ピッピッピッピッ…
アラーム音が聞こえる。立木美奈は腕を伸ばしスマホを手に取ると、ちらりと見てそのまま枕元に伏せた。
また一日が始まる… 憂鬱な気分で布団の中に潜り込んだ美奈に、追い打ちをかけるようにまたスマホが鳴りだした。
もう、ふた月近くになる…こんな朝を迎えるようになってから…
美奈はもそもそと起き上がると、テレビのリモコンを掴みスイッチを押した。画面には、爽やかな笑顔が映し出され、一日の始まりを告げていた。美奈とは正反対の笑顔。
恭子の訃報を聞いたあの朝、他人には絶対言えないが、わずかな罪悪感を押しのけて喜びが湧き上がった。そんな自分に驚いたが、それが偽らざる気持ちだった。やっとなにもかも手に入れた…そう思うとひとりでに笑みがこぼれたのだ。
嫌な女…。美奈は洗面台へ行き、バシャバシャと勢いよく顔を洗うと、濡れたまま鏡に映る自分を見て、ため息をついた。
とても朝食を食べる気にはなれない。美奈は、グレーのチェスターコートを羽織ると足早に駅へと向かった。人混みに押されるように電車に乗り、ほぅと小さなため息をつく。開く回数の少ないほうのドア近くに立ち、目をつぶった。
「おはよう」と不意に声がかかった。びくっとして振り向くと、恭子と同期の森田薫だった。悲しげな表情をしている。薫はいつも隣の駅から乗ってくる。それを知っていたので、このところ顔を合わせないように定位置を変えていた。「おはようございます」美奈は向き直って軽く頭を下げた。
「びっくりしちゃった、立木さん、恭子にそっくりね。後ろ姿を見て恭子かと思ったわ。そんな訳、ないのにね」
薫は目を伏せると悲しげに言った。美奈には言葉がなかった。ふたりは無言のまま電車に揺られていった。
恭子と似ている。そう言われるのは今に始まったことじゃない。もともと恭子のまねをしていたんだし、以前は似ていると言われることが嬉しかった。でも今は…。
入社し研修が終わると広報に配属され、そこで初めて恭子に会った。一目見て、なんて綺麗な人なんだろうと見とれてしまった。その恭子のアシストにつくようになり、美奈は舞い上がった。恭子と一緒に仕事が出来る! それだけでテンションが上がった。恭子は綺麗なだけではなく、仕事もよく出来た。他部署からの信頼も厚かった。そんな恭子に美奈は強い憧れを持った。
恭子先輩のようになりたい。
それからだ、恭子のまねをしだしたのは。最初は文房具など些細なものだった。単純に同じものを持つことが嬉しかった。しかし、同じものを持てば持つほど心はささくれ立っていく。それを抑えるように、また、まねをする。負の連鎖。自分でもおかしいとわかっていたが、止めることが出来なかった。そして、それはさらにエスカレートしていき、やがて恭子自身になりたいと思うまでになっていった。
恭子先輩のようになりたい…恭子のようになりたい…恭子に、な・り・た・い。
強い憧れは、いつしか激しい嫉妬と妬みに変わり、美奈の心をじわじわと蝕んでいった。
そんなある朝、課長が恭子の死を告げた。
あれは事故だったんだ。恭子は誤ってベランダから落ちた。悪いのは恭子だ、私は悪くない。
頭痛に悩まされているという恭子に渡したのは、鎮痛剤ではなく合法ドラッグだった。
「これ、落ち込んだ時に飲むと気分が上がるよ」と友人がくれたクスリ。恭子にはよく効く鎮痛剤だと嘘をついた。それを飲んだのかどうかわからないが、おそらく飲んだのだろう。そして運悪くベランダから転落した。私のせいじゃない。偶然…そう偶然が重なっただけ。
なんとか午前の仕事をこなし、昼休みにトイレに入ると、ボックスの外、洗面台あたりからあけすけなおしゃべりが聞こえてきた。
「ねぇ、ここんとこ、うちの社内報って全然面白くないわね」
「ああ、なんだか編集担当が変わったらしいよ。前の人、えーっと瀬名さん?だっけ、事故で亡くなったんだって」
「へー、そうなんだ、どおりで。コラムなんかつまらなくて読む気がしないわ。楽しみにしてたのよ、あれ」
「そうそう、そういう話よく聞く!それに社内の事情とかもよくわかったのに、今はちょっとね…担当が変わっただけで随分違っちゃうのね」
美奈はぎゅっと拳を握り締め、唇を噛んだ。
その日の午後、問題の社内報の校正刷りが印刷所からメールで送られて来た。美奈はチェックにかかり、赤色で訂正箇所を書き込んで返信した。しばらくすると、印刷所から了解の連絡が入ったが、担当者の余談の言葉がさらに美奈を滅入らせた。
「それはそうと、瀬名さんお気の毒でした。早いもので四十九日も過ぎましたね。わたくし、御社とは長いお付き合いになりますが、瀬名さんほど熱心で、完璧なお仕事をなさる方はこれまでいませんでした。うちとしても、本当に残念です」
敵わない、何をやっても恭子には敵わない。所詮まねはまねでしかない。打ちのめされる思いがした。
美奈は、重い気持ちを引きずりながら家に帰ると、真っ直ぐ洗面所に向かった。蛇口をひねって水を出し、何気なく鏡を見て息が止まりそうになった。映っているのは美奈じゃない。恭子先輩?…青白い顔をした恭子。いや違う、恭子そっくりの自分。美奈は、あわてて部屋に戻りハサミを掴むと洗面所に引き返した。肩まである髪を掴み、ざくりと切った。ざく、ざく、ざく…恭子と同じストレートの美しい髪が無残に切り落とされた。
だらりと垂れた手にハサミを持ったまま、美奈はふらふらと部屋に戻り、気持ちを落ち着かせようとあのクスリを飲んだ。頭がぼんやりしてきた。立ったままゆっくり自分の部屋を眺める。部屋中、恭子の物で溢れている。アクセサリーも服も香水も…何もかも全部恭子の物! 自分の物なんてひとつもない。ここは私の部屋じゃない、恭子の部屋だ!
その時、あのピンクのバッグが目に飛び込んできた。恭子が持っているのを見て、一目で気に入ったバッグ。どうしても手に入れたいと思ったバッグ。いつものようにどこで買ったのかと尋ねた時、恭子の表情がくもったのを見逃さなかった。恭子も気に入っていたのだろう。美奈はそんな恭子を見て、なおさら欲しいと思った。そして、自分がバッグを手に入れたその夜に恭子は死んだ。美奈は急に怖くなり、バッグを掴むと床に叩きつけた。
みな…美奈…。誰かがどこかで呼ぶ声がする。こわごわ部屋中を見回すと、姿見に女が映っている。美奈は目を見張った。
それは紛れもなく恭子だった。
恭子は悲しげな顔をしてじっと美奈を見つめている。美奈は、背筋を冷たい汗が流れるのを感じ、夢中でハサミを握ると恭子の胸めがけて突き出した。ガチッと跳ね返る感触と鏡に入ったひび。恭子が一瞬、嘲笑を浮かべたように見えた。
激しい憎悪が湧き起こった。美奈は逆手に握りなおしたハサミを大きくかざすと、思いきり恭子の胸に振り下ろした。
さよなら、恭子先輩! もう付きまとわないで! 今度は柔らかな感触が伝わった。
数日後の朝、一見いつもと変わらない始業時の広報部フロア。課長がおもむろに席を立って話し始めた。
「みんな聞いてくれ、悲しい知らせがある…実は昨夜わかったことなんだが、立木美奈さんが…」
☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆
ショートストーリー「リスペクト」に頂いたコメントをヒントに、美奈目線の「リグレット」を書きました。
コメントを通じ、インスパイア(ひらめきや刺激)され次の創作に繋がったこと、とても幸せに思っています。
みなさま、ありがとうございました。