出しても気が滅入ってきます・・・・・・


 ソープ嬢 「 お湯加減はいかがですかァ? 」

 私    「 ・・・は・・・・・・・はあ・・・ い、いいです・・・・・・ 」

彼女はニコニコ作り笑いを浮かべながら、オケにブクブクとシャボンの泡をたて
ている・・・・・ 

お湯の中で、のん気にはしていられない・・・・・早く料金について話を始めなくて
は・・・・・・・・・ ( 私の所持金6千円・・・ )

 私     「 あ・・・ あのォ・・・・ 料金はァ・・・・・・・・・ 」

 ソープ嬢 「 え? サービス料ですかァ? 1万円ですよォ 」( それは知っ
       てるの、それは )

彼女はこの瞬間まではニコニコしていた・・・・・・・

 私     「 あのォ・・・・ 少しィ・・・ まけてェ・・・・・・もらえませんでェ・・・
        ・・・・しょうかァ・・・・・・・・・ 」

彼女のニコニコした顔が「 ニコ 」っと止まった。 

笑い仮面のようだ・・・・・・

そして、きっぱりとクールに・・・・

 ソープ嬢 「 いくら? 」

 私     「 あのォ・・・・・ ろ・・・6千・・・円・・・・・・位にィ・・・・・・・ 」

笑い仮面は消え、まずい物でも食べている様な不機嫌な顔で・・・・・・・・・チッ、と
舌打ちした。

 ソープ嬢 「 外歩いてる女に、1万やるからヤラせてくれって言ってさァ
        ヤラせてくれる女がいるかいッ! 」

 私     「 ・・・・・・・・・・・・・ 」

 ソープ嬢 「 1万円だって安過ぎるくらいなのに! 」( ごもっとも! )

私はお湯の中で、ここにいる自分を憎んだ・・・・・・・。


結局、中途半端なまま・・・・・ご帰宅となるが・・・・・・・・・

このシチュエーションは色々な漫画のシーンに利用できる・・・・・・・

例えば・・・・・・

ボスキャラの魔女を倒そうとする未熟なナイトとか・・・・・・

女組長に面会した新米刑事とか・・・・・・



   漫画家アシスタント物語、血の教訓
   

  『 どこでいくら使って遊ぼうが、十分おつりがくる位ネタに利用して
     いくのがプロの漫画家。 「 楽しかった 」「 面白かった 」で終わ
     っていたら一生漫画家にはなれません。』
 
    

    

          
( この写真は、ジョージ秋山プロ室内。ちょうど仕事が終わったところです・・・・《2004年撮影》 )  




             その17 ・・・・・・ 2005年11月某日 (公開)
  
    
「 内の仕事場には『 ムショ帰り 』も居るんだぜェ・・・ 」

私がこの仕事場に勤め始めた頃( 78年春 )にジョージ先生( 当時35歳少年誌青年
誌合わせて4~5誌連載 )に言われた言葉です。

この仕事場のアシスタントたちのユニークな顔ぶれをちょっと大げさに言った
のだと思います。 

しかし、当時の私はそんな事とは知りませんから、いったい誰が「 ムショ帰り 」
なのか・・・・・そしていったい何をやらかして刑務所に入ったのやら・・・・・・仕事中
にあれこれ考えていたものでした・・・・・・。

仕事場のスミに座る坊主頭の男・・・・・この男が怪しい・・・・・目つきが悪く、声が
しゃがれて品がなく、いかにも「 悪 」っぽい・・・・・・。 

それがマツさん( 広島出身、24歳、当時、秋山プロ3年目 )でした・・・・・・。

背は小柄なのですが肩をいからせ猫背で歩く姿は任侠風。

仕事中は、ただの一言も口を利かない・・・・・・そして、笑うという事もまるでなく、
いつも眉間にシワを寄せながらしゃがれ声で、ボソリボソリともらす広島弁・・・・・・


私はある日、下落合( 東京新宿区 )にある喫茶店で氏と二人で喋っている時に気に
なっていた事を訊いてみました・・・・・・

まず、ジョージ先生が「 ムショ帰り 」が居ると言っていた事を話すと・・・・・・

 マツさん 「 ムショ帰りィ・・・? そんな奴おらんじゃろォ、内にィ・・・ 」

 私     「 でも・・・・・・確かに先生が・・・・・・ 」

マツさんがふと思い当たる事でもある様に顔を上げ・・・・

 マツさん 「 ひょっとして・・・・ ○○さんの事けェ? ・・・・じゃがありゃ~
        刑務所っつ~事じゃなかろォ・・・・・  」

 私     「 ○○さん・・・? 」

 マツさん 「 おお、そうじゃ。 酒に酔って女にちょっかい出して留置場
        に入れられたンよ。」
 
 私     「 ・・・留置場に・・・・・? 」

 マツさん 「 一日だけよ。 強制ワイセツっちゅ~たって、本人は酔っ払
       ってて何ンも憶えとらン。 目が覚めたら留置場じゃったと 」

 私     「 ・・・・・・・・ 」

 マツさん 「 ありゃ~ ムショ帰りとは言わんじゃろォ・・・ 」

 私     「 そうだったんですか・・・・オレはてっきりマツさんが・・・・・・そ
        うなのかと・・・・・・・・すいません・・・・・・ 」

 マツさん 「 ・・・・・・・・・ 」

マツさんは一瞬、目を大きく見開き・・・・

 マツさん 「 ハヒッ ハヒッ ハヒッ・・・! 」

しゃがれ声で笑いながら・・・・・・

 マツさん 「 ワシがムショ帰りけェ・・・・・・ ひっでェ~のォ~ッ! 」

二人で笑う・・・

 マツさん 「 わしゃ、そんな風に見られとるンかい・・・・んん~・・・・ 」

すぐマジな顔に戻るマツさんである。 


でも、無口なマツさんはお酒を飲むと人が変わったように饒舌になる・・・・・・。

次回は、マツさんとジョージ先生との思い出を・・・・・・
  
  
   

          
( この写真は、1975,6年当時にジョージ秋山プロがあった東京新宿区中落合の某マンションです。
  ・・・・《2005年10月撮影》 )  



             その18 ・・・・・・ 2005年11月25日 02時29分 (公開)
   
     
喫茶店でコーヒーが運ばれても二人は沈黙していた・・・・・・・

「 おめィ~は・・・バカかァ?! 」

マツさん( 仮名:松村 祐樹、広島出身、当時21歳 )が初めてジョージ先生と喫茶
店でコーヒーを飲んだ時に言われた言葉です。 ( 1976年 昭和51年 )


マツさんが始めて先生に会ったのは、高校2年の春。 二人の友人と広島から上
京して、自分たちの原稿を見てもらった時です。

先生( 当時31歳、売れっ子漫画家 )はその時、ていねいにそして鋭く3人の漫画少
年に批評してくれたそうです・・・・・・。

「 感性で描け! 」そして、不要なコマやページを指摘しつつ「 これなら3コマ
で描ける! 」等々・・・・


マツさんは18歳で家を出て東京で自立します・・・・・漫画家めざして・・・・・・ 

すぐに漫画家デビュー出来るだろうと思っていたのに・・・・・そう甘くはありませ
ん・・・・・・。

1ヶ月はアルバイト、次の1ヶ月は漫画制作・・・・・・しばらくそのペースで雑誌に
投稿していました。 

1年ほどで新人賞の最終選考に残るレベルになったり、編集員がアパートまで訪
ねて来てくれたりしたそうです。

しかし・・・・・・ 

デビュー出来ぬまま時間は過ぎ・・・・・・20歳を越え・・・・・・21歳になる頃まで短期
アルバイトと漫画制作・・・・・・

インスタントラーメンで空腹をいやす日々が続きました・・・・・・。 

すっかりやつれたマツさんが労働意欲も失せ落ち込んでいた時・・・・・

知人の勧めもあって、ジョージ先生の所でアシスタントをやる事に決めたのでし
た・・・・。

 『 漫画を描きながらメシが食えるなら・・・・ 』

・・・・・・そんな気持ちで3年ぶりにジョージ先生の仕事場へ・・・・・・・・。

 先生  「 おめィ、今何やってんだァ・・・? 」

 マツさん「 実は何もやってないんです・・・・・・出来ればアシスタントに・・・・ 」

 先生  「 ・・・・んん 」 

ジョージ先生は、二つ返事でOKしてくれました。

 先生  「 おめィ、前にここへ来た事あんだろォ・・・? 」

 マツさん 「 はい、3年前に・・・ 」

 先生  「 何でここで仕事したいんだ・・・? 」

 マツさん 「 ・・・・・・・こ・・・ここしかないから・・・・・・・ 」( 笑う )

 先生  「 おめェ、笑うといい顔してるな・・・ 」


アシスタントの初日、仕事場近くの喫茶店に呼ばれたマツさん。

ジョージ先生の座るテーブルにつきますが、先生は運ばれたコーヒーを前に一
言もしゃべりません・・・・・・。 

マツさんも、何がなんだか分らず黙っていました・・・・・・。

先生の沈黙は、まだつづきます・・・・・・

マツさんも黙っています・・・・・・

だんだん息苦しく・・・・・・・・・すると・・・・・・

 先生  「 おめィ~は・・・バカかァ?! 」

 マツさん 「 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 」

マツさんはどう答えたらいいのか必死に考えます・・・。

 『 俺はバカなんかじゃない!』

・・・・・なんて答えられっこないし・・・・・・・・

マツさんは考える・・・・・・・・・・・

必死に考え、そして・・・・・・・

 マツさん 「 は・・・・ はい・・・・バカです 」

 先生  「 それでいいんだ 」

 マツさん 「 ・・・・・・・ 」

 先生  「 バカになれ! 漫画バカに! 」


漫画家アシスタントにとって、憧れの先生に弟子入りした時の事は、生涯忘れ
る事の出来ない思い出になります・・・・・・。




          
( この写真は、1978年当時に秋山プロのマツさんと一緒に入った喫茶店があった目白通り、中落
  合界隈です。すっかり変わってしまって当時の面影もありません・・・・《2005年11月撮影》 )  



             その19 ・・・・・・ 2005年12月02日 21時08分 (公開)
  
    
それまでカチカチと動いていた時計が、ある時、ピタリと止まってしまう様に、
漫画制作の勢いが止まってしまう事があります・・・・・・。

1976年、マツさん( 広島出身、当時21歳 )がジョージ秋山先生に師事しました。
遅刻男の私がやって来る2年ほど前です。

腰まである長髪、破れたジーンズにサンダル。 くわえタバコにしゃがれ声の広
島弁・・・・・・( 私が入社した頃には坊主頭になっていました )

背景処理のスペシャリストならカンさん( 神戸出身、‘76年当時23歳 )。アシスタ
ントのイケ面ホスト№1のガンさん( 東京出身、‘76年当時26歳 )。 

そして、秋山プロの名物男と言える存在がこのマツさんです。


マツさんは初め、ジョージ先生に一週間は先輩たちの仕事を見てるだけで良いか
らと言われたそうです・・・・・・ ( 私の時と同じです! ) 

そして・・・・・・

本当に見ているだけで過ごしました・・・・・・ 

いや、それどころか・・・・退屈のあまり横になって寝ていたのです・・・・・。 

先輩たちが黙々と仕事をしているその脇で、ゴロゴロ横になって漫画雑誌を読ん
だり、グ~グ~寝たり・・・・・・・

そして、ついに一週間が経とうとしている時・・・・・・

イイ気分で寝ていたマツさんの、腰のあたりを誰かがつま先で蹴りました・・・・ 

マツさんが横になったまま、あわてて振り返ると・・・・・

先生が上から見下ろしている・・・・・・

 先生  「 おめィ~・・・ 何やってんだァ・・・? 」

 マツさん 「 はぁ・・・ 寝てましたぁ・・・・・ 」

 先生  「 寝てましたじゃね~だろォッ! バカヤロウッ! ここは、
       戦場と同じなんだぞォッ! 」

・・・と、一喝される・・・・・・。 

マツさんの心臓が凍りついた一瞬である。


こうしてマツさんは、アシスタントの初歩・・・・・・・

ベタ塗りと、先輩が描いた原稿のホワイト仕上げ・・・・が始まりました。 

実にこの日から6ヶ月間も毎日毎日、「 ベタマン 」( 墨ベタ専門 )をやらされる
はめになったのです・・・・

そして、すぐ漫画家になれるものと思い込んでいたマツさんはこの日から数年間、
自分の漫画を描かなくなります・・・・。 

 『 漫画なんて、何時でもすぐ描けるけェ・・・・ 』 

その気持ちこそが実は深い落とし穴だった事に、この頃はまだ気が付いていませ
んでした・・・・・・・。




          
( この写真は、今月の8日にマツさんと仕事帰りに寄った目白通りのカフェです。コーヒーとココア
  で500円ちょっと・・・結構安いです。 《2005年11月撮影》 )  



             その20 ・・・・・・  2005年12月09日 21時25分 (公開)
  
    
 私   「 秋山プロに入る前はあれほど漫画を描いていたのに、どうし
      て入ったとたんに描けなくなったんですか・・・? 」

 マツさん「 先生に『 描くなッ! 』って言われたんじゃ・・・ 」

 私   「 えッ!? 」


2005年12月8日、目白通りの或るカフェでマツさん( 51歳、現在も秋山プロに在籍 )
は30年前を思い出しながら語ってくれました・・・・・

『 描くなッ! 』と言う言葉は、『 もっと勉強しろ 』という意味だったようです。
しかし、マツさん( 1976年昭和51年、当時21歳 )は本当に描かなかったのです。

その後7年間も・・・・・・。

 マツさん「 あの頃は酒の味も覚えた頃だし、女もおったしのォ・・・そっちに
      イッてしまったのォ・・・・・・ でも、本は結構読んだのォ・・・・・そ
      れに映画もよく見たのォ・・・・ 」


そんなマツさんも、あっという間に7年がたち、30歳を前にして焦り出します・・・・。 

私もなぜか30歳を目前にした頃に最も多く漫画を描きました。 

マツさんは週に一本の短編作品を描く事を自分に課します。 

しかし、三週目の作品でつまずいてしまいます・・・・・・。

それっきり、道を見失った旅人の様に漫画制作から遠ざかっていってしまいまし
た・・・・・・。 


マツさんは秋山プロに入ってから30年になりますが、初めに先生から『 描くな
ッ! 』と言われてからその後、先生から『 描け 』とは言われませんでした・・・・。

 マツさん「 先生は『 描くなッ! 』と言ってから30年間一度も『 描け 』
      とは言わんかったのォ・・・ 」

 私   「 本当ですか? 一度も? 」

 マツさん「 ・・・ん・・・・・・でも、この間( 一ヶ月ほど前 )一緒に朝まで酒を飲
      んだ時『 描け 』って言ったんじゃ・・・・・今頃、言われてもなァ
      ・・・・・もう描けんぞォ・・・・・・・ 」

 私     ( 笑い )

 マツさん「 30年前に言ってくれりゃガンガン描けたんじゃがのォ・・・
      ・・・もう、描けん・・・・・ 」




         「 漫画家アシスタント 第3章 22年改訂版 まとめ3 」 へつづく・・・



             【 「漫画家アシスタント第3章 22年改訂版 まとめ1」へ戻る 】




       * 参考 *   
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  .............. 私(yes)のアシスタント履歴
  
  1974年昭和49年 さがみゆき先生 主に(少女系)怪奇漫画。単行本1冊分、
           4,5ヶ月のお手伝いでした。 (19歳)
     
  1976年昭和51年 かわぐちかいじ先生 この当時、氏は今ほど有名ではなか
           ったのですが、背景技術をみっちり仕込まれました。(20歳)

  1977年昭和52年 村野守美先生 漫画界一の豪傑と言われ、エピソードには
           事欠きません。たった1週間しか勤まりませんでした。(21歳)

  1978年昭和53年 ジョージ秋山先生 当時「浮浪雲」(ビックコミックオリ
           ジナルに連載)が、すごい人気で、渡哲也、桃井かおりの
           主演でTVドラマ化されていました。(23歳) 

  2017年平成29年 ジョージ秋山プロを退社、タイ・チェンマイにて隠居中。(62歳)

                    
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~          




【 各章案内 】   「第1章 改訂版」  「第2章 改訂版」  「第3章 改訂版」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」   「古い話で章 その1」
          
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」

          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )



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漫画家アシスタント物語 第3章 22年改訂版 まとめ1

2022年12月06日 01時56分19秒 | 漫画家アシスタント

          
( この写真は、ジョージ秋山プロに勤め始めた頃・・・ 1978,9年の私。秋山プロ、仕事場の窓辺にて・・・ )  


 【 はじめての方は、どうぞ 「漫画家アシスタント 第1章 22年改訂版」 よりご覧ください。】


 
              その1  ・・・・・・・ 2005年07月28日 21時25分 公開


 『 さ~て、次はどこで仕事すっかなぁ~ 』

調べた数人の漫画家先生の電話番号リストを見ながら・・・・・・10秒ほど考えて
から・・・・・・・

ジョージ秋山先生( 漫画家、1966年、23歳で売れっ子作家に。‘70年には週
刊連載6誌という逸話もある。‘78年当時、35歳 )に電話をしました・・・・・・

まさか、26年間そこで生きていく事になるなどとは、夢にも思っていなかっ
た・・・・・・!

「 なんでジョージ秋山のアシスタントになったの? 」と、よく聞かれますが・・・・

「 偶然かな・・・ 」と、答えるかもしれません。 

特別にジョージ先生が好きだったという訳でもなく・・・・・・だいたい先生の代
表作( 「 銭ゲバ 」や「 アシュラ 」、「 デロリンマン 」など )と言われる
ものでも、ほとんど( 少ししか )読んでいませんでした・・・・

ただ一つだけ・・・・・・大好きだったのが「 浮浪雲 」( 小学館「 ビッグコミッ
ク オリジナル 」 )をドラマ化したテレビ番組( 朝日テレビ、78年4~8月、
渡哲也、桃井かおり主演 )でした。

当時は、毎週欠かさずテレビの前で笑い転げていたものです。

この作品に登場する主人公と、作家ジョージ秋山先生とをダブらせていたから
なのか・・・・・・それが、漫画家先生数人のリストの中から氏を選んだ理由だと思
います・・・・・。

さて・・・・・・

電話をしてどうなったかは、「漫画家アシスタント物語 第1章 22年改訂版」
に書かせていただいた通りです。


正直な話、私はどうもアシスタントの仕事を真剣にやった事がほとんどありま
せん。 普通のバイトだと真面目にやるのに・・・・・・絵は趣味の延長・・・・・どうし
てもアシスタントの仕事だと中途半端な気持ちになってしまう・・・・・


秋山プロへの仕事の初日・・・・・・忘れる事の出来ない初日の記憶・・・・・・

26年前( 23歳 )、1978年( 昭和53年 )春。 私の記憶は・・・・・・喧騒の新宿西
口、その地下広場から始まります・・・・・。

仕事はお昼の12時に始まるのですが・・・・・・私は午後1時に新宿にいました。

地下広場で焦って公衆電話へ・・・・・・雑踏の中、私は受話器に向かってハキハキ
と・・・・・

  私  「 もしもし・・・ 」 

  先生 「 ・・・・・・・ 」

  私  「 もしも~しっ! 」

 ややあって、先生のドスの効いた小さな声が・・・

  先生 「 ・・・誰ィ? 」 

  私  「 小池(私)です~! 」

  先生 「 ・・・・・・・ 」

  私  「 すいませ~ん! ちょと遅れそうなんですぅ・・・ 」

  先生 「 ・・・なんでィ・・・・・? 」

  私  「 寝過ごしちゃってぇ・・・ 」

  先生 「 おみィはよォ、何考ェてんだァ! 初日から遅刻がよォッ! 」

 ガチャンッ! 

電話が切れた・・・・・・・・・・。

や・・・やべェ・・・・・ゲロ吐きそうな気分で仕事場のある目白へ向かう・・・・・。





          
( この写真は、'75~8年当時住んでいた木造アパート銀嶺荘の外観の一部です。《'05 7月 撮影》 )  

 
              その2  ・・・・・・ 2005年08月05日 02時51分


1978年 昭和53年、春。

26年間に及ぶ漫画家アシスタント生活の初日・・・・・。 

その記念すべき第1日目は、春だと言うのにベタ付く汗をかきながら、遅刻し
て仕事場へ向かう憂鬱な午後から始まった。


東京、JR線目白駅から10分ほどの所にある某マンションの「 704号室 」それ
がジョージ秋山プロである。 

ブザーの壊れたドアをノックする・・・・・・

「 は~いっ 」若い女性の声が答えてくれる・・・・・・ドアを開けてくれたのは秋
山プロの紅一点、ユミさんこと吉村由美子( 仮名、通称ユミさん )・・・・・・

ショートカットで、目はキリッとした一重。 口元の可愛い元気な女性、新入
りの私にとって頼りがいのある先輩・・・・・・それが第一印象でした。 

ドアを開け室内に案内してくれたユミさんは、2時間近く遅刻した私を笑顔で
やさしく迎えてくれました・・・。

ゆっくりとスタッフに自己紹介してるヒマもなく、すぐジョージ先生の部屋
へあいさつに・・・・・・ 
  
  
ジョージ先生は個室で窓に向かって仕事をしているので、私はその後姿に向
かって・・・・・・ 

蚊の泣くような小さな声で・・・・・・

 「 お・・・おはよ・・・・・ございます・・・・・・遅くなって・・・・・・す・・・すいませ
   んでしたぁ・・・・・・ 」
 
ジョージ先生は背中を向けたまま・・・・・・

 「 もう、陽が傾いてるよ 」

 「 す・・・・・・すいませんでした! 」

ジョージ先生は明日ペン入れする原稿に下書きしている。まだ、こちらを振
り向かない。

  「 おみィはよォ・・・・・・何ィ考ェ~てんだァ~? 」

  「 ・・・は・・・はい・・・・・・・ 」

ジョージ先生はまだ私を見ない・・・・・原稿に向かっている。

私は声が出ない・・・・・・

息もできずにいる私を憐れむように・・・・・・

  「 も~いいから・・・・・・みんなの仕事をよく見てな 」
  
先生の背中に一礼・・・・・・

スタッフの仕事場にもどる・・・・・・見るからに落ち込んでいる私にみんなやさ
しかった・・・・・・。

「 あんまり気にする事ないよ・・・ 」と声をかけてくれる先輩Aさん。

ニコニコとイタズラっ子の弟でも見るようなやさしい笑顔のユミさん。

そして、「 ここだからね・・・ 」と私の席を指示してくれるチーフ格Bさん、
先輩Cさん・・・・・。 

みんな、とても・・・・・・やさしい!( 甘いの大好きな私 )

 Bさん 「 最初の一週間は、見てるだけでいいから 」

 私  「 ・・・・・・! 」( 一週間、何もしないで見てるだけ? )





          
( この写真は、'75~8年当時住んでいた木造アパート銀嶺荘の外観の一部です。左側の白い部分が
  銀嶺荘で、私の部屋は左の外階段を上った2階でした。 )  


              その3  ・・・・・ 2005年08月11日 18時28分 公開


仕事の初日に、一週間は見てるだけでよいと言われた・・・・・・ ( 1978年昭和
53年 春 私、23歳 )

そして、初日の仕事は本当にただスタッフの仕事ぶりをボンヤリ見ているだ
け・・・・・・それも4~5時間で終わり・・・・・・。 

夕方6時頃には仕出し弁当を食って終業。 

別室にいるジョージ先生にあいさつも無く、その場で全員退社。

帰る時に先輩スタッフに誘われて、豊島区南長崎の喫茶店へ・・・・・・。

この場所は、当時のマンガファンにとっては有名な場所「 ときわ荘 」の近
くです。

その喫茶店の名前は「 エデン 」。 ときわ荘を中心に漫画家や編集員など、
多くの業界人がコーヒーを飲んだお店です。( 古い漫画関係者なら、きっと
ご存知のお店です )

最古参のアシスタントで、もう10年以上ジョージ先生に師事していたガンさ
ん( 仮名:羽賀 司郎、28歳 )は、2ヶ月後に○報社の週刊少年Kに連載マンガ
を発表して独立していきます。

ガンさんの次に年長のテラさん( 仮名:寺山 新一、26歳 )と1年前に秋山プロ
に入ったマツさん( 仮名:松村 祐樹、24歳 )は「 ブロック崩し 」( 「インベ
ーダーゲーム」と並んで‘78~9年に大流行 )のテーブルゲームに夢中・・・・。

坂本竜馬の大ファンで「 歩く幕末 」と言われたリョウさん( 仮名:内海遼一、
24歳 )は、とても無口で一見して「 まじめ 」を絵に描いた様な人。

そして私がこの先20年間「 遅刻男 」になる大きなキッカケを作ってくれたカ
ンさん( 仮名:菅原 浩二、25歳 )。 

カンさんが言って下さった一言は、私の20年を決めてしまう・・・・・

 「 小池君、10分や20分遅刻したって別に構わないんだよウチは・・・・
  オレなんか昔はしょっちゅう遅刻してたからさ、人の事とやかく言
  えないんだよネ~ 」

当時の私の解釈・・・・・

 『 ここは、30分~1時間位までなら遅刻してもОK! 』

カンさんが言ってくれたのは、落ち込む私をなぐさめるための「 一言 」だっ
たのに・・・・・・・

とんでもない馬鹿アシスタントが入って来てしまったわけです。
 
 
 
 

          
( この写真は、'75~8年当時住んでいた木造アパート銀嶺荘の2階内部です。入り口すぐさばのトイレ
  前の共同水道です。 )  


              その4  ・・・・・・ 2005年08月18日 04時35分 公開
 
 
漫画家アシスタントの仕事をする時に、自分の背景技術のレベルより低いレベ
ルの所で仕事をするか、レベルのより高い所で仕事をするかで、その後の状況
がまるで違ってきます。 

前者は、はじめ楽勝( 背景処理が簡単にすむ )、後マンネリ( そのレベル以上に
成長出来なくなる )・・・・・。 

後者は始め地獄( 高いレベルに追いつくためにかなり苦しい思いをする )で、後
天国( 高いレベルに届けば自分のペースで仕事が出来る )!。
  
  
1978年 昭和53年 春・・・・・・

私は、かわぐちかいじ先生の所で劇画背景を学び、村野守美先生の所で感性豊
かな構図を学んだ( 不足! )おかげもあって、ジョージ秋山プロでは始めから背
伸びする事もなく、リラックスして仕事が出来そうでした・・・・・( 秋山プロのレ
ベルを完全にナメきっていた・・・・ )

「 最初の一週間は見てるだけでいいよ・・・・ 」とは言っても、毎日毎日ただ見て
いるのは、結構耐えがたいものがあり、自然と何か描きたくなりました。


2日ほどはジッとスタッフの仕事ぶりを見ていたのですが、どうにも我慢できな
くなり・・・・・ 

 『 劇画のリアルな背景・・・・・スクリーントーンの削り技法・・・・・そろそろ私
   の実力を見ていただこうか・・・・・ 』

私はこっそり作画資料の「 日本の道 」( 時代劇を描く時の貴重な写真集、現在
ではもう手に入らない )などをパラパラとめくる・・・・・・・。 

古い町並みの写真を見る・・・・・・どんだけ「 写真そっくりに描け 」と鍛えられた
事か・・・・!

小さな背景ではなく、いきなり1ページの大ゴマを・・・・!

 『 せこいジャブなど面倒だ、最初の右ストレート一発で決める! 』

製図用インク、丸ペン、ベタ筆、定規・・・・・ そしてZライトの角度を調整・・・・・

シャープペンの芯を確認・・・・ B2・・・・ カチカチカチ・・・・・・ 

そして、宣戦布告・・・・・ 


私は隣の席のテラさんに・・・・・

 「 あのぉ・・・・・・ 」
 
 
 


          
( この写真は、'75~8年当時に住んでいたアパート近く、杉並区堀の内にある妙法寺横の揚げ饅頭屋さん。
  できたてが美味かった!今でも健在!《2005年7月撮影》 )  


              その5  ・・・・・・ 2005年08月25日 22時09分 公開
 
 
ジョージ秋山プロの先輩アシスタントたちは、入ったばかりの私の背景技術の
レベルを知りませんでした・・・・・素人同然だと思っていたのです・・・・・( 1978年
昭和53年 春 )
 
私は当時23歳、最年少の新入り・・・・・ 初日から大遅刻し度の厚いメガネに不潔
な長髪・・・・・・ ゲタに破れたGパン・・・・・ しかし、私は自信満々・・・・・・。 

 『 そろそろオレの出番かな・・・ 』( 先輩アシスタントの実力を見切った
   つもりになっていた・・・ )
 
私は隣の席のテラさんに・・・・・

 「 あのぉ・・・・・描いてもイイですかぁ・・・・? 」 ( 今から考えれば奇妙
   な質問です )
 
テラさん「 あ・・・ああ・・・はあ・・・・いいんじゃないスかァ。 描きたけ
      ればァ・・・どうぞ、どうぞ・・・・ 」

  ( 「 描きたければァ・・・どうぞ・・・・ 」この答え方こそまさにこの仕事場の
  特異な空気を表現しています )
 
私はさして緊張もせず最初の仕事で「 浮浪雲 」( 小学館「 ビッグコミックオ
リジナル 」 )用( ・・・と勝手に決めている! )の1ページ大ゴマ背景に取り掛か
りました・・・・・・・。
 
 
しかし、先輩アシスタントたちは全然、私に興味など無く・・・・・・一週間ブラブ
ラ遊んでいようが何枚も仕事しようが、ど~でもよかったのです。
 
ただ一人をのぞいて・・・・・・・。
 
 
私の正面に座る秋山プロの背景大黒柱カンさん( 角顔の吉幾三にちょっと似て
いる、当時25歳 )。 

チーフアシスタントのいない秋山プロで実力的に誰もが一目置く存在のカンさ
ん・・・・・・その実力は他の有名な漫画家からヘッドハンティングされそうになる
ほどでした。
 
趣味が草野球のカンさんは日焼けしてガッシリした体格の持ち主。少ない言葉
でハッキリと物を言うストレートで誠実な人・・・・・・
 
そのカンさんが出来上がった私の原稿を真剣にみつめる・・・・・・・
 
          
私は、江戸の町中を流れる川にわざとスクリーントーン( あみトーン・中間色
を表現できる )を全体ではなく、ほんの一部分にだけ貼りました。

普通なら川にベッタリとトーンを貼って水面を表現するころだと思いますが、
私はほとんどを白のままで明るい空を反射しているように演出したのです。
 
その白っぽい川をにらみながら・・・
 
 「 すげェ・・・トーンの使い方するなァ・・・・! 」
 
私は自信満々で、「 当たり前さ 」と言わんばかりの不遜な態度・・・・・
 
 
私の様な大バカ者の遅刻男を静かに、何事も無かったかの様に、すんなりと受
け入れてしまうこの仕事場の、懐の深さを理解できないでいた23歳の春・・・・・・。
 
 
 


          
( この写真は、'75~8年当時に毎日利用していた丸の内線、新高円寺駅。今でも26年前と同じ内装の様です・・・。
  《2005年7月撮影》 )  


              その6  ・・・・・・・ 2005年09月02日 13時55分 公開
 
 
1978年、昭和53年頃にジョージ秋山プロが持っていた連載は「 浮浪雲 」「 花
のよたろう 」「 フーライブルース 」「 花の咲太郎 」「 ほらふきドンピンシャ
ン 」・・・・・・

以上の作品のタイトルを全て知っている人は、少ないと思いますが・・・・・・もし、
いるとしたら・・・すっごい漫画通かジョージ秋山先生の親衛隊です!( 金一封は
出せませんが、惜しみない拍手を送りたいと思います! )


東京、目白のマンションの7階。 秋山プロには私を含めて当時、7人のアシス
タントがいました。

仕事場にはAMラジオが流れ、TBSラジオのにぎやかなアナウンサーの声が部屋
に広がり・・・・・その中を、夏の終わりの鈴虫の様に・・・・・・・

カリカリ・・・ カリコリ・・・ サラサラ・・・ パタパタ・・・ コリコリ・・・

  
さて、新入りの私から見た先輩たちの漫画背景の技術レベルなんですが・・・・当
時まだ、ほんの「ひよっ子」だった私の偏見(!)によると・・・・・そのレベルは・・
・・・・・・・

まず、最年長者のガンさん( 仮名:羽賀 司郎、東京出身、28歳 )・・・・・・ 

ジョージ先生の絵柄に最も良く似ていて、昔は先生から信頼され、一番高い給
料を貰っていたそうですが・・・ 私には特長がイマイチ・・・・・・なマンガ背景に見
えました。( でも、2ヶ月後にデビューし独立。秋山プロの出世頭? ) 

次に、テラさん( 仮名:寺山 新一、博多出身、26歳 )・・・・・・

とても個性のある絵柄( 童話的 )なのですが、まるでジョージ先生の画風にマッ
チしない様な・・・・ テラさんの絵だけが独立したカット( テラさんの世界が出
来上がっている )の様に見えました。 

カンさん( 仮名:菅原 浩二、神戸出身、25歳 )・・・・・・

ジョージ秋山プロの中核。 大黒柱。 緻密で誠実な絵柄。 正確なデッサン
力。でも・・・・・・極々たまにキャラクターの大きさと全然合わない背景でみんな
を驚かせます。誰も何も注意しませんが、一番の実力者には遠慮があるようで
した。

マツさん( 仮名:松村 祐樹、広島出身、24歳 )・・・ 
  
ジョージ先生から彼の絵は「 手抜き背景 」の参考になるから・・・と言われてい
たのですが、手を抜くなと言われるのなら判るのですが、手抜きの参考にしろ
とはどういう事なのか不思議でした。

「 手抜き 」といえば、マツさんからはよくオナニーについての話をお聞きし
ました。

 「 わしゃ~のぉ、想像力を鍛えるために『 オカズ 』は使わんのぉ・・・
  ・・・そじゃけぇ、いろんな女とヤルとこを想像するんよ・・・ 」

・・・・と言っておられましたが、26年間ついにデビューを果たす事がなく・・・・・
・・・・・この「 オカズ禁止法 」、あまり効果的な方法ではなかったのかもしれま
せん。

リョウさん( 仮名:内海遼一、山口出身、24歳 )・・・・・

ちょっと元気のない背景・・・・・・。なんか淋しい・・・・・・。 

「 歩く幕末 」と言われている大「 竜馬ファン 」なのに、なぜか熱気が感じら
れない・・・。

ユミさん( 仮名:吉村由美子、?出身、?歳 )・・・・・

やさしくて明るい人。 おしゃべりで行動的なんだけど・・・・・ 

なんだか絵が暗い・・・・・・陰々滅々とした少女マンガを描く。
  
  
 久々の・・・漫画家アシスタント物語、血の教訓

  『 実力がモノを言う世界では、正しい者の言葉が正しいのではなく、
    実力のある者の言葉が正しいのである。』
    
    
 
 

          
( この写真は、東京目白、秋山プロ近くの或るスーパーマーケットです。雑貨品や飲み物類などは、毎日ここ
  で買い込みます。《2005年9月撮影》 )  


              その7  ・・・・・・・・・ 2005年09月09日 03時59分(公開)


ジョージ秋山プロに流れるジットリとした時間( 雰囲気 )を説明する事はとて
も難しいです・・・・・・。

お昼に仕事場へ来てもスタッフ同士であいさつするだけで、奥の個室にいる
ジョージ先生とは顔を会わさない( 帰る時もあいさつ無し )。

時々、先生の個室からスタッフが数枚の原稿を運んでくる。 キャラクター
だけが描かれた原稿には、「 海 」とか「 街 」とか「 長屋 」とか鉛筆で背景
を指示書きされているだけ。

後はそのページを取ったアシスタントが適当に描いていく・・・・。

ジョージ先生はもちろん先輩アシスタントもこちらが質問しなければ、何も
指示しない! 各人がバラバラに自分が描きたいようにに描く!

そして、ごくたまに服の柄や部屋の装飾などについて少し調整するだけ・・・・・

 「 この女の着物は誰か描いたァ? 」

 「 わしが描いたのゥ・・・ たて線じゃァ。 」

背景が昼か夜かなどもアシスタント同士で・・・・・・

 「 え~と・・・・・・3ページは誰? 」

 「 オレっす・・・ 」

 「 3ページから昼間になってるの? 」

 「 う・・・・オレはそのつもりだけど・・・・ 」
 
 「 お~っ、危ね~っ ! 4ページを夜にしちゃうとこだったよ! 」


個室にいるジョージ先生は、朝10時から終日食事はお昼のざる蕎麦だけ、ト
イレにもほとんど行かない・・・・・・個室の中で完全にイスに座ったまま仕事を
12時間以上しつづける!

これは、席を一旦はずすと・・・・集中力が切れてしまうのを嫌うからなのです。
だから、スタッフとも一日中、顔を会わさない事がけっこうあるのです。 

それでも仕事はちゃんと進行していく・・・・・・。 これで、一日20ページを仕
上げてしまう!( 並の漫画家なら5~10枚がやっとです )

1978年 昭和53年スタッフが7人いた頃の話です。 


今、2005年 平成17年・・・・・・スタッフ3人。一日10ページがやっとです。少な
い時は6ページほど・・・・・・

スタッフ数は往時の半分以下、仕事場もなんだか淋しい今日この頃です・・・・
・・・・・。
 
 
 


          
( この写真は、東京、JR線目白駅です。左手に学習院があり、右手に10分ほど歩くとジョージ秋山プロが
  入っているマンションがあります。《2005年9月撮影》)  


              その8  ・・・・・・・ 2005年09月15日 18時39分 (公開)


秋山プロで初めて描いた漫画背景は1pの大ゴマ「 江戸の川と蔵のある町 」
でした。 

そのペンタッチとスクリーントーン処理がスタッフ一同を驚かせた( 全然驚い
ていない人もいましたが・・・ )のは私のウレシイ思い出の一つです。

今でも信じられないのは、その背景が後に導入されるコピー機によって、20年
以上も繰り返し使用された事です。( ちなみにコピー機を使用するのはジョー
ジ先生 )

私と同じ様に、20年以上前に描いた背景が使用されるカンさんは、「 昔の背
景使われるのは、恥ずかしいなぁ・・・・・普通、こんな古い背景使うかぁ・・・? 」
・・・・と、苦笑いしていました。


さて・・・・ 今回はこのカンさんの思い出を少し・・・・・。

誰でも生まれて初めてする仕事の面接は、生涯忘れられない記憶として残る
ように、有名な作家に師事した時の記憶もとても鮮明に残るものです。

カンさんが「有名な作家」に初めて会った時の記憶も・・・・・・


1969年 昭和44年、カンさん16歳( 当時、私はまだペンの使い方も知らない14
歳の中学生だった! )の初夏・・・・・・・。 

東京某所の染色工場で丁稚奉公( ただ同然でこき使われる )していたカンさん
は漫画家への夢をいだいて、当時あこがれていた横山光輝先生( 1959年のア
ニメ「 鉄人28号 」や「 伊賀の影丸 」が大人気でした )に師事しようとして
いました・・・・・

大好きだった先生( 東京豊島区在住、神戸出身 )のところへ原稿を持って出
かけて行きます・・・・・カンさんと横山先生は、同郷(神戸出身)でしたから、
面会しやかったと思いますが・・・・・・

 横山先生 「 君。・・・・・・才能無いから、故郷へ帰んなさい。 」

・・・・と、あっさり弟子入りを断られ・・・・・あえなく沈没・・・・・・。 

しかし、すぐ次の作家の所へ・・・・・・

 『 ここ( 東京、豊島区 )から一番近くて、すぐに行ける漫画家の家は
   何処かなぁ・・・・・・ 』

ノートにはジョージ秋山先生の住所が・・・・・ 

ただ単に近かったから・・・・・・自分の人生( 36年間! )を託す事になる秋山プロ
にこうしてカンさんはやって来ます・・・。
  
 
 


          
( この写真は、1969年 昭和44年当時にジョージ秋山プロがあった新宿区中落合の自動車整備工場前
  の風景です。《2005年9月撮影》 )  


              その9  ・・・・・・・ 2005年09月22日 22時38分 (公開)
  
  
1969年 昭和44年 初夏・・・・・・。 

カンさん( 当時16歳 )は横山光輝先生の所で師事を断られると、次に秋山プロ
に向かいました・・・・・・。
  
  
秋山プロといっても正式に会社組織になるのはこの10年後。当時( ‘69年 )
はまだ個人事業でした。 西武池袋線、椎名町駅から10分ほど南へ歩き、あ
の「ときわ荘」のある南長崎を過ぎた所が新宿区中落合・・・・

その中落合の4階建ての小さなマンションに秋山プロがありました。( ちなみに
現在の仕事場は東京目白にあります )

カンさんは秋山プロが大きなマンションにあると想像していたので、もう中落
合のそのマンションの前までやって来ていたのに・・・・・

 『 この辺にあるはずなんだけどなぁ・・・・ 』

あたりをキョロキョロ見回しながら、目の前の自動車整備工場で聞いてみると・・
・・・・

 「 ああ、そのマンションなら・・・ ほら、あんたの後ろ、そう、そのマ
   ンション・・・」

カンさんが振り返ると・・・・・・小さな4階建てのマンション( マンションという名
のアパート )が目の前にありました・・・・・・。 

そして、2階のベランダには黒シャツに黒ズボン、そして黒いサングラスの男が
自分を見下ろしている・・・・・・。 

変な男と眼が合ってしまった・・・・・・でも、それは無視。

さっそく、そのマンションの中に入りジョージ先生の部屋へ・・・・・・。 


ドアを開けたのは、なんと・・・・さきほどの黒ずくめの怪しげな人物・・・・!

 「 やっぱりな・・・・来ると思ったぜェ・・・・・ 」

ドアを開け、中に招きながらジョージ先生( 26歳 )はそう言った・・・。

学生服に原稿袋を持っているので、すぐに自分を訪ねてきたんだなと判ったら
しい。

緊張の中で、さっそく原稿を見てもらう・・・・・・

さっきは横山先生にキツイ事を言われているのでかなり心配・・・・・・キャラクタ
ーか、ストーリーか、コマ割りについてか・・・・・・いったいどんな感想を言われ
るのか・・・・・・

 「 おゥ・・・このカーペット・・・・・これこれ 」

 「 ・・・・・・? 」

 「 このカーペットの柄がいいねェ! 」

ジョージ先生が褒めてくれたのは、背景画の「カーペットの柄」だった。


この瞬間、カンさんの36年間のアシスタント人生がスタートしました・・・・・・。
 
 
 


          
( この写真は、東京、目白の駅前通りです。秋山プロに勤め始めた頃は、毎日この道を通いました。
  《2005年9月撮影》 )  


              その10  ・・・・・・・  2005年09月28日 21時34分 (公開)

    
久しぶりに今回は食べ物の話を・・・・・・

私が始めてジョージ秋山プロに入った頃( 1978年 昭和53年 )は、仕事が始まる
午後1時に店屋物をユミさん( 出身?、自称24歳 )が、注文してくれます。

まず、ユミさんはジョージ先生の部屋へ行き先生の注文を聞きます。もっとも
いつも同じ「 ざる蕎麦 」なんですが・・・・・・。

次にアシスタント全員の注文を聞きます。カンさんだけは結婚していて、お昼
は自宅で食べてくるので、注文しません。

 ユミさん  「 今日は何ンにしますかァ? 」

 マツさん  「 わしゃぁ・・・ざる蕎麦じゃ・・・ 」

 ガンさん  「 あ・・・・ざる蕎麦 」

 テラさん  「 そっかぁ・・・・・じゃ、俺もざる蕎麦で・・・ 」

 リョウさん 「 んん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ざる・・・・・蕎麦 」

いつもこんな感じだったのです。 たまに「 たぬきうどん 」とか「 きつね蕎
麦 」とかを注文・・・・・。

ところが・・・・・・

私が始めて仕事をした日・・・・・・

 ユミさん  「 おそば屋さんの出前ですけど・・・小池さんは何ンにしま
        すゥ? 」

 私     「 なに頼んだらいいんでしょう・・・? 」 
       
私は隣のテラさんを見る。

 テラさん  「 あ・・・・・・ああ・・・・・・何でも・・・・・・好きなモノを頼んでく
        ださい・・・・・・どうぞ、どうぞ 」

私は例のごとくその言葉を都合よく解釈する・・・・・・『 何頼んでもいいんなら、
めったに食えない高いヤツを・・・・! 』

 私     「 じゃ、鍋焼きうどん! 」( メニューの中では一番高い! )

スタッフ全員が私の顔をチラッと見た! 確かに一瞬だけ、チラッと見た! 

そして、ユミさんは2秒の間をおいて・・・・・・

 ユミさん  「 は~い! 」

ジョージ先生以下、全スタッフがざる蕎麦を食べている中で、私だけが鍋焼き
うどんを食べている・・・・・・。 

誰も何も言わない・・・・・・。 

みんな黙って食べている!

 ( これは、後で聞いた事ですが、秋山プロで鍋焼きうどんを注文したのは、
  私が初めてだったそうです・・・・・・ )


次の日も、私は鍋焼きうどんを注文しました。 そして翌日のお昼、興味深い
変化が現れだしました・・・・・・

 ユミさん  「 今日は何ンにしますかァ? 」

 マツさん  「 わしゃぁ・・・・・・肉うどんじゃ・・・ 」

 ガンさん  「 あ・・・・・てんぷら蕎麦! 」

 テラさん  「 そっかぁ・・・・・・じゃ、俺は卵とじうどんで・・・・ 」

 リョウさん 「 ん・・・・・そ~だなぁ・・・・・・んじゃ、なべ焼きうどんにしよ! 」
  


       「 漫画家アシスタント物語 第3章 22年改訂版 まとめ2 」 へつづく・・・・


           【 「漫画家アシスタント第2章 22年改訂版 後半」へ戻る 】




       * 参考 *   
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  .............. 私(yes)のアシスタント履歴
  
  1974年昭和49年 さがみゆき先生 主に(少女系)怪奇漫画。単行本1冊分、
           4,5ヶ月のお手伝いでした。 (19歳)
     
  1976年昭和51年 かわぐちかいじ先生 この当時、氏は今ほど有名ではなか
           ったのですが、背景技術をみっちり仕込まれました。(20歳)

  1977年昭和52年 村野守美先生 漫画界一の豪傑と言われ、エピソードには
           事欠きません。たった1週間しか勤まりませんでした。(21歳)

  1978年昭和53年 ジョージ秋山先生 当時「浮浪雲」(ビックコミックオリ
           ジナルに連載)が、すごい人気で、渡哲也、桃井かおりの
           主演でTVドラマ化されていました。(23歳) 

  2017年平成29年 ジョージ秋山プロを退社、タイ・チェンマイにて隠居中。(62歳)

                    
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  


【 各章案内 】   「第1章 改訂版」  「第2章 改訂版」  「第3章 改訂版」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」   「古い話で章 その1」
          
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」

          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )



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漫画家アシスタント物語 第2章 22年改訂版 後半

2022年12月04日 21時45分12秒 | 漫画家アシスタント

          
( この写真は、かわぐち先生が引っ越された三鷹市にある井の頭公園です。《2005年4月撮影》 )  


 【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】


               その13 ・・・・・・・ 2005年05月某日 (公開)


かわぐち先生の所で仕事を始めて、すぐに先輩が一人故郷へ帰りました。 

どうしても家業を継がなくてはならず、漫画家志望をあきらめ、残念そう
に帰郷しました。( 1976年 初夏 )

そして、また新しい漫画家志望者が・・・・・


夏にはかわぐち先生の故郷、広島尾道の向島で2ヶ月ほど共同生活をしなが
ら仕事をしました。 

私にとっては暑くて苦しいタコ部屋生活でしたが、先輩のアシスタントのN
さんは違うようでした。楽しい思い出として後に自身のホームページで回想
されています。

ちなみに、Nさんは今、震災のあった神戸でデザイン会社をやっておられま
す。

尾道の向島というのは、瀬戸内海の小島です。

映画館も喫茶店もありません。東京出身の私にとっては、「 北の国から 」
で突然北海道に連れてこられた「 純 」の心境です。 クーラーの効いた喫
茶店でコーヒーを飲むためにフェリーで海を渡って本土へ行かねばならない
なんて・・・・・・・

実は、この向島での事を思い出すと辛いのが・・・・・

小さな外科病院で受けた「 包茎手術 」( 陰茎の余分な皮を切除 )です。

手術の激痛と、その術後の痛み、茎部をぐるりと巻かれた包帯から血がにじ
む姿は哀れそのもの!

アシスタントの先輩方は面白がって・・・・・・

 アシスタントH「 これ、漫画にしろよ! きっと受ける! 」

 私    「 冗談じゃありませよ! 痛てててッ! 」

 アシスタントN「 小池君、ボクが漫画にしてもいいかい? 」

 私    「 勝手にど・・・・どうぞって、痛ェ~~よォ~~~ッ! 」(涙)


さて、暑い夏も終わり秋になって、かわぐち先生は自宅と仕事場を吉祥寺へ
引越しました。 井の頭公園のすぐそば、玉川上水ぞいのシャレた借家へ・・・・

素敵な場所です。 そこで、私はキレてしまいます・・・・・・。  





          
( この写真は、東京三鷹市の井の頭公園です。この道を通ってかわぐち先生の仕事場へ・・・。公園の道
  は30年前と変わりません。《2005年4月撮影》)


                 その14 ・・・・・・・ 2005年05月某日 (公開)


東京三鷹市、井の頭公園・・・・・。

吉祥寺駅から井の頭公園の枯葉をサクサク踏みながら、玉川上水ぞいのか
わぐち先生の仕事場へ・・・。 ( 1976年 冬 )

山崎ハコや森田童子の曲を聴くたびに、この静かな緑の美しい風景を思い
出します。

アシスタントの入れ替わりは結構早く、一年も経たぬうちにスタッフが半
分入れ替わってしまいます。 

アシスタントのNさんが漫画家として独立。 Hさんも、その年いっぱい
で辞めていく・・・・・。

そして、新人が・・・・・・Aさん、35歳、既婚。 

かわぐち先生より7~8歳も年上の中年アシスタント。 

小柄な元遠洋まぐろ漁船員でものすごく人あたりの良いやさしい人でした。

自分が一番年上の新入りという事で、若いスタッフにそうとう気を使って
おられたのだと思います。 一緒に仕事をしたのは、ほんの1,2ヶ月の間で
したが、そのAさんの言葉でとても印象に残った言葉があります。

 「 毎日、船ん中にいてねぇ たまにケンカしたりすんのよぉ ある
  時ねぇ、片方の奴が包丁持ち出してねぇ・・・・ 」

スタッフ一同、興味津々でAさんの体験談に集中する・・・・

 「 ねぇ、ど~すっと思う? まわりの人間は? ど~すっと思う? 」

スタッフ一同、しばし沈黙・・・・・ ややあって、誰かが・・・・・・

 「 そ・・・・そりゃ誰かが止めに入るんじゃ・・・・ 」

Aさん、その答えを待っていたように・・・・嬉しそうに!

 「 止めれますかぁ? 包丁持って暴れてる奴、止めれますかぁ? 」

Aさん、満面の笑みで沈黙するスタッフ一同を見渡す。

一呼吸おいて・・・・・・

 「 相手方にも包丁を渡してやるです! 」

スタッフ 「 ・・・・・・?! 」

 「 お互いに包丁を持つと安全です。片一方だけが持ってっから刺っ
  しゃうんだよねぇ お互いに持っていると、なかなか刺せないよ
  ねぇ! ホントですぅ! 」


ずいぶん後で聞いたのですが・・・・・

私がここを辞めてすぐに、Aさんもここを辞めたそうです。そして、アダ
ルト漫画家として、独立されたそうです。


しかし・・・・・・

10年ほどたって・・・・ ( 1980年代半ば・・・ )

Aさんの顔が新聞の三面記事に載りました・・・・・・。

奥さんとお子さんの頭を漬物石でつぶしてしまったのです。


恐妻家だったAさん。あんなにやさしかったAさん・・・・・・

そんな人がなぜ・・・・・?

新聞には、犯行理由が何も書かれていませんでした・・・・・。


アダルト漫画じゃ・・・・家族を養うのは大変なのです・・・・・・


 
 

          
( この写真は、東京三鷹市の井の頭公園の近く。玉川上水ぞいの並木です。この辺にかわぐち先生の借家
  がありました。今では当時(1976年)の町並みがすっかり変わってしまいました。《2005年4月撮影》)


              その15 ・・・・・・・ 2005年05月某日 (公開)


どこの公園でも冬景色というものは何か物悲しい。

玉川上水ぞいの並木も寒々としている。( 1976年 師走 )


アシスタントのHさんが、もうすぐ、かわぐち先生の所を辞める・・・・後、
数週間で・・・・・・

アシスタントの仕事場はまるで「 トコロテン式 」のように先輩が辞めて
いく。必然的に後輩がいつの間にか先輩に・・・・・・・


武蔵野の自然の中にあるかわぐち先生のモダンな借家・・・。そこへ毎日、
足を運ぶ事が苦痛で、苦痛で・・・・・・ このHさんとの関係がまさに頭痛
の種だったのです。

その日は潜水艦物の仕事( 29年前の事ですから例の『 沈黙の艦隊 』で
はありません )でしたが、ただでさえペンの遅い私がその日は格別仕事
が遅かったのです。

ふだんアシスタントには小言を言わないかわぐち先生が・・・・

 「 ちょっと遅いよ・・・ 」 と小さな声で。

気があせるばかりでなかなかはかどらない・・・・・まあ、こんな事もたまに
はあります。しかし、12月の年末の忙しさでみんな気が立っていて・・・・

 「 チッ、何やってんだよぉ!いくら何でも遅すぎるぞ! 」 

・・・・と、Hさんが舌打ちしながらデカイ声をあげる。

私の頭の中にはただ一つの言葉がグルグルと渦巻いていました。

 『 やめる・・・絶対やめる! やめる・・・絶対やめる! やめ・・・・・・ 」


   漫画家アシスタント物語、血の教訓


   『 豊かな人間関係を築ける者は、幸せな人生を謳歌するだろう。
     人間関係の苦痛をなめつづける者は、豊かな「キャラクター」
     をペンの先からほとばしらせるだろう・・・・・!』


 
 

          
( この写真は、井の頭公園の入り口にある焼き鳥屋さん。なんと30年前と同様に今でも商売をされてい
  ます。当時、毎日この前を通って仕事場に通いました。)


              その16 ・・・・・・・ 2005年05月24日 22時43分 (公開)


かわぐち先生の仕事場はだいたい夜11時頃に終わる。

その夜は、他のアシスタントが帰った後で、かわぐち先生に仕事を辞め
る事を告げた。 勿論Hさんとの事も話した・・・・・。 ( 1976年 師走 )

スタッフの居ない山荘風の広いリビング、艶やかで静かな仕事場・・・・
・・・・・ 

私はかわぐち先生が、「 H君の事は俺にまかせろ、何も心配するな! 」
・・・・・と、言ってくださるかと思ったのだが・・・・・・・

 「 えェ?! 言われてイヤなら、言い返せばいいだろォ! いつも
  黙っているから、言われるんだよ。 」

責任は「 黙って 」いた私にあるのだろうか・・・? かわぐち先生の話を
聞いている内に・・・・私はしゃべる気力がなくなってしまう・・・・・・・

 「 後、少しでH君は辞めるんだし・・・・・・明日、彼にもよく言っとく
  から・・・・・ 」

・・・・と、言うかわぐち先生の言葉にも、私は「 は・・・ 」とか「 はぁ・・・ 」
とか、ためいきの様な・・・・・・気の抜けた返事を返すだけでした。 

お世話になったかわぐち先生に対していい加減なナマ返事だけして、私
はトボトボ深夜の吉祥寺を後にします・・・・・


かわぐち先生は、明日からも私が来ると信じておられた。

別室で仕事をしていた先生にとって、アシスタント同士のトラブルはほ
とんど耳に入っていなかったのです。

年末の多忙な時期にスタッフが一人欠けたら・・・・・相当キツイわけです。 

後、数日でHさんも辞めるし、年末の一時金も出る。 それなのに・・・・

私は翌日・・・・・・・寝てました。爆睡です。

 「 やっぱり辞めます 」

・・・・と告げたのは、夕方の公衆電話ででした。

 「 年末で忙しい時じゃないか! 今日は来るって言ったじゃないか! 
  みんなが迷惑するだろォ!・・・・・ 」

受話器を置いても、かわぐち先生の震える声が頭の中で響きつづける・・
・・・・・・。


夕暮れの高円寺の住宅街を歩きながら、それでも何故かホッしていまし
た。

 『 明日から仕事探しか・・・・・ とりあえずアルバイトニュースを・・・・ 』

うつむいていた顔を上げる。

もう空は暗い・・・。

 『 明日の事は、明日考えるか・・・・・! 』





          
( この写真は、東京三鷹市の井の頭公園内のベンチです。かわぐち先生の所を辞めて一人ボンヤリして
  いた場所です。《2005年4月撮影》)


              その17 ・・・・・・・ 2005年06月01日 01時13分 (公開)


「 困った事があったら、また来いよ 」

かわぐち先生は、別れ際にそう言った。 頭にくるアシスタントだと思っ
ておられただろうに・・・・・ 『 困った事があっても、もう来るなよ! 』
とかって、仰りたかっただろうに・・・・・・ ( 1976年 師走 )


私は12月分の最後の給料を受け取り、冬の井の頭公園をトボトボ歩いた。

途中で園内のベンチに座り、人気のない公園で枯れ木をぼんやり眺める。

かわぐち先生の所は、あと4~5日は滅茶苦茶に忙しいだろう・・・・・・・ 

せっかく使えるようになってきたアシスタントがこの時期に辞めてしまう
のだから・・・・・・・

でも、私は明日からの生活のメドもたたぬまま公園のベンチで、『 また
1~2週間アルバイトニュースのお世話になるのかぁ・・・・・ 』などと、わび
しく考えていました。

公園わきの道路を自動車が何台も走り去って行くのを見ていると、まるで
自分一人だけが取り残されていく様な孤独感を感じました・・・・・・

今でもハッキリとその時の事を思い出します。


翌日から、さっそくアルバイト探し・・・・・・ もうアルバイト探しもすっか
り慣れているので、時給が高くて、作業も楽そうな仕事はすぐに見つかり、
とりあえず生活はなんとかなりました。

デパート内そば店のホール係、新宿のパブのボーイ、そしてフランス料理
店のカウンター係・・・・・ ( ちなみに、この20数年でこれらのお店はみん
な無くなってしまいましたが・・・ )


そして、はじめて思いました。 自分が大好きな漫画家( 当時2~3人いま
した )のアシスタントになろう・・・・・と。

大好きな漫画家なんだから、これはきっと上手くいく! ・・・・・と。

・・・ついに・・・・・! 一週間しか勤まらなかった先生の所へ・・・・・

当時の青年漫画ファンにとって、敬愛すべき漫画家の一人・・・・・村野守美
先生!

高度な絵画センスと、その背景美術、豊かで愛らしい感性、優しい瞳のキ
ャラクター・・・・・・

憧れだった、村野先生!

 
 
 

          
( この写真は、前回につづいて井の頭公園ですが・・・・・この美しいながめともお別れしました。)


              その18 ・・・・・・・ 2005年06月08日 01時15分 (公開)


はじめて漫画家アシスタントをやる時は、使ってくれるなら誰でも良かっ
たりするのですが・・・・・・

ある程度経験を積むと、どの漫画家が良いか選択するようになるものです。

少し背景処理に自信が付いたので、大好きな漫画家へ飛び込みで会いに行
きました。

当時、漫画ファンの間では絶大な支持のあった村野守美先生。

まず、電話で「 先生に是非、作品を見てほしい・・・ 」と面会を求める・・・・
・・・・・はじめからアシスタント志望と言うと断られる確率が高くなるから
です。

夜、突然見ず知らずの男が電話をする・・・・・・相手にしてもらえるだろうか・・
・・・・・しかし・・・・・・夜遅い時間にもかかわらず面会が即、OKに!

絵を見てもらい、アシスタント志望である事を告げると・・・・これも即、O
K!

かわぐち先生の所で磨いた技術がモノを言ったのか・・・・・・?

調子よく事が運び過ぎる・・・・・・

 『 オレがそんなにラッキーな人間か・・・? 』

・・・・と疑ってかかるべきだった・・・・・・。 ( 1977年 昭和52年 夏 )


東京の西武池袋線、富士見台駅から10分ほどの所にある一戸建て住宅・・
・・・・村野先生の仕事場は6畳ほど、他にアシスタントの仕事場用プレハ
ブ一棟。

ヒゲをたくわえデンと構える先生に絵を見ていただいて、すぐアシスタ
ントになれるとは・・・・・

 『 オレの実力もまんざらではないな・・・ 』

・・・・などと考えたり、運ばれて来た仕出し弁当を見て・・・・

 『 さすが一流漫画家、仕出し弁当か・・・ 』

・・・・などと、アホな事をボンヤリ考えていました。( ちょうど人手が足
らなかっただけなのですが・・・ )

この仕事場の「 緊張 」を思い知るのにたいして時間はかかりませんでし
た・・・・・・


一人のアシスタントが仕事部屋で黙々と仕事をしている・・・・・・

私と同世代で長髪の若者だ・・・・・カッコ良くヘッドフォンを付けている。

さっそく、私は何を聴いているのかたずねると・・・・・・

 「 俺が何聴こうが勝手だろッ! 」

明日からここで仕事ができる事になった・・・・・・。 


 
 

          
( この写真は、漫画家村野先生が当時おられた東京、西武池袋線の富士見台駅です。28年前とはすっか
  り変わってしまいました。《2005年 6月 撮影》)


              その19 ・・・・・・ 2005年06月16日 22時28分 ( 公開 )


正直な話、私は漫画家アシスタントを真剣にやろうと思った事は一度も
ありません。 ( 少なくともアシスタントを始めて20年位は・・・ )       

まじめに「 仕事 」として真剣にやるようになったのは、つい最近の事
です。

私にとっては、漫画を描く事が当たり前なんですから漫画背景の仕事は
「 つなぎ 」「 趣味の延長 」「 まじめな道楽 」・・・・・という感じでした。

しかし、他のアシスタント諸兄は私なんぞとは違い、とても真剣だった
のです。

背景の処理に生きがいを感じている人や、アシスタントの仕事場に入る
と気合が入ると言う人、背景を描いていると充実すると言う人とか、本
当にいろいろな人がいます・・・・・。 

私の様にアシスタントをいい加減にやっている人間は、例外かもしれま
せん。


1977年 昭和52年 夏・・・・・

それまで、新宿のフランス料理店でカウンター係りとして水割りやハイ
ボールを作っていた私は、大好きだった漫画家村野守美先生のアシスタ
ントになりました・・・・・。

仕事初日・・・・・

朝9時頃からと、言われていたのに10時頃行くともう仕事が始まってい
ました・・・!

 『 漫画家の仕事はみんな昼過ぎから・・・ 』

・・・・などと思っていたのは大間違いで・・・・ アシスタントの一人に・・・・

 「 バカヤローッ! 今頃来やがって、これやれっ! 」

・・・・と、どなられて組み立て式の小座卓の上に原稿と消しゴムが投げら
れました。

つまり、最初の仕事は消しゴムかけ。( 原稿の鉛筆書きの下絵を消す ) 

だが・・・・・・

この小座卓は・・・・・・墨とノリでベタベタになっていて、原稿を置けたも
のではない・・・・・・・

まずティッシュでテーブルを拭く事から始め・・・・・・そして緊張しながら
ていねいに消しゴムをかけていると、先ほどのアシスタントが・・・・・・

 「 まだやってるのかっ! 遅せ~ぞっ! 次はトレース!! 」

 ( 先生の描いた一人の兵隊を模写して数十人の兵隊の行進に発展さ
  せる。 トレースの未経験者にはかなり難しい。 )

 『 ト・・・・・トレースって何? 』 

町や森や背景効果は描けるが・・・・・キャラクターのトレースとは・・・・???

生まれて初めて見るトレース台( 曇りガラス版の下に蛍光灯が入ってい
る )・・・・・・

おまけにあの有名な村野先生のキャラクターをトレースして何体も描くと
は・・・・・・

手が震えて描けない・・・・・

時間だけが過ぎていく・・・・・・・・初日から地獄である。 

全然、仕事が出来ないという・・・・・・・無能地獄である!

 
 
 

          
( この写真は、東京西武池袋線、富士見台駅前商店街です。この先にM先生の家がありました。《2005
  年 6月 撮影》)

   
              その20 ・・・・・・・ 2005年06月22日 23時47分 (公開)


ここはまさに「 虎の尾を踏む男たち・・・ 」と言ったところでしょうか・・
・・・・・

1977年 昭和52年 夏。

東京練馬区富士見台の村野守美先生のアシスタントの日課はほぼ以下の
様になります・・・・・・

朝9時、先生宅、仕事場、廊下、階段、トイレ・・・等を掃除、シッカリ雑
巾がけする。

そして、村野先生の仕事机の上は特に注意してかたずける。5~60本もあ
るペン、筆類は整理してならべる。 順番も決まっている。

机周りをキレイに整頓し、書籍やLPの棚もシッカリ雑巾がけする。そ
して、極めつけは犬の世話です。

2匹いる大型犬のクソの始末をし、エサをやる。 これ朝と夕方2回。正
直言って2~3日、仕事( 漫画制作 )らしい仕事はありませんでした。

私が居た頃はちょうど仕事が少ない頃だったので、背景の仕事をしたの
は・・・・・・お世話になった一週間のうちの2日ほどだったと思います。


村野先生は私の絵が大嫌いでした。リアルで緻密な劇画調の背景を何より
嫌っておられました。( 技術があってもセンスが無い )

 「 劇画屋の絵なんかッ! 」

・・・・という言葉を毎日聞かされたものです。

村野先生の絵に対するこだわりや高い理想はとても尊敬できたし、お教え
いただいた事( フランスの絵画技法の何とかカンとか・・・ )も芸術的で崇
高だと思う・・・・・・・・

その意味では、背景の仕事だけやっていれば私には、とてもいい勉強にな
る最高の職場だったのですが・・・・・。

ほとんど仕事らしい仕事がない。

では、何をやっていたのか・・・・・・?

犬の散歩。犬のフン掃除。野球。釣り堀・・・・・・・etc。 

野球といっても、先生は足が不自由で車椅子に乗っているので、バッティ
ング専門。 先輩がピッチャーをやり、私が球拾い専門。

 「 小池(私)、早く球拾え! 」

釣り堀では、金魚を釣るのですが・・・・( 鯉より金魚の方が難しいらしい )

 『 なんで仕事しないで、金魚釣りなんかしているんだろう・・・・ 』

夕暮れ時になると、先生スタッフ一同が自宅へご帰還・・・・・・

夜、食事の支度を手伝い、そして食事後の後かたずけ・・・・・。

皿を洗いながら、いったい自分は何をやっているのか・・・・・ 

スポンジでジャブジャブ・・・・・ジャブジャブ・・・・・・・・泡立ちが悪い。 

毎日、犬のフンをドブへ捨てながら・・・・・・・なぜ自分は今こんな事をしてい
るのか・・・・・・・。

 ポチャポチャッ~ポチャ~~ン

 『 しかし・・・ドブにこんなモン捨てていいのかなぁ・・・もし、途中で詰
  まったりしたらどうなるんだろ~なぁ・・・・また怒られたりして・・・・・ 』

 ポチャチャ~~ンッ

 『 でもぉ・・・ここに捨てるんだよって、○○さん( 先輩アシスタント )
  が言ったんだし・・・・・・・・ 』

時間だけが過ぎていく・・・・・・


 


          
( この写真は、東京西武池袋線、富士見台駅から5分ほど離れた商店街です。この道を曲がった奥に村野
  先生の家がありました。《2005年 6月 撮影》)


              その21 ・・・・・・・  2005年06月29日 21時16分 (公開)


村野守美先生の逸話はたくさんあります。多くは他のアシスタントから「 こ
こだけの話だけどね・・・ 」と、こっそり教えていただきました・・・・・( 1977
年昭和52年 夏 )

逸話のほとんどは、( 有名な )某漫画家とのケンカ話や、手塚先生の虫プ
ロで仕事をしていた頃に、スタッフたちを驚かせた武勇伝など・・・・・

でも・・・・・・特に印象深いのが・・・・・・暴走族を相手に大立ち回りの殴り込みを
やってのけた事( 日本刀で暴走族と喧嘩 )・・・・・・どれも興味深い話なので
すが・・・・・・・・

なにぶん「 伝聞 」による話だし、本人に確認したわけでもありませんので、
残念ながら省略させていただきますが・・・・・

私がいた一週間の間に実際に見聞きした事だけでもお話いたしましょう・・・
・・・・・

まず、出版社とのケンカ・・・・・・・

村野先生が単行本を出版した時・・・・・・印税として約束した金額が売れ行き不
振を理由に減額された事に怒りを爆発。電話で担当編集員を怒鳴りつけてい
ました。

そしてもう一つは、中古のコピー機の調子が悪い事を電話で業者に文句を言
っていた事。 ものすごい剣幕で怒っておられました。

アシスタントが仕事場や路上で怒鳴られるのは毎日の事でした。

私に対しては・・・・・

 「 劇画屋の絵はダメだ! 」 

先輩アシスタントには絵の構図が悪い事で・・・・・

 「 何やってんだ! これは何だ! 」 ( 路上で説教! )

日本で一番美しく、やさしい漫画を描く村野先生が、漫画界一の「 豪傑 」
であると言われている事を知ったのはずっと後の事です。

ここで誤解を避けるために言っておかなければならないのですが、村野先生
は怒る時は怒る人ですが、間違った事は仰ってはいません。

ただの一言も曲がった事は言っていないのですが・・・・・・・私にはどうも・・・・
・・・ついていけないわけで・・・・・・・・


最後に一つだけ・・・・・村野先生が直接話してくださった面白い(?)話を・・・
・・・・

有名な某宗教団体の信者さんが村野先生の所へ勧誘にやって来た時の事です。

宗教の話だけして、さっさと帰れば良かったものを・・・・・・ 

黙ってうなずきもせず一言も発しない村野先生の顔色を判断して。早々にあ
きらめて退散していれば、あんなに恐ろしい目に会わずにすんだのに・・・・・
・・・・・

宗教と命、世界平和と革命精神・・・・・・暗記された宗教理念を村野先生は黙っ
て聞いている・・・・・・

爆発寸前の活火山のように・・・・・・・・
   
    
    
 

          
( この写真は、村野先生がおられた東京西武池袋線、富士見台駅近くの住宅街です。《2005年 6月 撮影》)


              その22 ・・・・・・・ 2005年07月06日 23時34分 (公開)


宗教信者の長広舌を村野先生はジッと耐えておられた・・・ ( 1977年昭和52
年,夏 )

「 静かなること林の如く・・・ 動かざること山の如し・・・ 」その山が・・・・・

ついに動く・・・・いや、噴火する!

その信者は自分の饒舌に酔うように・・・・・・人の生まれながらの不幸や不運を
運命やら宿命やらてんこ盛りで説き続ける・・・・・・

村野先生は、幼少期の事故で足が不自由なのだが、その足の障害について信
者が先祖の因縁だの宿業だのと話し始めた・・・・・・・

その瞬間・・・

信者の目をにらみ付ける。

憤怒の形相でにらみ付ける!

信者はこの時、体の血液が凍り付いた様に固まる・・・・・・・だが手遅れ!

 「 俺の目を見ろぉッ! 」 と、先生は一喝! 

さらにつづけて・・・・・

 「 お前は死ぬッ! 」 先生は、指先を信者の眉間へ突きつける。

彼は完全に茫然自失・・・

 「 俺の目ににらまれた者は必ず死ぬッ! 」

信者、あわてて目をそらし、震えながら・・・・・

 「 そ・・・そんな事を・・・・・ 」

 「 俺の目を見ろぉ~ッ! お前は死ぬんだぁーッ! 」

 「 そ・・・そんな事をしてはいけません・・・! 」

 「 目を見るんだ~ッ! 」

 「 やめて下さ~~ッ! 」

 「 お前は死ぬ~ッ!」

気の毒な信者はそのまま玄関の外へ逃げ出していく・・・・・・。


村野先生はそこまで話してから、嬉しそうにニコニコ笑いながら、目を丸く
して聞き入っている私に・・・

 先生 「 ウソは言ってね~よなぁ? 」 

 私  「 ・・・・・・? 」

 先生 「 誰だって一度は死ぬんだからよぉ! 」

 私  「 ・・・・!」

 先生 「 ガッハハハハハハッ 」


この先生を何て面白い人なんだと思う反面・・・これほど怖い人もいないな・・
・・・・と、一緒に笑いながら少し背筋が寒かったのを覚えています。

毎日が緊張の連続・・・・・・自分のいる場所がないような漠然とした不安・・・・・

そして、凧の糸が切れるように、あっけなく別れの時が来ます・・・・・・・
   
  
    


          
( この写真は、M先生の所で仕事をしていた当時《1977年昭和52年》に住んでいた東京、
  高円寺にあった木造モルタルアパート銀嶺荘の一部です。画面左側に建物の一部がみ
  られます。)


              その23 ・・・・・・・ 2005年07月14日 12時48分 (公開)


とにかく、緊張した毎日でした・・・・。 ( 1977年昭和52年 夏 )

そして、その緊張は一週間しかもたなかった。緊張の連続はつまらない些
細なミスにつながる・・・・・。

毎日、何度ととなく怒鳴られる・・・・・。 

日に何回怒鳴られたか思い出せない・・・・。

勤め始めてから4,5日して・・・・・・

 「 忙しくなってから辞められると困るから、辞めるんなら今辞めろ! 」

この言葉を3回聞いたら辞めようと思っていた・・・・・ 二日と経たぬうちに、
その時が来た。 

簡単だった。

 「 では辞めさせていただきます。 」

一週間何をやったのやら、2~3ページの仕事と犬の散歩、野球につり堀、ゴ
ミ焼きに皿洗い・・・食って、寝て・・・朝起きたら、犬のフン始末・・・・・

それだけで終わった。

しかし、不思議と一つ一つの事が鮮やかに記憶されている。 濃密な一週間
でした。



村野先生の所でのエピソードを最後に一つだけ書いておきます。それは・・・・
・・・・ちょっとせつなく、申し訳ない事・・・・・

村野先生には奥さんと小学生のお嬢さんが一人おられました・・・・ 我々アシ
スタントはよく「 先生は怖いよなぁ~ 」などとぼやき合う事がありました。

ある時、先生の奥さんに呼び止められ・・・・

 「 小池くん、○○( お嬢さんの名前 )の前で先生が怖いって言わない
  でね。あの娘はアシスタントのお兄ちゃんたちが大好きなの・・・・・
  だから先生が怖いって聞くと、とても悲しむのよ・・・・だから・・・ね。 」
      
     
村野先生の所で強い影響を受けた私の背景技法は、後にジョージ秋山先生の
所で発揮されます。 

大胆な構図、斬新な筆使い・・・・・・未熟者がただテクニックを表面的にマネし
た時に起こる悲劇的な結果を・・・・・・当時、予想する事は出来ませんでした・・
・・・・・。

漫画雑誌「 ビッグ コミック オリジナル 」( 小学館 )に連載中の「 浮浪雲 」
の仕上がった背景のその悲劇的な結果を見て、ジョージ秋山先生が・・・・・・・

 先生 「 な・・・何だァ!この絵は・・・・・? おみ~ィのこの絵は何なん
      だよォ! 」

日焼けした黒い顔を赤黒く怒張させるジョージ先生・・・・・・。

 先生 「 おみ~ィはよォ~ッ・・・ 何考げ~てッだよォオオ! 」

 私  「 は・・・はあ・・・・・・? 」
  

   


          
( この写真は、村野先生の所で仕事をしていた当時に住んでいた東京、高円寺にあった
  木造モルタルアパート銀嶺荘、リフォーム後の入り口です。2005年7月に撮影した写
  真です。《30年前の「第2章 その7」の写真参照》)


              その24 ・・・・・・・ 2005年07月21日 22時06分 (公開)


村野先生の所を辞めてから、また例のごとくアルバイトニュースを毎朝、始
発電車が出る頃、駅前売店へ買いに行く日々がつづく・・・・。

アルバイトは意外と簡単に決まった。TBSテレビのスタジオの美術係・・・・
・・・と言ってもTBS本社のバイトではなく、その下請けで建具をスタジオ
内に組み込む仕事をしている会社のバイト・・・・・。( 1977年 昭和52年頃 )

漫画とは全然関係ないんだけど、漫画家志望の私を結構面白がってくれる人
たちが多く、普通のサラリーマンの世界とは違って明るく自由な雰囲気が楽
しい職場でした。

当時のアイドル、ピンクレディー、松坂慶子、南沙織、桜田淳子etc・・・・・

多くの芸能人を見ました。( 「 会えました 」と書くより、口を利く機会も
なく、ただ「 見ました 」「 通り過ぎました 」と書く方が正確 。

中でもドリフターズの「 8時だよ、全員集合! 」のロケや、吉永小百合さ
ん( おもわず敬称付き! )と仕事をした事は最高の思い出です。


さて、第2章もいよいよ終わりです。第3章からは26年もアシスタントをや
る事になるジョージ秋山先生のところでの出来事の数々です。

「 漫画家アシスタント物語 」はここまでが序幕で、ここからがまさに本編と
いう事になります。

アシスタントの生活、漫画家志望者の希望と挫折・・・・幻想と絶望・・・・・その全
てがこの第3章に描かれます。


 
       「 漫画家アシスタント物語 第3章 22年改訂版 」 へつづく・・・・
    

           【 「漫画家アシスタント第2章 22年改訂版 前半」へ戻る 】

 

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
             私(yes)の履歴書
          
  1955年昭和30年 東京生まれ 世田谷区立駒沢小学校卒。 14歳より、映画館
          のキップ切り、ビル清掃人、冷凍食品倉庫、等々(10数種)

  1974年昭和49年 19歳より、漫画家アシスタントを始める。以降 漫画履歴・・・

  1974年昭和49年 さがみゆき先生 主に(少女系)怪奇漫画。単行本1冊分、
          3,4ヶ月のお手伝いでした。(19歳)
     
  1975年昭和50年 かわぐちかいじ先生 この当時の氏は今ほど有名ではありま
          せんでした。背景技術をみっちり仕込まれました。(20歳)

  1976年昭和51年 村野守美先生 漫画界一の豪傑と噂され、エピソードには事
          欠きません。たった1週間しか、勤まりませんでした。(21歳)

  1978年昭和53年 ジョージ秋山先生 当時「浮浪雲」(ビックコミックオリジナル
          に連載)が、すごい人気で、渡哲也、桃井かおりの主演でTV
          ドラマ化されていました。(23歳)

  1984年昭和59年 あと1年で、30歳! 焦っていた。 漫画制作に没頭。出版社め
          ぐりの日々。(29歳)

  1985年昭和60年 「ヤングジャンプ新人漫画賞」にて、奨励賞、努力賞、佳作賞、
          受賞。

  1986年昭和61年 「雨のドモ五郎」が、「ヤングジャンプ」新人漫画賞準入選。本
          誌に2色指定で掲載。事実上のデビュー作。これが同誌への
          最初で最後の作品となる。(31歳)

  1989年平成元年 別冊(!)ヤングジャンプ「ベアーズクラブ」にて、100ページ
          読み切りの「蟹工船・覇王の船」(小林多喜二原作)を発表。(34歳)

  1992年平成4年  宇都宮病院事件の「悪魔の精神病棟」を原案とした書き下ろし
          単行本「サイコホスピダー」製作開始 (37歳)

  1995年平成7年  タイ王国チェンマイ郊外の山村にて結婚。(40歳)

  1996年平成8年  三一書房より「サイコホスピダー」初版出荷、初版で絶版。(41歳)

  2008年平成20年 拙ブログ「漫画家アシスタント物語」がマガジン・マガジン社に
          て書籍化、「雨のドモ五郎」収録。(53歳)

  2008年平成20年 TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」にゲスト出演、漫画家ア
          シスタントについて語る。(53歳)

  2008年平成20年 「劇画 蟹工船 覇王の船」宝島社より「覇王の船」が加筆訂正さ
          れ完全版として出版。小説「蟹工船」収録。(53歳) 

  2009年平成21年 新宿の宝塚大学、漫画学科で非常勤講師になり、「背景美術」
          を担当する。

  2017年平成29年 ジョージ秋山プロを退社、43年のアシスタント人生を終え、タイ・
          チェンマイにて隠居中。(62歳)
             
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ( 注:不確かな記憶によって記されている個所があります事をご容赦下さい ) 





【 各章案内 】   「第1章 改訂版」  「第2章 改訂版」  「第3章 改訂版」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」   「古い話で章 その1」
          
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」

          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )



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漫画家アシスタント物語 第2章 22年改訂版 前半

2022年12月01日 16時30分28秒 | 漫画家アシスタント

          
( この写真は、私が初めてアシスタントをした頃、生活していた調布市の千川駅前の風景です。《2005年1月撮影》)  


 【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】




              その1........................'05年 2月06日 05時30分


漫画家志望の多くの若者がそうである様に、私もまた10代の頃に同人誌に入っ
ていました。( 1970年代 )

その同人誌は、10数人の会員全員にやる気が無く、会長一人が同人誌用作品を
せっせと描いていました。 それでいて、会員のレベルはとても高かったので
す。( 皆さん、現在ではプロのイラストレーターや漫画家として活躍されて
います )

会員のほとんどの方々が、平凡で古いタイプの漫画を一人せっせと描く会長を
冷ややかな目で見ていました。 会長の漫画は確かに退屈ですが、人柄はバツ
グンに好い人でした。

             
    漫画家アシスタント物語、血の教訓 

     『 人格的完成度は、漫画の完成度にまったく比例しない。』


その会長がフリーターの私にアシスタントの仕事を紹介してくれました。

怪奇漫画を描く女流漫画家さがみゆき先生( 東京、駒込在住、当時30歳位 )。 
京都出身の氏が喋る言葉は、綿菓子の様にやさしい・・・・・ 

 「 小池君~ン( 私の本名 )、もっとォ、しっかりせなァ~アかん
  ヤ~ン 」

しっかり出来ない。 グニャグニャになってゆく・・・・・。
 
 
 

          
( この写真は、私が初めてアシスタントをした頃、生活していた調布市の千川駅前[1974年昭和49年頃]の風景です。  )

              その2........................'05年 2月14日 04時38分
 
  
漫画家アシスタントをはじめてやったのは、1974年( 19歳 )で、住んでいたのは
調布市千川の小さな下宿( 木造モルタル、3畳間、月1万5千円 )でした。
 
夏は息も出来ないドボン式共同便所。共同水道1個。ガスなし。3畳一間に裸電
球・・・。 唯一の窓は、廊下に面しているので、部屋にはまったく陽がささない。
 
1ヶ月の生活費は、3万円。 暗くジメジメした万年床、長髪に顔も洗わぬ無精
ひげ。 冬の暖房はコタツだけ、灰皿代わりのどんぶりには、てんこ盛りにな
った吸がらの山。 読んでた本が、太宰治の「 人間失格 」、カフカの「 変身 」、
マルクス「 共産党宣言 」・・・・・・
 
下宿2階は、3世帯。 私がいた1階も3世帯。 共同便所隣りが、明治大学1
年のサカモト君。 共同便所真向かいが、私で、私の部屋の奥隣りが、明治大学
3年生。 

この明大の3年生は、ねずみ講にはまっていて、新しく入ってきたド貧乏の私に、
しつこく20万円(!)の自動車排ガス清浄装置(?)を売ろうとするのである・・・・・

 「 20万なんて安い安い、3人の人間に3台の排ガス清浄装置を売れば、すぐ
  元が取れるよ! 」

なんで車も金もない私が排ガス清浄装置を買わねばならないのか・・・・・話を聞い
ているだけムカムカしたものでした。
 
この下宿に入った頃は、新宿のデパート食堂の皿洗いや、中野のビル清掃などの
バイトで生活していました。 

「 第2章 その1 」に書いたように、この頃入っていた同人誌の会長さんの紹
介で、女流怪奇漫画家さがみゆき先生のアシスタントになったわけです。
 
仕事は、怪奇漫画の書き下ろし単行本( 雑誌の連載ではないので、稿料は印税
のみ )で、背景1ページの手数料、500円!

まあ、1日3ページ仕上げれば月4万5千円にはなるので、悪い仕事ではありません
でした。( 家賃を払っても3万円残れば食べていけます ) 

でも・・・・仕事は、全て一人自宅でやる事になっていたので、コタツの上で、カリ
カリとペンを走らせていたんですが・・・・・・・・・

一人・・・・・・ コタツ・・・・・・ 眠気・・・・・・ 集中力ダウン・・・・・・
 
1ヶ月もしない内にダレてしまい、「 まあ、明日やりゃあいいさ・・・・ 」などとい
う恐ろしい誘惑にとらわれ、1週間で、5~6枚しか原稿が仕上がらないというてい
たらく・・・・・・・。 

万年床の上にコタツを置き、本を読み、漫画を読み、不善をなし、延々と惰眠を
むさぼる・・・・・・。
 
20枚、30枚と原稿を届けなくてはならないのに・・・・・・・・異変に気がついたさがみ
ゆき先生が、電話をくれるが、あくまでやさしい・・・。
 
 「 どーしたのォン・・・ 具合でも悪いのォ? 」
 
そう心配してくれる、やさしさにつけ込むように・・・・・・
 
 「 カ・・・カゼ・・・ひいちゃったみたいで・・・・・ 」
 
さが先生は、励ますように・・・・・・
 
 「 気ィつけてなァ~ 体大事にせなァあかんやァ~ン 」
 
 
当時の多くの漫画家志望者は、どうも「 貧乏 」をファッションのように楽しんで
いたふしが見られる。わずかなお金にあくせくせず、ダラダラ生きる事を選ぶ・・・・。
( 四畳半フォーク、ゲタにジーンズが流行した時代 )

当時は、そうした生き方に「 反体制 」とか、「 自由 」とか意味づけをしていた
けれど、今から考えると・・・・・・
 
沈滞する左翼とノンポリの1970年代は、飽食の時代、80年代のバブル景気、そう
いった時代への無気力な前兆だったのかも知れません・・・・・・。
 
 
   漫画家アシスタント物語、血の教訓
 
  『 自分の夢実現を邪魔する者は、親でも社会でもない。自分の怠惰である。』
 
 
 

          
( この写真は、私が初めてアシスタントをした頃、生活していた調布市、千川駅近くの下宿入り口です。[1974年昭和49年頃] )

               その3......................'05年 2月22日 03時41分 (公開)
  
  
何度も励まされ、催促されつつ自宅で漫画背景をコツコツ描いていた1974年、19歳
の冬・・・・・・。
 
毎日のたのしみといえば食事。 朝、昼兼用でパン食。 夜は即席ラーメンを電熱
器で調理。 毎日ラーメンの種類を変えニンジンやもやし、ねぎ等を加えれば、け
っこう安くて色どりも良く美味しく食べられました。

しかし、他の人から「 お前 、いいなァ・・・ラーメンうまそォ 」などと言われると
「 あ・・・そう・・・ 」と答えつつ「 毎日毎日即席ラーメン食ってる人間の気持ち分る
? 」などと、歪んだ心理状態だった・・・・・・「 貧乏 」は人を鍛えるけど、歪めもす
る。


ところで・・・・・・突然、不浄な話で申し訳ありませんが・・・・・( 食事中の方は注意! )

この下宿の2階のトイレ( 汲み取り式 )は、そのまま1階トイレの便槽に直結してい
ました。 2階トイレでの排便が加速度をつけて、1階下の便槽に落下する音がけっ
こうよく聞こえるのです。

トイレ隣りのサカモト君とトイレ正面の私は、食事中にこの音を聞かされる事があり
ました。通常の便なら・・・・・・

 「 ペッタ~ッ 」

便がパイプにぶつかりながら落下すると・・・・・・

 「 ペペペペト~~ッ 」

重量級になるとすごい・・・・・・

 「 ズッポオォ~ン 」

・・・・と聞こえる。

半年もすると2階の住人が今どの位排便をしたか分るようになる・・・・・

 『 昨日はずいぶん食ったんだなァ・・・ 』

・・・・とか

 『 今日は腹下してンのかよォ・・・ 』

そのため、サカモト君と私は食事中は必ず(!)音楽を聴くようにしていました( T
Vでもラジオでもいい )。

・・・・もうクセになっていました。( ガンガン音楽を聴く! )

今でも静かに食事をしていると、なぜか言い知れぬ不安が襲ってくるのです・・・・・。
 
 
 

          
( この写真は、1973年当時住んでいた三畳一間の下宿です。コタツに3人入ると、部屋がいっぱいになりました。)

 
              その4.............................'05年 2月28日 20時50分 (公開)
 
 
単行本の書き下ろしの場合、原稿の大きさが通常( タテ27㎝×ヨコ18㎝ )の約半分です
みます。 つまり単純に漫画背景の手間が半分になるわけです。 

その気になれば一日で7~8ページ仕上げる事もできる計算ですが・・・・・なかなか進み
ませんでした。

毎日5ページやらなければならない・・・・・でも今日は3ページしか仕上がらなかった・・・
・・・・・

 『 明日+2ページで計7ページやればいいさ・・・ 』

だが、次の日は4ページしか仕上がらない・・・ 

 『 明日ガンバって計8ページやればいいさ・・・ 』だが・・・・・・・・ 

予定をかなりオーバーして仕事を終えた時には精神的にヘトヘトになっていました。

そして、いよいよ本格的にさがみゆき先生のアシスタントを・・・・・という時に、すっ
かりやる気を無くしてしまっていました。

今から考えると、自宅で漫画背景の仕事を自分のペースで自由にやるには、チョット
若すぎたのかもしれません。

はじめのうちは、仕事場の雰囲気を理解したり作業の段取りを勉強したり・・・・先生や
先輩アシスタントの指導を受けながら仕事をした方が良かったのかもしれません。

単行本の仕上がりの遅れにハラハラさせられたさが先生は、まったくいい迷惑だった
と思います。 

ただの一度も怒られませんでした・・・・・・20枚、30枚と仕上がった原稿を届ける時も、
いつも笑顔で向かえてくださり、その上、手料理をご馳走してくださった。 

そのあげく…・・・突然仕事を辞めると言い出す始末・・・・・。

まったくデキの悪いアシスタントでホント申し訳なかったと思います。
 
19歳・・・・・・

全てに不満だった・・・・・・社会に、他人に、友人にも・・・・・

朝もお昼も・・・・・日のささない暗い3畳間で、黒いナマズのようにのたくっている・・・・
・・・・・・

万年床の中で2時間、3時間と寝付けずに・・・・・・頭の中で他者と議論しつづける・・・・・
・・・・

夜明け頃になって・・・・・やっと眠り、午後になって汗びっしょりかいて目覚める。

結局、初めてのアシスタントを中途半端に放り出して・・・・・ダラリダラリと・・・・・楽し
て稼げる仕事を探し始める・・・・・・

そんな仕事あるわけないのに・・・・・


  漫画家アシスタント物語、血の教訓

  『 今日中に必ず描かねばならない原稿は、机にかじりついてでも絶対今日中
    に描く事・・・それが出来るか、出来ないかで、自分の「 まんが道 」が大きく
    変わる・・・ たった一日の、その瞬間の選択が将来を決定するだろう・・・・ 』
  
  
  

          
( この写真は、1975年当時の下宿の三畳間です。万年布団の上にコタツと座椅子を置くエレガンスなインテリアです。)

 
               その5.........................'05年 3月08日 20時41分 (公開)
 

楽して稼げるバイトを探す・・・・ まずビル掃除。 一つのビルを一人でまかされるの
で、4時間かかる仕事を2時間でかたずければ、けっこう率のいいバイトになる。

この掃除会社の管理部長は、すっごい女好きで( 昨日性交した相手女性の事をよだれ
を垂らしそうになりながら話してくれる )、私がこの会社でバイトする女の子をなん
とか口説こうとしているのを知ると、すっかり私を気に入ってくれて、仕事のヒマな
ビルに私を配置してくれたりしました。
  
しかし、この女好きの管理部長が横領でクビになると、仲の良かった私はキツイ仕事
へ飛ばされ、結局、他のバイトを探す事になります。

ちなみに、このビル清掃会社で私が口説いたバイトの女の子とはその後お付き合いが
でき、成人式の夜に彼女の部屋で・・・・・。

・・・・・・と、ここから先をつづけるとアダルトサイトになってしまうので省略・・・・・・。

実は、性生活についてですが・・・・・

漫画家志望と個人の性なんて関係ないだろう・・・・・と思われる方がおられるかも知れ
ませんが・・・・・

実は大いに関係があるのです。

私が見てきたところでは・・・・・・・性的経験が豊富な人の作品には艶があり、異性のキ
ャラクターがセクシーです。

その逆の方の作品には・・・・・・・やはり、色気やキャラクターの妖艶さが乏しいのです。

多くの性体験が作家の感性を磨くのではないでしょうか・・・?

振ったり振られたり、傷ついたり傷つけられたり・・・・・・・そうした体験の少ない人の
作品は、退屈なものが多いようです・・・・・・・。
 

   漫画家アシスタント物語、血の教訓

    『 立つうちが人生、濡れるうちが華 』

        ( 「 血の教訓 」というより「 チンの教訓 」か・・・? )


バイトの話に戻りますが・・・ 次に選んだのがバス添乗員。 バスに乗り運転手の隣
に座っているだけでお金がもらえるいいバイト・・・・・・ってな事はありません。

吐く息も白い早朝の6時、氷のように冷たい水でバスを洗車! 運転席回りをクロス
で水拭き・・・・・・ 

仕事中には、命がけの事もありました・・・・・

東京四谷の「 O観光バス会社 」・・・・・添乗員は最初に笛の吹き方から教わります。

バックオーライとストップです。 

バックオーライは「 ピッピッ 」で、ストップは「ピ~~ッ」です。

 「 ピッピッ・・・・ピッピッ・・・・ピッピッ・・・・ 」

バスの後方で誘導する私・・・・・・・バスが停止位置まで来ます。

そこで緊張した私は、息を強く長く吐く事が出来ず・・・・・・・

 「 ピ~ピ~ 」

・・・・と吹いてしまい、バスが停止しません!

 「 ピッピ~~ッ、ピ~~~~~ッ 」(汗)

危うくバス後部のウインカーにぶつかるところでバスは停止。

運転手は、窓から軽蔑する様に私を見下ろしながら・・・・・・

 「 あれ、まだ死んでね~じゃん 」(笑)

しかし、本当に怖かったのは、この運転手ではなく・・・・別の・・・・・酔っ払いです。
( 注、30年も前の話です )
 
 
 

          
( この写真は、1973年から75年頃まで住んでいた調布市千川の下宿2階の廊下です。)


               その6..........................'05年 3月15日 03時18分 (公開)
 
 
添乗員のバイトは75年( 19歳 )の冬から翌年の春まで続けました。当時流行って
いた「 なごり雪 」を今聞くと、バスのフロントガラスに浮かぶ小雪混じりの雨の
東京を思い出します。

それは新年会の団体さんの送迎をやった時です・・・・・・

問題の運転手Aさん( 30代半ば )がユニークな人で、月給は全部ギャンブルに使
ってしまい生活費はスナックママをやっている奥さんが出すという、本人曰く「 た
のしいヒモ暮らし 」をする人でした。

この日彼は異常な精神状態にありました。それは一週間前に( 給料が安いから )転
職したかったのに会社が、年末年始の忙しさを理由にそれを許さなかったからです。

お客さんの送迎を終え( つまりお客さんは乗っていません )、バスを会社に向かわ
せる時・・・添乗員用の補助席から見上げると、運転中のAさんの顔色が、異様に赤い・・
・・・・・。

 運転手 「 俺はよぉ、有給( 休暇 )が2週間あるんだぜぇ。この1週間ぐらい
      は休んだまま辞めても、金が貰えるはずなんだぜ! 」

 私  「 ・・・・・・・・・ 」返事の仕様もない

 運転手 「 頭下げて頼むんならまだしもよぉ・・・エラそうに命令しやがって! 」

私は、茫然と運転手の赤い顔を見つめる・・・・ ハンドルを玩具の様に回しながら、
フフッ・・・・・と鼻で私を笑う・・・・・・

 運転手 「 ああ、飲んでますよォオオ! 客が新年会で酒飲んでんのに、なんで
      俺が飲んじゃいけないのよォ~? 」

バスは、市ヶ谷を走っている。自衛隊駐屯地の近く・・・・・・長い一直線の道だ・・・・・・・

アクセルが踏み込まれる!

観光バスの急加速!

 私  「 ・・・・・・・! 」

電車やバスに乗るお客さんが、のんびり居眠りできるのは、運転手が乗客に「 不安 」
を感じさせないように細心の注意をはらって運転しているからです。( 加速や停止に
は細心の注意を払います )

もし「 安全運転 」を信じていたバスが暴走しだしたら・・・・!

この時、何キロ出していたのかは分りません。しかし、「 法定速度 」をはるかに越
えたスピードで突っ走っていく。 ものすごいエンジン音!

観光バスのこんなエンジン音聞いた事ない!

先の信号が「 赤 」になった! このスピードじゃ止まれっこない! 私は添乗員席
で足を突っ張る!

大型観光バスのヘッドライトの先に横断歩道が見えた瞬間!

 ギキキキィーーーーッ!!

全身の毛穴から汗が噴出す! 

 プッシュゥーーーッ ( 油圧ブレーキ解除音 )

バスは停止線でピタリと止まっている!

 運転手 「 ビビッた? 止まれるとは思わなかったろぉ? 」

子供の様なカワイイ笑顔で・・・・・・

 運転手 「 こん位のテクニックは持ってんだぜぇ! 」

観光バス旅行から結婚式にお葬式、果ては火葬場への送迎バスなど、色々な体験をさ
せていただきましたが、半年ほどで辞めさせていただきました。
 
 
 

          
( この写真は、1976年から78年頃まで住んでいた高円寺のボロアパートです。よく見ると、ドアのベニヤがはがれています。
  注:人物は本編となんら関係ありません。)

              その7...........................'05年 3月22日 21時49分 (公開)


漫画家アシスタントになる方法は・・・・・・

メディアの求人広告などと、編集員や知人の紹介、そして、好きな漫画家のところへ
直接出かける「 押しかけ弟子 」など、いくつかのパターンがあると思います。

私は、1976年( 20歳 )、同人誌仲間がやっていたアシスタントの引継ぎとして、初めて
の本格的な専属アシスタントになりました。

その人の名はかわぐちかいじ先生( 当時27歳・・・若い! )今なら誰一人として知らぬ人の
ない大御所ですが、29年前はその名を知る人はほとんどいませんでした。

それでも一部の漫画マニアから愛されていたかわぐち先生の所では、ある程度の技術を
持っていないと仕事は出来ません。

私の場合、ペンを使った斜線処理や陰影バランス、そして、スクリーントーン処理が出
来るレベルでしたので・・・・・

少しは自信があったのですが・・・・・


面接の日・・・・・

中央線の武蔵小金井駅から線路沿いを東に進むとかわぐち先生の仕事場アパートがあり
ました。

モルタルの小さなアパートの1階のドアを開けると台所、その奥の4畳半で私は背景サン
プルを見てもうわけです・・・・・・

かわぐち先生の背後からアシスタントたちが覗き込みながら・・・・・・

 アシスタントO「 一応トーンは使えるんだァ・・・ これなら、即戦力で使える! 
    ( 23歳 )  ウォップ! ウォップ!・・・ 」( 彼独特の満足表現 )
  
 アシスタントH「 フンッ、処理が雑だな。まァ、使ってるうちになれるかもしれ
    ( 23歳 )  ませんけど・・・ 」
  
ニヤニヤと薄笑いを浮かべながらアシスタントHさんが小バカにしたように私を見る。

かわぐち先生はさすがに雇う立場にいるので、ニコリともしない。

このアシスタントHさんとは、1年後にトラブルを起こしてかわぐち先生の所を辞める
ことになります・・・・・。 初めて会ったその日からイヤミな先輩でした。

この後、毎日この人のイヤミに耐える事が大きな修行になるわけです。 今から考える
と、この人がいなければ今でもかわぐち先生の所で仕事をしていたかもしれません・・・・。
  
かわぐち先生、私のサンプルを見つめながら・・・・・・

 先生 「 ・・・・・明日から・・・・・・・ 」


    漫画家アシスタント物語、血の教訓

    『 吐き気のする先輩はどんな世界にも一人や二人はいるもの。 本人の前
      ではニコニコ我慢しましょう。( ハングリー精神で! ) きっと追い抜
      ける! 今は、こちらをバカだと思わせておけば楽勝です! 』
 
 
 

         
( この絵は、78年頃、同人誌用に描いた小品の一部です。かなり暗いです。秋山プロに入るまでの私は本当に暗かったです。)

             その8...................................'05年 3月29日 3時21分 (公開)
 
 
仕事の初日。( 1976年、昭和51年 春 )

寝つきの悪い私は、夜明け頃まで寝る事が出来なかった・・・。

 『 くそ・・・・・・もう、朝だ・・・・・・ヤバ! 』

このままでは明日( と言うより、今日からの仕事! )昼前に仕事場へ行く自信がない・・
・・・・・( 私はすこぶる寝覚めが悪い )。

そこで、早朝6時、電車に乗り早めに仕事場に向かいました。

かわぐち先生の仕事場は、JR中央線の武蔵小金井駅から10分ほどの所にある古いモルタ
ルアパートの1階で、4畳半と6畳の2DK。 日当たりはとても良い部屋でした。( た
だ、夏は地獄のような暑さでした )

アパートの鍵の隠し場所は教えてもらっていたので、すぐにドアを開けて台所を通り誰
もいない4畳半へ。 

そして、畳の上に横になってグッスリ!

・・・・・もう遅刻する心配はいらない。


だが、出勤して来たスタッフ( ‘75年当時、4人 )は、みんな驚いた!

新入りが仕事場で寝ている! 「 何考えてんだこいつ・・・ 」

私は爆睡中! そして、ついに・・・ サンダルをつっかけて、ネーム( 漫画のセリフを
書いた紙 )を小脇にはさんだかわぐち先生が仕事場へやって来る。

声をかけてもなかなか起きなかったようで・・・・・・・初日の仕事はじめは、スタッフの皆さ
んに起こしてもらう事から始まりました。
 
 
 

          
( この写真は、76年頃住んでいた高円寺のアパートで四畳半一間の座卓です。)

             その9..................................'05年 4月05日 5時37分 (公開)


かわぐち先生の漫画は当時( '75~ '76年 )、ややマイナー系の週刊雑誌や月刊雑誌に載っ
ていました。 

「 漫画 」というより「 劇画 」。 キャラクターの鋭いタッチは当時も今も変わらず見
事です。 

 ( ある有名な漫画家が「 俺にはあんなキャラクターは描けん。どうして、かわぐち
  かいじはあんなクールなキャラクターが描けるんだ?」などと言っておられたの
  を思い出します。〉

ただ、ストーリーは原作付きが多く、オリジナルは1~2ヶ月に1本ぐらいしか発表されま
せんでした。

キャラクター、背景共に当時の劇画界の中では高いレベルにあったと思います。 ただ、
残念ながらヒット作に恵まれるまでには、さらに10年近い歳月が必要だったようです。


お昼頃から仕事が始まり、3時にコーヒータイム。 全員で近くの喫茶店などで漫画談義。
その中で、意外と記憶に残っている会話のひとつ・・・・・・

 アシスタントH 「 うちのデビュー率ってどれ位かなぁ・・・? 」

 かわぐち先生( 当時27歳位 ) 「 デビュー率? 」

 アシスタントO 「 辞めた人( アシスタント )の内、何人デビューしてるかっていう・・・ 」

 かわぐち先生 「 ほぉ・・・ 」 興味深そうに。

 アシスタントN 「 A君、・・・それにBさん・・・ 」

 かわぐち先生 「 Cさんもいれると・・・ 」

 アシスタントH 「 結構いますよぉ、すごい! 」

 アシスタントN 「 それから、デビューしてない人が・・・1、2・・・3・・・ 」

 アシスタントO 「 ウォップ、ウォップ、デビュー率 3割、4割? 」

 アシスタントH 「 すごいですよぉ、打率3割以上! 」

 かわぐち先生 「 おい、おい 」( これは、当時のかわぐち先生の口癖の感嘆符 )

かわぐち先生、まんざらでもない様子でニッコリ。 アシスタントたちも嬉しそう( 媚び
たように? ) に笑う。


私は、「 3割、4割 」がそんなにすごい事なのかさっぱり分りませんでした。しかし今で
は、それが分る気がします。

デビュー出来るのは、アシスタント経験者の1割か2割・・・・・「 3割、4割 」というのは、確
かに高率です。

ただし、デビューして10年プロとして生きていけるのは、さらにその中の1割か2割・・・・・・

いわんやヒット作が出せるのは、さらにその中の・・・・・・・・・


   漫画家アシスタント物語、血の教訓

   『 アシスタントの中には、漫画を描かない空想家、資料ばかり集める収集家、や
     たらクールな達観者、背景職人気質、ひょうきん族、批評家、なまけ者、粗大
     ゴミ・・・・ いろいろいますが、どのタイプも( 残念ながら )大成できません。 
     大成できるのは、熱病のごとく漫画制作に没頭している人間だけである。 』 
 
 
 

         
( この絵は、1975年に出版されたさがみゆき先生の単行本「あとがき」に載った私のイラストです。)

             その10..............................'05年 4月13日 2時39分 (公開) 


かわぐち先生のところでの仕事( 1975年頃 )は、比較的規則正しいものでした。

1本( 20p位 )の制作にかかる日数は、だいたい3日+徹夜1回。

第1日目、かわぐち先生がネーム( 漫画のシナリオ )、アシスタントは大ゴマ用の漫画背
景制作。

第2日目、かわぐち先生がキャラクター、アシスタントが各ページの背景を制作。

第3日目、第2日目と同じ。そして、この日は徹夜で( 翌日昼までに )仕上げる・・・・・


1日の作業パターンは、正午より始業。 3時にティータイム。 午後6時~7時に夕食。 
11時に終業。

3日目は徹夜と決まっていたので、深夜も仕事をつづけ、だいたい深夜3時頃に近所のサッ
ポロラーメン店で夜食。 その後、2,3時間仮眠。 そして、朝から正午までに仕上げる。

1本の作品がこの様に3日+徹夜1晩で規則正しく制作されていました。

アシスタントは5人。交代で一人休むので、仕事はいつも4人でやっていました。 

しかし・・・・・

すごいと思うのは、かわぐち先生が7日に一度休むのですが、その日は必ずロックバンド
のリードギタリストとしての練習と草野球の練習に汗を流す事を習慣としていた事です。

かわぐち先生の当時の口ぐせ・・・

 『 俺の取柄は、体が頑丈な事だけなんだよ・・・・ 』

作家特有の尊大な態度がまるで無い・・・・・誰に対しても誠実で謙虚な方でした。


毎週、一度か二度、徹夜仕事があったのですが・・・・・これは、その時のエピソード。

その日の仕事が深夜に及び、夜明け前の3時頃に夜食のラーメンを食べ、その後で仮眠を
とります・・・・・

朝まで4,5時間寝てから最後の仕上げをするわけです。( お昼前に編集員が原稿を受け
取りに来ます )

全員がまだ寝ている時間・・・・・・・・

かわぐち先生は、ふと目を覚まします・・・・・・・カリカリカリ・・・・という音が聞
こえます。

 『 誰か仕事を始めてるなぁ・・・・・起きる時間にはまだ1時間早いのに・・・・・
   小池君かなぁ、まじめな奴だなぁ・・・・・ 』

仕方なく先生は起き出して、仕事部屋へ入って行くのですが・・・・・・誰も仕事をして
いません!

 「 ・・・・・? 」

先生は自分の気のせいだったのか・・・・と思って机に向かうわけです。

この話を、ノロノロと起き出して仕事を始めるスタッフたちに話します・・・・・・・

私がそれに答えます・・・・・

 「 風呂へ入ってないんでェ・・・頭痒くってぇ・・・・・ 」

 「 ・・・・・・・ 」

 「 朝方、寝ながら頭かきまくってェ・・・・ 」

かわぐち先生は、私がフケだらけの頭をかいていたのを、真面目に原稿を描いていたのと
勘違いしたわけです。
 
 「 ・・・・小池君は真面目だなぁ・・・って思ったんだけど・・・・ 」


 
 

          
( この写真は、JR線、武蔵小金井駅から徒歩10分にある30年前にKさんが仕事場にしていたアパート・・・? 
  最近写した写真ですが場所の記憶が不鮮明で・・・すいません。)

            その11...........................'.05年04月20日 04時39分 ( 公開 )


仕事は、午後の休憩時にコーヒーなどで一服するのが習慣になっていました。

確か、武蔵小金井駅の近くにあった喫茶店だったかと思います・・・・・・

例のごとく媚びる様にアシスタントHさんが・・・・・・

 「 アシスタントなんて気楽ですよ! それに比べたら漫画家は大変ですよねェ。 」

かわぐち先生は、苦笑いしながら、しかしハッキリと・・・

 「 アシスタントの方が大変だよ。俺はアシスタントの方が大変だと思うよ、きっと。 」

かわぐち先生は、アシスタントの経験がありません。 でも、とてもアシスタントに気を
配っておられました。


こんな、先生を私は裏切る事になります・・・・。 

その話は、まだ少し先に・・・・・。


かわぐち先生のアシスタントの月給はだいたい6~7万円、当時( 1976年頃 )の私の生活費
( 家賃、食費 )が4万円位ですから、十分生活は出来ました。

 注) 当時の物価を参考までに・・・・・
          
    ラーメン 200円   ギョーザ 180円   サッポロみそラーメン 350円

この給料プラス年末の一時金と、かわぐち先生の単行本が発行された時の印税の分配金
( アシスタントにも分けてくれる! )があったそうですが、後に仕事場を逃げ出す私は
もらっていません。


仕事中のBGMは、ほとんどロック( かわぐち先生はブルースロックが大好き! )とフォー
クでした。 そして、ラジオの野球中継。

一応、好きな音楽を聴ける事になっていたのですが・・・・・私がクラシック( バッハが好き! )
のテープをかけると・・・・・

 アシスタントH 「 ダメだぁ、こんなの聞きながら仕事できん! 」

 アシスタントO 「 ウォップ、ウォップ! 」( 同意の意味と思われる )

・・・・と、躊躇なくテープをロックに変えられました。

この時が、後にも先にもクラシックが聞けた唯一の瞬間( 5,6分 )でした。


まだ、ソニーのウォークマンが無かった時代で、各人自由に好きなBGMを聞けませんで
した。


   漫画家アシスタント物語、血の教訓

  『 TVにチャンネル権があるなら、音楽にもBGM権がある。 このBGM権を奪
    われると、そこでの仕事は苦痛を伴う。 少なくともその位、音楽や食事にこだ
    わりが無い様では、その( クリエイターとしての )感性を疑わざるを得ない。 』
 
 
 

          
( この写真は、JR線、武蔵小金井駅近く、かわぐち先生の元仕事場のご近所風景《2005年4月》)

             その12...........................'05年04月27日 03時10分 (公開) 
 
 
「 99パーセントの努力と1パーセントの才能 」この言葉は少なくとも漫画界には、通用し
ない。

1の努力で10結果を出す奴と10努力しても1しか結果を出せない奴もいる。 レスリ
ングや柔道の様にクラス別けがない。才能が有ろうが無かろうが、中卒も東大卒も・・・何千
何万という新人がごちゃ混ぜでガチンコ勝負の世界・・・。

自分がどの位才能があるのか、どの位根性があるのか、どの位のレベルにあるのか・・・・・・
・・・・誰にもわからない・・・・・・・・。

原稿を編集部に持ち込む・・・・・

そして、10分後、編集部を出る・・・・・後ろ手にドアを閉め、神保町界隈の喧騒の中へ・・・・・・

その時、打ちのめされて「 現実 」の重量を理解する。


入ったばかりの私は、かわぐち先生の仕事場で簡単なコマの背景を指示されなが処理して
いました。( 1976年 春 ) 

劇画の背景で大事な事は、「 資料写真そっくりに描く 」ことでした。 その辺のコツを少
しずつ理解し出したのは、季節が変わった頃でした・・・・・ ( 1976年 夏 )


我ながらしっかり背景が描けたかな・・・・などと思いつつ原稿の処理していると・・・・・

 アシスタントN 「 小池君(私)、いいねェ。 上手くなったねェ!」

 アシスタントO 「 ウォップ ウォップ!」( 『 まあまあだな 』の意 )

サッと先輩Hさんが割り込んでくる。

 アシスタントH 「 こんなの、たいした事ねェな・・・・ 」

 アシスタントN 「 でも、電車に反射する光がリアルでいいねェ・・・・ 」

 アシスタントO 「 ウォップ ウォップ・・・・ 」( 『 言われてみればそうかも・・・ 』の意 )

先輩Hさん、小ばかにした様な薄笑いを浮かべながら・・・

 アシスタントH 「 トーン使い過ぎ。暗いよ 。 」
 
 アシスタントO 「 ウォップ ウォップ・・・ 」( 『 言われてみればそうかも・・・ 』の意 )


毎日、こんな調子でした。

仕事もかなり慣れてきた頃、この先輩Hさんとは生涯理解し合えないと思う出来事が起き
ました・・・・・・


出版されたかわぐち先生の雑誌をみんなで見ている時です・・・・・

 かわぐち先生 「 この背景いいよなァ! 小池君(私)だろ、これ? 」

絵を見ると私の絵ではない。

 私      「 その絵は・・・・・・ 」

横からナイフでも突き刺すように・・・

 アシスタントH「 これは、Oですよ! 小池じゃありませんよ! 小池にこんな絵描
          けませんよ! 」

 かわぐち先生 「 え・・・? 小池君かと思ったよ・・・・O君か・・・・・ 」

 アシスタントO 「 ウォップ ウォップ 」( 『 私の絵です 』の意 )

 アシスタントH 「 Oのペンタッチはすごいですよねェ! ハハッ、小池の絵とは全然
           違いますよ! 」
          

最年少で、一番下っ端の私には、じっと我慢するしかなかった。

 「 遅っいなァ~! 」

 「 こんな絵に何時間かけてるんだよ! 」

 「 写真そっくりに描けって言ってんだろ! 」

 「 下手糞! 」

毎日、毎日、不愉快な事が10回位あった・・・・・・

この頃の屈辱は今でも忘れる事が出来ない・・・・・・。


   漫画家アシスタント物語、血の教訓

    『 漫画家に成りたい人間は沢山いる。そして、漫画家に成ってほしくない
      人間も・・・・・・ 』
  
  
 
        「 漫画家アシスタント物語 第2章 22年改訂版 後半 」 へつづく・・・・


            【 「漫画家アシスタント第1章 22年改訂版」へ戻る 】




       * 参考 *   
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  .............. 私(yes)のアシスタント履歴
  
  1974年昭和49年 さがみゆき先生 主に(少女系)怪奇漫画。単行本1冊分、
           4,5ヶ月のお手伝いでした。 (19歳)
     
  1976年昭和51年 かわぐちかいじ先生 この当時、氏は今ほど有名ではなか
           ったのですが、背景技術をみっちり仕込まれました。(20歳)

  1977年昭和52年 村野守美先生 漫画界一の豪傑と言われ、エピソードには
           事欠きません。たった1週間しか勤まりませんでした。(21歳)

  1978年昭和53年 ジョージ秋山先生 当時「浮浪雲」(ビックコミックオリ
           ジナルに連載)が、すごい人気で、渡哲也、桃井かおりの
           主演でTVドラマ化されていました。(23歳) 

  2017年平成29年 ジョージ秋山プロを退社、タイ・チェンマイにて隠居中。(62歳)

                    
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~                   
  


【 各章案内 】   「第1章 改訂版」  「第2章 改訂版」  「第3章 改訂版」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」   「古い話で章 その1」
          
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」

          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )




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漫画家アシスタント物語 第1章 22年改訂版

2022年08月24日 20時47分14秒 | 漫画家アシスタント

     
( この写真は、ジョージ秋山プロがある東京、目白の某マンションである。)  


【 はじめての方は、「その8」の下にある「yesの履歴書」もあわせてお読み下さい。】



           その1    '04年 11月25日 4時59分 (公開)


このマンションの一室に夢の架け橋・・・ というより・・・・・・・・・

夢の廃材置き場がある・・・・・。 

「 ジョージ秋山プロ 」。

そこを始めて訪れたのは23歳の時だった・・・・・。

それから26年・・・26年! ベタ塗り、トーン貼り、ホワイト修正・・・苦節26年。
もはや、笑うしかないのか・・・ お笑い人生劇場・・・・・

・・・いや!笑い事ではない。

「 来年こそは! 」「 来年こそは! 」で、あっという間に49歳!

頭には白髪がのぞきネームを読むにも老眼鏡をかけ・・・・・。 

中古の肉体を引きずって、ただ今日を生きる・・・・・。

そんな私が語れる、傷だらけの漫画一本道・・・・・。


 ( この章は、一部省略変更した『2022年度改訂版』になります )
 
 


     
( この写真は、東京、目白の某マンション7階にある秋山プロのドアである。)  


           その2          '04 11月30日 2時53分 (公開)


ブザーの壊れたドアーの向こうに「 ジョージ秋山プロ 」がある。

最近・・・ いや、昔(26年前)から仕事がヒマで、誰言うとなくこの部屋は「常時
空き家」などと、噂されている・・・・・・。

ジョージ秋山といっても、若い方にはピンと来ないかもしれないので、私より、
まず始めに、我が師匠、漫画家ジョージ秋山先生について語ります・・・・・。
                
 


     
( この写真は、ジョージ秋山プロの仕事場風景です。) 


           その3          '04 12月4日 5時38分 (公開)


漫画家ジョージ秋山 年齢は私より12歳上だから・・・・ 現在、61歳( 2004年当
時 )。

白髪、そして老眼鏡、お世辞にも若くはない。「 初老 」と呼べる年輪がしっか
りとその顔に刻まれている・・・・・・

ズッシリと重たい存在感。 猛禽の様な鋭い目。

相手の心臓を貫く強力な言葉の威力。瑞々しい感性と洞察力・・・・・。
 
でも・・・・ ただのスケベ親爺にも見える!


代表作 「 パットマンX 」「 銭ゲバ 」「 アシュラ 」そして・・・・・「 浮浪雲」
・・・・これ、もう30年もやってる。

もっとも、そのおかげで我々アシスタントもメシの種には尽きないわけで・・・・・。


氏について語りだすと、本が一冊や二冊必要になるほど多くのエピソードがある。
それについては、いずれまた・・・。
  
 


     

           その4       '04 12月10日 5時23分 (公開)


本題へ入る前に、ごく簡単に「 漫画背景 」について説明しておきましょう。

上の画像は、隔週漫画雑誌「 ビックコミックオリジナル 」( 小学館 )に連載中
の「 浮浪雲 」(連載、‘73年~‘17年)の 一部です。 描かれている人物とセリ
フは、勿論ジョージ先生が描い たもので、それ以外は全て私が描いたものです。

畳、障子、囲炉裏、なべ、人物の服の柄・・・・・。

この畳・・・・・・いかがですか? これが、26年間背景を描き続けた人間の畳です・・・・。

昨日は冬山、今日、夏空、そして明日は宿場町・・・・・・。

作品によっては 歌舞伎町のネオン街や高層ビル。メルセデスベンツからママチャ
リまで・・・・・・

雨に嵐に雪、吹雪! 何でも描きます、描かされます!


26年もアシスタントをやることになるって分っていたら・・・・・・

絶対この世界に入ってはいなかった! 絶対に・・・・・・!

2,3年アシスタントでもやって、それからデビューして漫画家に・・・・

そんな甘い考えで、ここのドアをたたいていた・・・・・・。

薄ボンヤリとした春のある日・・・・・。
 
 

     
( この写真は、秋山プロにある私の仕事机である。) 


           その5       '04 12月18日 3時37分 (公開)


三顧の礼を尽くすとは、よく言ったもので・・・・・。
 
ジョージ先生( ‘78年当時、35歳、連載週間誌2・隔週誌2・月刊誌数誌 )には、数
回断られた。

最初は、電話で「 アシスタントォ・・・・? 募集してねェよ! 」と、しかし、こっ
ちだってバイトをやめて背水の陣でいるから、『 はい、そうですか 』とはいかな
い。 

 私「 と・・・とにかく、絵を見ていただくだけでもいいんです!」

と、無理やり面接へ持ち込む。 自信のある原稿を何枚か持って氏のマンション
へ・・・・・・ ( 写真「第1章その1」 )


1978年( 昭和53年・・・古い話で申し訳ない! )3月某日。

ボンヤリとした春の午後・・・・・。 

マンションのドア・・・・ ブザーが壊れている・・・・・・ノックした。

アシスタントの一人に案内されて通されたのが氏の個室。

私が座ったソファの向かい、こっちに背を向けて仕事中の様子。

確か、あいさつをしたはずなんだけど、返事は無い・・・・・ 無い・・・!

物凄く空気が重い! 原稿の仕上がりを待っている編集員が一人。和やかに話し
かけてくれた・・・・・・。

 編集員 「 ここは良いよォ、アシスタントになれるといいね! 休みは
       多いし、徹夜は無いし・・・・。本当に、ここは楽だよォ 」 
 
まだ23歳、緊張でガチガチになっていた私は、ただ黙って聞いていた。

とにかく、何か喋ろうとしていた・・・・・。

「 浮浪雲 」( 小学館「ビックゴミックオリジナル」連載、当時の大ヒット作 )
が仕上がったようだ

 私  「 あのぉ・・・・ 先生は、結婚してらっしゃるんですか? 」

ジョージ先生は、見下す様に私を睨み付ける。

 先生 「 おみィ~は、『 浮浪雲 』の何処を見てっだよオオオッ! あれ
     が、結婚してねえ奴に作れる作品かァ? 子供のいねェ奴に作
     れるかァッ?! 」 と、怒鳴られた。

ひょっとして、氏の声は小さかったかもしれない、でも落雷に撃たれた様な衝撃
だった・・・・・・。 

しばらく、氏は編集員と何事も無かったように談笑する。そして・・・・

 先生 「 おみィ~仕事やめちゃって、困ってんだろォ・・・・でも、俺だっ
     て困るぜェ・・・( 苦笑 ) 机も椅子もみんな使ってっからよォ、
     おみィ~の座るイスはにィ~んだよなァ~! 」

血の気のうせている私は、ただ耐えるしかなかった。

しかし、最後に・・・・・・「 まぁ・・・。また来いや。」 ・・・・って、いったい、ОKなの
かNОなのか・・・・・。とにかく、数日後、アポをとって3度目の挑戦へ!

夜、やっぱりドアのブザーは壊れている。 

ノックすれども返事は無い・・・・・・・・・・。

『 どうしよう・・・この時間に来ると言ってあるのに・・・ 』 と、その時・・・・

ガチャッ ドアが大きく開き、ジョージ先生と連れの男性が一人。

 「 なんだ、おみィ~かァ? これから、出掛けるところなんだよ・・・まあ
  縁が無かったって事だな・・・・ 」( 私が来る事など眼中にまるで無い? )

茫然としている私を見て、さすがに気の毒に思われたのか・・・・・・

 「 せっかく来たんだから、メシでも食うか・・・? 」
 
 


     
( この写真は、東京目白通りぞいにあるうなぎ割烹料理店である。《2004年12月撮影》) 

           その6       '04 12月29日 7時15分 (公開)


春の夜。( 1978年 ) 緊張から安堵へ・・・・・。

「 メシでも食うか・・・? 」の一言で救われた気分。漫画家ジョージ秋山先生の
この言葉で、『 何とかなるかも・・・・・・ 』と、希望がつながった思いでした。


JR線目白駅から10分ほどの所にある、うなぎ割烹料理店へ。
 
ジョージ先生、山際淳司氏( スポーツライター、『江夏の21球』etc 、惜しい事
に若くして亡くなられました )、そして私の3人。 

高そうなお店で、美味いはずなのに、緊張のため鰻を食ってるんだか、蛇を食っ
てるんだか分らない・・・・・・。

ただ、この時の会話を今でもはっきり覚えています。( 26年前のこの時の・・・! )


ジョージ先生と山際氏との対話に、私なんぞの入り込む余地は無く、ただ黙って
いました。

鰻をご馳走になり、アシスタントにも使ってくれそうな( 十分スタッフはそろっ
ているのに )感じだった・・・・・・。

黙っている私に、山際氏が話しかけてくれた・・・・・・( 私に気を使って下さってい
るんだと思っていた・・・・・ )

山際氏、クールに・・・・・・

 「 いつ頃、プロになるんですか? 」

踏み込んだ様な質問にちょっと戸惑いつつ・・・・・

 「 ・・・ア・・・アシスタントを2,3年やってから・・・・・ 」

山際氏、表情一つ変えずに・・・・

 「 2,3年やって、ダメだったら・・・・・・? 」

 「 また、2,3年アシスタントを・・・・・ 」

山際氏、機械の様に・・・・

 「 それでも、まだダメだったら・・・・・・? 」

くどい質問だなァと、少し不快に・・・・

 「 また、2,3年・・・・・ 」

山際氏、冷淡に・・・・

 「 それでもダメなら・・・? 」

もはや、私に選択の余地は無い・・・・

 「 ま・・・また、2,3年・・・・・ 」

山際氏のクールな顔が怖い・・・・・

 「 それでもダメなら・・・? 」

なぜ、こんな質問をされるのか、訳が分らなくなりながら・・・・・

 「 ま・・・また・・・に・・・2、3・・・年・・・・ 」私の声が、小さくなって聞き取れない。

山際氏、ため息をつきながら・・・・

 「 最近の若い人達って、考えないんですよねェ・・・・・ 」


しばらく間があって・・・・・
   
ジョージ先生、薄笑いを浮かべながら私の顔を見て・・・・。

 「 おみ~は、『 歩 』だなァ・・・ 」 指で将棋を指すしぐさをしつつ・・・・
 
 「 ・・・・・・・・ 」 何とも答えようが無い私。

ジョージ先生つづけて曰く 

 「 一歩一歩、ノロノロと進んで、敵の餌食になる・・・・・ だが・・・ 相当、努力
  して、運も良けりゃあ『金』に成る!・・・・・・・・・・かもなァ~ 」

 「 ・・・・・ 」 何とも答えようが無い私。

山際氏が、面白そうに入り込んでくる。

 「 先生、僕は何でしょうか? 」

ジョージ先生、すかさず・・・・

 「 おみィ~は、『 銀 』だなァ! 」

山際氏、まんざらでもなさそうな顔をしつつ

 「 僕は、『 香車 』じゃないかって思ってたんですが・・・・ 」

ジョージ先生、一つうなずき低い声で 
 
 「 違いますねェ。おみ~は、『 香車 』じゃねェ~よ、俺ィだよ、俺ィが
  『 香車 』だよ 」

山際氏、力を込めて・・・・

 「 違いますよ~・・・・ 先生は、『 王将 』でしょう!? 」( 笑い )

ジョージ先生、笑いながら

 「 おう・・・? 『 王将 』は困りますねェ、・・・狙われちゃうからねェ!」( 笑い )

ジョージ先生、山際氏、二人が笑っている。 私は笑えない。

私は・・・・・・

 「 ・・・・・・・・・・・・ 」 一生懸命 顔を歪めている。
 
 


     
( 上の写真は、私が26年勤めるジョージ秋山プロのあるマンション入り口です。
 手前にあるのが我が愛車、黒の『メルセテス、ペンシ』です。 )


            その7     05年 1月20日 02時44分 (公開)


目白にあるうなぎ割烹料理店での会食後、私はジョージ秋山プロでアシスタントの
仕事を始めました( ほんの2・3年のつもりで! )。

この場合、私は「 仕事を始めた 」つもりですが、ジョージ先生は、「 仕方がねェ
から、拾ってやった・・・ 」つもりの様で、この矛盾は26年たった現在でも、あまり
変わってはいません。


漫画家志望で、夢一杯! 腹も出ていなかったあの頃( 20代前半 )は・・・・・・。

アシスタントを10年以上もやっている人がこの世の中にいるとは、予想もしなかっ
た・・・・。いわんや、自分がこの先26年もアシスタントをやってる事になろうとは・・
・・・・・。

10年、20年・・・とアシスタントをやれば、漫画家になれるなどという保証はない。
・・・・・・いや、それどころか、事態は逆に深刻になっていくだけだ・・・・・・。 

長すぎるアシスタント経験は、プロになるために絶対必要な、孤独でシビアーな感
性をトロットロッに溶解させてしまう・・・・・。( ただ、人間的にはやさしくて、
丸みが出て来るんですが・・・・・ )


だいたい、40歳過ぎで、漫画の背景が描けますと言ってハローワーク( 職安 )に
行っても何の仕事もありません。 つまり・・・・・ 今の私なんぞは、漫画家になる
以外、何が何でもジョージ先生におすがりして、アシスタントの仕事にしがみ続け
る・・・という、選択肢しか残っていないわけです・・・・・。


結局、楽な人生など何処にも無かったのだ・・・・と言う事に今頃気づいている私です
・・・・・。


 漫画家アシスタント物語 血の教訓
  『 誰かのアシスタントになる時は、将来の選択肢が以下の3つだけに
   なる事を銘記せよ。
    一つ、絶対漫画家になる。
    一つ、死ぬまでアシスタントを貫徹する。
    一つ、アシスタントを辞めて路頭に迷う。 』
 
 


     
( 上の写真は、ジョージ秋山プロのあるマンションの階段です。毎日7階の
 仕事場まで、階段を上がって行きます。)


            その8      '05年 1月28日 04時22分 (公開)


実は、私にとって漫画家アシスタントの仕事は、ジョージ先生の所でお世話になる
4年前から始まりました。つまり、1974年( 昭和49年 )19歳の時から、恥ずかし
ながら・・・のべ30年も、漫画家のアシスタントをやってきた事になります。( 2005
年当時 )

それで、手に入れたものといえば、小さな夢のカケラがポケットに一つ・・・・・。

しかし、不思議と後悔の念といったものが、ほとんどありません。 

それはたぶん・・・自分が選んだ好きな道を歩いてきただけだからか・・・・ 後悔しても
手遅れだからか・・・・・・

「 アシスタント生活に30年という貴重な人生を浪費した・・・・・ 」と、嘆く事もでき
ますが、絵が好きだ、という点からすれば、「 30年間も好きな事だけやってこれた
! 」と笑う(?)事もできます。


ところで、第1章の最後に書いておかなければならない事が一つ。

好きな事をやってこれたのは、自分の力や努力などではなく、それを許してくれた人
や、助けてくれた多くの人たちのおかげだったという事・・・・・。

そんな事に、今頃気づいている・・・ 自分のバカさにただ呆れるばかりの今日この頃。


今、あらためてこの30年を見つめなおすために、第2章より、3畳一間、裸電球、万
年床、インスタントラーメン・・・・19歳の漫画一本道の第一歩を書かせていただきたい
と思います。


          「 漫画家アシスタント物語 第2章 22年改訂版 前半」 へつづく・・・・


 
 
 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
             私(yes)の履歴書
          
  1955年昭和30年 東京生まれ 世田谷区立駒沢小学校卒。 14歳より、映画館
           のキップ切り、ビル清掃人、冷凍食品倉庫、等々(10数種)

  1974年昭和49年 19歳より、漫画家アシスタントを始める。以降 漫画履歴・・・

  1974年昭和49年 さがみゆき先生 主に(少女系)怪奇漫画。単行本1冊分、
           3,4ヶ月のお手伝いでした。(19歳)
     
  1975年昭和50年 かわぐちかいじ先生 この当時の氏は今ほど有名ではありま
           せんでした。背景技術をみっちり仕込まれました。(20歳)

  1976年昭和51年 村野守美先生 漫画界一の豪傑と噂され、エピソードには事
           欠きません。たった1週間しか、勤まりませんでした。(21歳)

  1978年昭和53年 ジョージ秋山先生 当時「浮浪雲」(ビックコミックオリジナル
           に連載)が、すごい人気で、渡哲也、桃井かおりの主演でTV
           ドラマ化されていました。(23歳)

  1984年昭和59年 あと1年で、30歳! 焦っていた。 漫画制作に没頭。出版社め
           ぐりの日々。(29歳)

  1985年昭和60年 「ヤングジャンプ新人漫画賞」にて、奨励賞、努力賞、佳作賞、
           受賞。

  1986年昭和61年 「雨のドモ五郎」が、「ヤングジャンプ」新人漫画賞準入選。本
           誌に2色指定で掲載。事実上のデビュー作。これが同誌への
           最初で最後の作品となる。(31歳)

  1989年平成元年 別冊(!)ヤングジャンプ「ベアーズクラブ」にて、100ページ
           読み切りの「蟹工船・覇王の船」(小林多喜二原作)を発表。(34歳)

  1992年平成4年  宇都宮病院事件の「悪魔の精神病棟」を原案とした書き下ろし
           単行本「サイコホスピダー」製作開始 (37歳)

  1995年平成7年 タイ王国チェンマイ郊外の山村にて結婚。(40歳)

  1996年平成8年  三一書房より「サイコホスピダー」初版出荷、初版で絶版。(41歳)

  2008年平成20年 拙ブログ「漫画家アシスタント物語」がマガジン・マガジン社に
           て書籍化、「雨のドモ五郎」収録。(53歳)

  2008年平成20年 TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」にゲスト出演、漫画家ア
           シスタントについて語る。(53歳)

  2008年平成20年 「劇画 蟹工船 覇王の船」宝島社より「覇王の船」が加筆訂正さ
           れ完全版として出版。小説「蟹工船」収録。(53歳) 

  2009年平成21年 新宿の宝塚大学、漫画学科で非常勤講師になり、「背景美術」
           を担当する。

  2017年平成29年 ジョージ秋山プロを退社、43年のアシスタント人生を終え、タイ・
           チェンマイにて隠居中。(62歳)
             
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ( 注:不確かな記憶によって記されている個所があります事をご容赦下さい ) 





【 各章案内 】   「第1章 改訂版」  「第2章 改訂版」  「第3章 改訂版」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」   「古い話で章 その1」
          
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」

          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )



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漫画家アシスタント第1章 その10(縮小版)

2005年05月08日 03時56分20秒 | 漫画家アシスタント
( 上の写真は、東京目白のJ・Aプロのあるマンションの階段です。毎日7階の仕事場まで、階段を
  上がって行きます。)


【 はじめての方は、どうぞ 「漫画家アシスタント 第1章 その1(縮小版)」 よりご覧ください。】



                       その10..........................'05年 1月28日 04時22分 (公開)


漫画家アシスタント生活は、J先生の所でお世話になる4年前から始まりました。

つまり、1974年(昭和49年)19歳の時から、恥ずかしながら・・・のべ30年も、漫画家のアシスタントを
やってきた事になります。

それで、手に入れたものといえば、小さな夢のカケラがポケットに一つ・・・。

しかし、不思議と後悔の念といったものが、ほとんどありません。 

それはたぶん・・・自分が選んだ好きな道を歩いてきただけだからか・・・ 後悔しても手遅れだから
か・・・・・・

「アシスタント生活に30年という貴重な人生を浪費した・・・・・」と、嘆く事もできますが、絵が好きだ、
という点からすれば、「30年間も好きな事だけやってこれた!」と笑う(?)事もできます。


ところで、第1章の最後に書いておかなければならない事が一つ。

好きな事をやってこれたのは、自分の力や努力などではなく、それを許してくれた人や、助けてく
れた多くの人たちのおかげだったという事・・・・・。

そんな事に、今頃気づいている・・・ 自分のバカさにただ呆れるばかりの今日この頃。


今、あらためてこの30年を見つめなおすために、第2章より、3畳一間、裸電球、万年床、インス
タントラーメン・・・19歳の漫画一本道の第一歩を書かせていただきたいと思います。



                    「漫画家アシスタント 第2章 その1(縮小版)」 へつづく・・・
 
 


   * 参考 *   
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
.............. 私(yes)のアシスタント履歴

1974年昭和49年 さがみゆき先生 主に(少女系)怪奇漫画。単行本1冊分、
        4,5ヶ月のお手伝いでした。 (19歳)
     
1976年昭和51年 かわぐちかいじ先生 この当時、氏は今ほど有名ではなか
        ったのですが・・・・。背景技術をみっちり仕込まれました。(21歳)

1977年昭和52年 村野守美先生 漫画界一の豪傑と言われ、エピソードには
        事欠きません。たった1週間しか、勤まりませんでした。(22歳)

1978年昭和53年 ジョージ秋山先生 当時「浮浪雲」(ビックコミックオリ
        ジナルに連載)が、すごい人気で、渡哲也、桃井かおりの
        主演でTVドラマ化されていました。(23歳) 

‘05年平成17年、現在なお、秋山プロにぶら下り中。 (50歳)

                   
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~           
     ( より詳しい履歴は 「漫画家アシスタント 第1章 その1」 にあります。 )





 
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 全326ページ。第1章の一部漫画化! 秘蔵未公開写真19点、描き
 下ろしイラスト18点を含む画像総数148点! そして漫画「雨のドモ
 五郎」を完全収録! 


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 拙サイト「WEB漫サイ」に「死亡少年」(1987年、別冊ヤングジャンプに
 掲載)を公開しました! 24ページの読み切り短編、20年前のホラー作
 品です。 興味がありましたら・・・どうぞ、ご覧下さい!

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【 各章案内 】  「第1章 その1」  「第2章 その1」  「第3章 その1」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
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          「諦めま章 その1」  「古い話で章 その1」
          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )



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漫画家アシスタント第1章 その8(縮小版)

2005年05月06日 16時07分35秒 | 漫画家アシスタント
(上の写真は、私が26年間通った目白通りにあるお蕎麦屋さんの『T』さんです。)


【 はじめての方は、どうぞ 「漫画家アシスタント 第1章 その1(縮小版)」 よりご覧ください。】



                    その8(縮小版)..............................'05年 1月13日 03時59分 (公開)


26年間のアシスタント生活で、お世話になったといえば、漫画関係者以外では・・・目白通りの或る
お蕎麦屋さんをあげる事が出来ます・・・・


         これ以降のあらすじ ・・・・・・・・・・・・・・

思い出のお蕎麦屋さんの話。 そして、その後も・・・お蕎麦屋さんとの関係がつづき・・・・・



                              「漫画家アシスタント 第1章 その9」 へつづく・・・








【 各章案内 】  「第1章 その1」  「第2章 その1」  「第3章 その1」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」  「古い話で章 その1」
          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )




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漫画家アシスタント第1章 その7(縮小版)

2005年05月05日 21時55分21秒 | 漫画家アシスタント
 (上の写真は、私が26年間通った目白通りです。前回の「うなぎ割烹"O"」は、この先にあります。
  《2004年12月撮影》) 


【 はじめての方は、どうぞ 「漫画家アシスタント 第1章 その1(縮小版)」 よりご覧ください。】



                   その7(縮小版)..............................'05年01月05日 22時30分 (公開)


うなぎ割烹"O"での会食後、私はJ・Aプロでアシスタントの仕事を始めました(ほんの2・3年のつもり
で!)。(1978年昭和53年)

この場合、私は「仕事を始めた」つもりですが、J先生は、「しかたねェから、拾ってやった・・・」つも
りの様で、この矛盾は26年たった現在でも、あまり変わってはいません。


         これ以降のあらすじ ・・・・・・・・・・・・・・

J先生たちと会食したうなぎ割烹Оについての思い・・・そして、自分がちっとも成長していない事へ
の焦燥感・・・・。



                             「漫画家アシスタント 第1章 その8」 へつづく・・・








【 各章案内 】  「第1章 その1」  「第2章 その1」  「第3章 その1」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」  「古い話で章 その1」
          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )




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漫画家アシスタント第1章 その5(縮小版)

2005年05月03日 22時08分28秒 | 漫画家アシスタント
  ( この写真は、J・Aプロにある私の仕事机である。)  


【 はじめての方は、どうぞ 「漫画家アシスタント 第1章 その1(縮小版)」 よりご覧ください。】



  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   本来この位置には、幻の『その5【アシスタント物語】開店休業か? 』
   が入るのですが・・・ 省略します。
   内容は、ここまで実名で書いてきた【アシスタント物語】がJ先生の
   ご注意により、実名で公開出来なくなったというものです。

   私の知る限り多くのアシスタント系サイトがその体験談を実名公開出来
   ないでいます。 どうしたらいいのか・・・ 色々な考えを聞き、自分でも
   考え・・・・そして、本文に実名を出さないが読者には分る方法が・・・ 。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ~~~~~~ ★ 付記 08年、7月 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
   単行本「漫画家アシスタント物語」では、諸先生方のご厚意により、実
   名で掲載されてる方も・・・・・!
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


           その5...............................'04 12月18日 3時37分 (公開)


再度、再々度・・・私は電話をかけるのだが・・・・

J先生( 78年当時、35歳、連載週間誌2・隔週誌2・月刊誌数誌 )には、
その度に断られた。 

最初は、電話で「アシスタントォ・・・? 募集してねェよ!」と、
しかし、こっちだってバイトをやめて背水の陣でいるから、
『はい、そうですか』とはいかない。 

  私「 と・・・とにかく、絵を見ていただくだけでもいいんです!」

と、無理やり面接へ持ち込む。 自信のある原稿を何枚か持って氏の
マンションへ               (写真 「第1章その1」)


1978年(昭和53年・・・古い話で申し訳ない!)3月某日。

ボンヤリとした春の午後・・・・・。 

マンションのドア・・・ ブザーが壊れている・・・ノックした。
アシスタントの一人に案内されて通されたのが氏の個室。

私が座ったソファの向かい、こっちに背を向けて仕事中の様子。
確か、あいさつをしたはずなんだけど、返事は・・・・・ 無い・・・!

物凄く空気が重い! 原稿の仕上がりを待っている編集員が一人。
和やかに話しかけてくれた・・・。

  編集員 「ここは良いよォ、アシスタントになれるといいね! 
       休みは多いし、徹夜は無いし・・・。本当に、ここは楽だよォ」 
 
まだ23歳、緊張でガチガチになっていた私は、ただ黙って聞いていた。
とにかく、何か喋ろうとしていた・・・。

「H雲」(隔週漫画雑誌B・C・O連載、当時の大ヒット作)が仕上がったようだ

  私 「あのぉ・・・ 先生は、結婚してらっしゃるんですか?」

氏は上目ずかいで私を睨み付ける。

  A先生 「おみ~は、『H雲』の何処を見てっだよオオオッ! 
       あれが、結婚してねえ奴に作れる作品かァ? 子供の
       いねェ奴に作れるかァッ?!」 と、怒鳴られた。

ひょっとして、氏の声は小さかったかもしれない、でも落雷に撃たれた
様な衝撃だった・・・。 

しばらく、氏は編集員と何事も無かったように談笑する。そして・・・

  A先生 「おみ~仕事やめちゃって、困ってんだろォ・・・・でも、
       俺だって困るぜェ・・・(苦笑) 机も椅子もみんな使っ
       てっからよォ、おみ~の座るイスはにィ~んだよなァ!」

血の気のうせている私は、ただ耐えるしかなかった。

しかし、最後に・・・「まぁ・・・。また来いや。」 ・・・って、いったい、
ОKなのかNОなのか・・・。とにかく、数日後、アポをとって3度目
の挑戦へ!

夜、やっぱりドアのブザーは壊れている。 
ノックすれども返事は無い・・・・・・・・・・。

『どうしよう・・・この時間に来ると言ってあるのに・・・』 と、その時

ガチャッ ドアが大きく開き、J先生と連れの男性が一人。

「なんだ、おみ~かァ? これから、出掛けるところなんだよ・・・
まあ、縁が無かったって事だな・・・」 
          (私が来る事など眼中にまるで無い・・・?)

茫然としている私を見て、さすがに気の毒に思われたのか・・・

「せっかく来たんだから、メシでも食うか・・・?」



          「漫画家アシスタント 第1章 その6」 へつづく・・・

 







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          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」  「古い話で章 その1」
          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )




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