旅の思い出

記憶遺産を作っていきたいです。

スペイン その2(2019/11)グラナダ

2021-03-27 12:36:00 | 日記
2019年11月にスペインの都市グラナダの「アルハンブラ宮殿」を旅行しました。


「アルハンブラ宮殿
イスラム教最後の宮殿です。
約260年間 王たちが酔いしれた華麗て豪華なイスラム文化の美の結晶が素晴らしいです。


アルハンブラ宮殿は大きく分けると、アルカサバ要塞、カルロス5世宮殿、ナスル朝宮殿、ヘネラリフェ庭園の4つの部分で構成されています。



「簡単な歴史」

八世紀から七百年以上続いたイスラム教王国(ムーア人王朝)のスペイン支配が続きました。

ムーア人の重要拠点はゴルドバ、セビリア、グラナダと時代の流れとともに移っていきました。

ナスル王朝が誕生するとグラナダがその首都となり、グラナダの政治,軍事の拠点となったのがアルハンブラです。

グラナダを首都に約260年間続いたナスル王朝の宮殿がアルハンブラ宮殿です。

宮殿に最初に造られたのはアルカサバ要塞で1230年~40年頃、キリスト教徒軍の侵攻に備えてのことです。


それから170年の間に増築が重ねられ、赤い城といわれるアルハンブラ宮殿が出来上がります。
それは光と水とアッラーへの信仰心からなるイスラム美術の結晶です。



アルハンブラ宮殿は周囲2キロと広大です。

そのなかで中枢部はナスル朝宮殿」(ナサリーエス宮殿群)です。
ナスル朝宮殿はナスル王朝時代に築かれた3つの宮殿とそれに付随する建物で構成されています。


その3つとは「メスアール宮」「コマーレス宮」「ライオン宮」である。いずれも回廊でつながって西から東に向かってこの順序で並んでいます。


「メスアール宮」は1230年~40年頃 キリスト教徒軍の侵攻に備えて、アルハンブラ宮殿に初めて造られました。



「コマーレス宮」は14世紀中頃に造られた。ナスル王朝宮殿(サナリーエス宮殿)のなかで最も重要な宮殿です。


大使の間も王座もここにあります。
その建物や中庭の池、回廊、塔などが美しく配備され歴代王朝の尊厳と優雅さを偲ばせます。


「ライオン宮」14世紀後半にナスル王朝の最盛期をなしたムハンマド5世によつて造られました。


王や王妃たちの居住空間であった。鮮やかで繊細なイスラム文化にここでも圧倒されます。
ここではハーレムの世界も繰り広げられました。


しかしアルハンブラ宮殿が栄えたのは同国滅亡までの約260年間です。


イスラム支配終焉
1492年グラナダはカスティーリャ王国のイザベル1世率いるキリスト教徒軍によって陥落し、イスラム支配終焉の地となりました。



グラナダがキリスト教徒の手に渡った後に、アルハンブラ宮殿にも「カルロス5世宮」が造られるなど一部手が加わわりました。


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アルハンブラ宮殿の入り口



「アルハンブラ教会」
以前はイスラム教のモスクがあったが、17世紀にキリスト教会が建てられました。


「カルロス5世宮」
カルロス1世(カール5世)がこの地を避暑地として選び、カルロス5世宮殿を16世紀に建設されました。
イタリア・ルネサンス様式の高さ17mの建造物で、堂々たる威厳を感じさせます。

アルハンブラ宮殿に不釣り合いな威容さがあります。



カルロス5世宮の内部
外観の正法形とは異なり内側は円形の庭園があり、その庭園をいくつもの柱が囲むような建築になっています。



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ナスル朝宮殿

「メスアール宮」
メスアールの間

メスアール宮はアルハンブラ宮殿で最古の建物で、政治や司法の中心でした。

ここは最初に通された部屋です。
壁や床のタイル装飾が素晴らしいです。



「メスアール宮」
メスアールの間 

天井も見事な装飾です。





「メスアール宮」
メスアールの間

イスラム教徒の祈祷室の壁には、美しい透かし彫りが施された小窓があります。




コマーレス宮に通じるパティオ(中庭)
美しい大理石を敷き詰めた中庭にある噴水。




「コマーレス宮」
北側のファザード(正面)


「コマーレス宮」の中心ある「アラヤーネスの中庭」と「コマレスの塔」

コマレース宮はナスル宮殿の中心部に位置し王たちが公務を行う場所でした。



「コマーレス宮」
 大使の間

中庭から見た塔の内部には高い天井と美しい装飾の空間が広がっており、
王が謁見する場所で奥に王座が置かれていました。

国王の威信、神聖を醸し出すように巧みに演出された空間だそうてす。




「コマーレス宮」
大使の間の天井



「ライオン宮」の中庭 

王や王妃たちの居住スペースでした。
ナスル朝の最盛期を成したムハンマド5世によって造られました。



「ライオン宮」

中庭に配置された噴水とそれを囲む白大理石の12頭のライオン。 
かっては水時計の役割もしていました。



「ライオン宮」

中庭を囲む124本の白大理石の列柱。





「ライオン宮」
二姉妹の間の天井
寵妃がすんでいました。 

416個という繊細な鍾乳石飾りの天井です。

八角形の天井はイスラム教の預言者が弾圧から逃れる中、その予言者を守ったといわれる洞窟と蜘蛛の巣をイメージして作られています。


「ライオン宮」 
二姉妹の間の奥にある「リンダラハの二連窓」



 
「ナスル朝宮殿」を出るとそこには庭園が広がります。
昔は家臣や住民の居住区だったそうです。


柿の木がありました。

ここでもカキというそうです。
日本に来ていた宣教師が持ち帰ったと言われています。



のどかな美しい風景です。


居住区の跡があります。


道両脇は糸杉が綺麗カットされています。




「アルカサバ要塞」の高い城壁にかけられた橋をわたるとヘネラリーフェ離宮です。

防御の塔もみえアルファンブラ宮殿が城塞都市であったとわかります。



「ヘネラリーフェ離宮」の「アセキアの中庭」 

「ヘネラリーフェ離宮」は1319年に整備された王族の夏の別荘です。



「ヘネラリーフェ離宮」
造られた噴水と水路がみえます。



ヘネラリーフェ離宮から見えるアルハンブラ宮殿



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グラナダの「アルハンブラ宮殿」はイスラム教終焉の地です。

イスラム美術の美の結晶と言われる「アルハンブラ宮殿」です。
それは際立った独特の華やかで美しさがあります。

その歴史に思いを馳せるとその儚くそして厳しさが強く印象に残っています。

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最後まで読んで頂き有難うございました。


スペイン その1(2019/11)ゴルドバ

2021-02-06 17:01:00 | 日記


2019年11月にスペインの都市ゴルドバの「メスキータ」を旅行しました。


スペイン中世の歴史が刻まれ、イスラム教とキリスト教の文化が混在する不思議な世界がありました。



「メスキータ
アンダルシア地方の古都ゴルドバの旧市街の中心に建つ大モスクです。

キリスト教徒とイスラム教徒の間で翻弄された祈りの殿堂「メスキータ」です。


「簡単な歴史」
8世紀半ばにイスラム教徒はゴルドバを支配下におきます。


それ以前のキリスト教徒の教会を改築、増築を重ねた結果10世紀後半に現在の大モスク「メスキータ」が完成しました。 


しかし13世紀にレコンキスタ(国土回復運動)のキリスト教勢力により再征服されました。


その480年間に及ぶイスラム文化の頂点を極めるゴルドバ旧市街地に建つ大モスク「メスキータ」です。


レコンキスタが終わりキリスト教王国の支配下になっても、しばらくはメスキータにはなんら手は加えられませんでした。 


16世紀 国王カルロス1世(イザベル女王の孫)の時代、メスキータの一部を壊しキリスト教の大聖堂の建立の許可を与えたのです。
その結果 イスラム教とキリスト教の文化が混在することになりました。



しかし カルロス1世は出来上がったその姿をみて「どこにでもある建築のために、世界にひとつしかない建物を壊してしまった」と嘆き怒ったとそうです。 


それ以来このモスクの改築は行われていません。そしてメスキータは往時の姿をかろうじて今にとどめています。




メスキータ(無料画像より)



メスキータへ向かう



旧市街への入口に当たるフエンテ門 
旧市街を囲む城壁の門をフェリペ2世が1571年に造り変えたもの



 
門をくぐりなかに入る



なかに入ると「トリウンフォ広場」



メスキータの南側になる外壁



少し歩くと重厚で歴史を感じさせる通りがあり、観光用の馬車もお洒落



イスラム様式の楕円の装飾やモザイク模様がみられる外壁




メスキータへの門をくぐるると、
右側はメスキートへ内部への入場口 
左側はオレンジの中庭となっている




「鐘楼」
モスクのミナレット(尖塔)として建てられた塔はキリスト教徒によって鐘がつけれら鐘楼へと姿を変えた




「礼拝の間(大ホール)」
メスキータの内部は「円柱の森」と呼ばれる円柱が林立している。
これらはイスラム文化が洗練を極めた時代を象徴



整然と並んだ円柱の森は イスラムの時代に増築に増築を重ねる
外周は約175m×135mの広がりとなり、2万5千人ものイスラム教徒を収容する規模まで達した



赤いレンガと白の石灰岩を交互に楔状に配したアーチ柱を途中で継ぎ足し2重になっているもともと1000本以上はあったという



「マクスラ」
マクスラは、ミフラーブを強調する空間。
高窓から光が差し込む高いドームになっている

10世紀半ばに礼拝堂が拡張され、メスキータの重要な部分ミフラーブが改築された




円柱だけではなく広いホールのそれぞれの天井も素晴らしい



「大礼拝堂」
左右のイスラムの円柱からもわかるように大聖堂のドームはひときわ高い
そして豪華絢爛である

しかし、大改修のゴーサインを出したカルロス5世が、出来上がった大聖堂を見て「どこにでもあるような建物(大聖堂)のために、この世で唯一のもの(モスク)を壊してしまった。」と嘆いたという。





「ローマ橋」
古代ローマ時代に築かれその後何度か再建されている。
約2000年 ここの歴史とともにあった。



「ローマ橋」
橋を渡り振り返る。


「ローマ橋」


キリスト教徒とイスラム教徒の間で翻弄された祈りの殿堂「メスキータ」。

言葉での表現では難しい美の芸術があり、そこに込められた深い祈りを感じる。


南アフリカ その12(2020/2)感動の喜望峰 (終わり)

2021-01-24 18:48:00 | 日記
6日目

「喜望峰」
喜望峰はケープタウンから50km南へ延びたケープ半島の突端にあります。アフリカ大陸の最南西端です。 

日本から遥か遠いところにある喜望峰 そこは誰にでも知られている地です。



(無料画像より)

喜望峰へと
ケープタウンから車幅の広い道路を南に走ります。

よく自転車(原付きもあるそう)で走っているグループを見かけました。

ここではケープ半島を一周する「ケープタウン・サイクルツアー」があるそうそうです。



前を走っているトラックは荷物も人も落ちそうな様子です。
日本では決して見られない光景です。



ケープ植物区保護地域という緑の美しい景色の中を走ります。
(お天気がもうひとつ)



喜望峰

世界遺産にも登録された半島を通ると突端の喜望峰に到着。

 そこは観光施設などなくシンプルな「CAPE OF GOOD HOPE」の看板が迎えてくれます。


観光客の撮影スポットとなっています。




約520年前 日本でいえば室町(戦国)時代に命がけの冒険が行われていた偉大な歴史を持つ海です。

1488年にポルトガル人のパルトロメウ・ディアスがヨーロッパ人として初めてこの地に到着します。

その10年後に有名な冒険家ヴァスコ・ダ・ガマ達がインドにたどり着く際の重要な経由地となったのがこの喜望峰です。 

これにより、ポルトガルはインドのゴアや中国のマカオを拠点に香辛料などの貿易を行い大きな利益をあげました。



海岸にたつと冷たい大西洋(右側)と暖かいインド洋(左側)の海流がぶつかっている海原がひろがつています。



喜望峰が一望できるケープポイントへ向かいます




喜望峰から車で約5分で駐車場に着きました。
駐車場からケーブルカーで頂上へ向かう途中に、だんだんと雲いきが怪しくなってきていました。


満員のケーブルカーで出発です。






途中 徒歩で登る人も見かけました。



ケープポイント
すぐにケーブルカーは終点駅に着きます。
高台には旧灯台かみえます。
そこに向かって登っているとついに雨がポツポツと降り始めました。




旧灯台まで登りながら振り返ると喜望峰の姿がぼんやりと見えました。

お天気が良ければ鮮やか風景が見えたはずですが、これも良い思い出です。


旧灯台



世界中からの観光客が訪れるのでしょう。
旧灯台の敷地にはロンドンやシドニーなどの都市までの方向と距離を示すポールがあります。
以前には「TOKYO」もあったそうです。


子どもの頃学んだ「喜望峰」まさかそこを訪れるなんて、、、時間って素晴らしい事をプレゼントしてくれるんですね。
感動と感謝でいっぱいでした。


南アフリカ その11(2020/2)テーブル•マウンテン

2021-01-16 11:41:00 | 日記
5日目午後

「テーブル • マウンテン」(テーブルマウンテン国立公園として世界遺産に登録)

ケープ半島北部にある山で標高1086メートル、頂上部はテーブルのような平坦な部分が約3kmあります。 

ケープタウンの街をツワーのバスで走っていると、どこからでも「テーブルマウンテン」が見えました。 

その独特で美しい姿も思い出です。



テーブル • マウンテンはケープタウンの象徴です。
まるで日本の富士山の様です。


ロープウェイに乗って頂上へ向かいます。
ゴンドラは内部が360度回転し、あらゆる方向の絶景を見る事ができます。

歩いて登る事もできるそうです。



頂上に近づいて行くと、その平らさがよく分かります。


頂上からはケープタウンの街、その先には大西洋が美しく見渡せます。

左手にかすかにロベン島が見えます。



地平線を遠くに青い海と青い海がとても美しく輝いています。(逆光のため残念ながら暗い)



お洒落なレストランやお土産屋もあります。
ここでお土産のTシャツを買いました。



可愛い小動物も出現






これはトカゲ

 
獲物を見つけたのかな


赤い目のハトかな


素敵な笑顔にここでもあえました
(Webに載せる許可を得てます)




 

不法移民の人々が住んでいる地域です。
彼らは安い労働力としての存在です。


不法移民の人々にために、綺麗な住宅が建築されつつありました。




南アフリカ その10(2020/2) ロベン島 - ネルソン•マンデラ氏が収監されていた収容所の見学

2021-01-08 21:39:00 | 日記
「ロベン島(世界遺産)」
ロベン島はケープタウンから約12kmの沖合のテーブル湾にあります。
別名 監獄島 と言われています。 

ネルソン•マンデラ氏
(1918 - 2013)

共和国時代の1948年にアパルトヘイト(人種隔離と差別の制度)が法制化されると、抵抗する多くの黒人活動家が政治犯として捕えられ収監された強制収容所があります。

アフリカ共和国初の黒人大統領となったネルソン・マンデラ氏も政治犯として18年間にわたり 収監されていました。

他の強制収容所の収監も合わせると27年間になります。

マンデラ氏の統合が長期化すると、南アフリカだけでなく世界中の人々が彼の釈放を求めるようになります。

国の内外の圧力に押されて、南アフリカ国民党政府はアパルトヘイトの撤廃を決断し、1990年ついにマンデラ氏は釈放されました。翌年の1991年には法律は廃止されます。

1994年に全人種による総選挙が行われ、マンデラ氏が第8代大統領に就任し、全人種の融和を推し進めます。

アパルトヘイトと闘い自由を叫び続けたマンデラ氏の言葉からは、多様な民族が存在する南アフリカという国で、国民全員(白人も非白人も)の自由を実現するための強い意志があります。



南アフリカ共和国の国旗

1994年の大統領就任演説で「異なる色が重なり輝く虹のように、多数の人種が融和する国造りを」という願いを込めて、レインボーネーション(虹の国)と言い表しました。

1994年にデザインされた南アフリカ共和国の国旗はマンデラ氏の言葉からレインボーフラッグと呼ばれています。



出発




美しい景色のなかを進みます






出発して30分程で到着です
(web公開の許可を得ています)



到着してのすぐの建物
お土産店も入っています


当時 囚人を運んだ船が展示されています


強制収容所は政府の管理下、博物館として一般公開されています



金網がはられた敷地へと


中から
外へ出るのは厳しい金網の柵があります


当時の様子の掲示板
「FREEDOM」と書かれています



強制収容所の建物



説明を受けた後
中の様子を見学


個室
この様な部屋で自由と民主主義への希望を失なわず戦ったきたという事実が信じられないくらいでした。
( 個室をもらえるのはまだ良い方との事)



中庭の様な広いスペース



ここでも説明が


当時の石割りの重労働の様子



青い空と紺碧の海に囲まれたロベン島
その歴史は厳しいものがありました


参考:wikipedia, nikkei.no, ide.go.jp