結羽〜青い風にふかれて

ゆらめく心 きらめく心 うたかたの夢

お久しぶりです

2023-06-05 09:33:00 | 日記
みなさま、ご無沙汰しております。
以下長文になりますので、ちょっとなと思われる方はスルーしてください。

さて、最後にブログを更新したのが1月の終わり。
そうすると、約4ヶ月間音沙汰無しだったことになります。
あっという間だったような、長かったような…。

実は5月14日に父が亡くなりました。
大腸がんが肝臓と肺に転移し、わかったときにはステージ4の末期でした。

事の起こりは、1月5日に自宅のトイレで立ち上がれなくなったこと。
その時は、なんとか母が連れ出したものの転倒してしまい、腰を痛めてしまいました。
それでも、病院に行くことを渋る父。
8日に私が実家に行き、熱もあったため嫌がる父を強引に救急車に乗せて病院に搬送してもらいました。


検査の結果、腰は大したことがなかったのですが、このままだと失血死するというほどの貧血でした。
どこからか出血しているのでは?
その原因を探る中で見つかったのが大腸がん。
たぶん随分前からなにかしらの兆候はあったのだと思います。
もっと早く病院にいっていたら、ここまで悪くなっていなかったのではないか。
父自身が気づいていなかったのか、それとも言わなかったのか…
今となっては聞くこともできません。

入院した時点で、がんを治療することは難しく、お医者様からは「今年の桜が最後になります」と伝えられました。

治療はできない状態でしたが、大腸のがんが大きく、また変わった形をしていたので、完全に大腸を塞いでしまっていました。
そのため便が出ず、お腹に沢山溜まっていたので、便を出すための応急処置として人工肛門をつくる手術をしました。

手術は成功したものの、根本のがんが治った訳ではなく、その後も容態が落ち着いたり悪くなったりの繰り返しでした。
私たちも、いつ病院から呼び出しがあるかと心落ち着かない日々を過ごしていました。

そして、4月の中頃に誤嚥性肺炎を起こし、少し良くなったかなというところで、また誤嚥性肺炎になり、点滴だけの生活になってしまいました。
コロナで面会もままならなかったのですが、この頃に個室に変えてもらい、今までより自由に面会できるようになりました。
私もできる限り名古屋に戻り、毎日病院に通いました。
ただ、酸素マスクをつけ、日増しに痩せていく父を見るのは辛いものでした。
それでも、亡くなる1日前まで意識はあり、呼びかけにも頷いてくれていました。

父の亡くなった日は、18時ごろまで病院にいたのですが、一旦実家にもどっているあいだに容態が悪くなり、妹からの連絡でかけつけましたが、間に合いませんでした。
後1時間長く病室にいたらと、悔やまれてなりません。

父が亡くなり、体調のすぐれない母の代わりに喪主を務め、通夜、葬儀、その後の様々な手続きと慌ただしく過ごしていましたが、それもどうにか片付いてきました。

最後の支払と主治医の先生や看護師さんにお礼を伝えるため病院に向かっているとき、通い慣れたこの道を行くのも今日で最後なんだなと思うと少し寂しいような気持ちになりました。

その中で、今まで知らなかったことも多く驚くこともありました。
父の生まれてから亡くなるまでの戸籍をとったところ、10歳までは本籍が長野県にあったのです。
父は、生まれてからずっと名古屋で暮らしていたので、まさか長野に本籍があるとは思いもしませんでした。
そして、私の曽祖父の名前や彼が養子だったことも初めて知りました。
私たちは〇〇家(私の名字)だと思っていたけれど、実は〇〇家血は全く流れていなかった!
このことはたぶん父も知らなかったんじゃないかな。
びっくり!

さて、こういった公的、私的な手続きをする中で感じたのは、人が亡くなるというのは
(言い方は悪いかもしれませんが)
世の中から、その人の痕跡をひとつずつ消していくってことなんだなということです。

ただ、父との思い出は私の中にずっと残っています。
おちゃめで優しかった父。
父のかわりに庭掃除をしていると、知らない方何人もから、父を心配する声をかけていただきまた。
亡くなったことを伝えると、手を合わせたり涙ぐんでくださる方もいました。
父の人柄をあらためて知ることとなりました。

そして、私たちをとても可愛がって大切に育ててくれたんだと今更ながら強く感じています。

お父さん
最後にいてあげられなくてごめんね。
これからは、お母さんのことは私と妹にまかせてね。
心配しなくていいよ。
今までありがとね。



纏まりのない文章を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これからまた、少しずつ書いていこうと思っていますので、よろしくお願いします。