特攻おじさんの特訓の甲斐もなく、何せ時流に乗れず、一生懸命スマホをいじればいじるほど、低酸素脳症になりかけます。先程も急いでチーズを1口食べて、砂糖たっぷりのコーヒーを飲んで、終わりました。
私はやっぱり「イムジン河」を聴きながら、立派になった精神科医の「きたやまおさむ」氏の近況(講演)とかを見て、とても楽しかったです。
良~く自己分析してみたら、自分もあの時代がとても幸せだったのでしょうね。
戦後の核家族のはしりの、中流家庭でアメリカからの受け売りの民主教育を学び、子供がとにかく多かったから、あの時代の子供がそれぞれ自分に合った道かどうかは、分かりませんが、ある時は金の玉子と云われ、都会へ都会へと働きに来て、高度成長を支えたのでしょう。
大学の先輩、友人なんて、厚木か所沢とかで、ベトナムで死んだ米兵の遺体をプールに沈めるアルバイトをしてました。
革マル系のアジトとやらも、見に行った事があります。
普通のアパートの一室でした。アジ演説もよく聴きましたが「自己批判」とやら
、やたら云ってました。
そんな中ですね、浅間山荘事件や一杯殺された赤軍派の人達。今生きていたらきっとモーレツ社員して、定年して、いいおじいさんになっていたでしょうね。
今どきの人は国を憂うる学生なんて、ほとんどいませんよね。
お医者さん達も医青連とやらで、旗を振った人達も、今は立派な開業医や医学博士になっているのでしょうね。
俗に「転向」と云うやつですね。
小林多喜二の世界の物語で知るだけです。
多喜二の蟹工船で思い出しました。
私の父は北海道庁職員で、労政畑をずうっと歩み、若い時の母の言葉でしたが、小樽の遠洋漁業(さけ・ます)の会社が
女工さんに酒一本ずつがボーナスだったと云うので、行政側なのに憤慨して女工さんに付こうとした時、母が明日から食べて行けないと、心の中で叫んだそうです。父は辞めませんでしたけど、そんな労働争議の手腕を買われて、日本一の製缶会社に引き抜かれました。
さぁ、一休みしたらスマホに慣れなきぁあ。
ちなみに、孫は2歳にして会食会とかでグズりだしたら、スマホで漫画を見て遊んでます。
子守りもスマホなのですね。