車はとても静かだった。不思議なことにエンジン音がまったくしなかった。
目隠しのせいでよく分からないが、どうやら首都高速に乗ったようだ。カーブが多い。
そのうち、無言のドライバーは一定のハイスピードですっ飛ばし始めた。東名か中央か、どちらかの高速道路だろう。
どのくらい走っただろうか。未舗装らしい道路の感触が、ゴトゴトと車体に伝わってきてしばらくすると、車は停まった。
オレは剥ぎ取るように、アイマスクを外すと車から降りた。
目に入ったのは、高くそびえる木々の連なり。一帯は広葉樹の原生林のようだった。場所は山梨か、静岡か。
道らしい道は見えない。
よく車でここまで来られたな、そう思って振り返ると、黒い大型車はいつの間にか消えていて、ただ木々がうっそうと生い茂っているだけだった。
オレは少し気味が悪くなって、ぶるっと身震いをした。
目の前には、周りの風景とはあまりにも不釣り合いな、三階建てぐらいの白い円錐形の物体が、ちょうどタケノコが生えているように直立しているのが見えた。
その建物らしきものには出口も入口も窓もなかった。
恐る恐る手を出すと、壁に触ながらのっぺりとした物体の周りをぐるりと歩いてみた。
ひやりとした金属の感触と吸い付くような感覚が皮膚に伝わり、ひとりでに手が震えた。
「へへへ……いくらお調べなっても無駄よ。出入口はここだね、ほれ」
メルドが足元に積もった落ち葉を足で掻くと、縦横50センチばかりの厚い木の板が現れた。
それを持ち上げるとぽっかりと穴が口を開けていた。やつはそこへ飛び降り、オレを見上げた。
「蓋をする前に、落ち葉をこうやって板の上に乗せろよ。そしてそっーとお閉めください。
ほら、もう出入口がどこかわからんちん。
ほらほら、今度はあなた様の番でございまーす。ここから先はおひとりで行く」
なるほど、出入り口はこの落ち葉の下に隠れているというわけか。
オレは納得し、言われたとおり穴に身体を入れ、身を乗り出した。落ち葉を板の上に搔き集めると、慎重に板を元に戻した。
穴の中は真っ暗で狭苦しかった。人ひとりがかろうじて通れる暗闇のスペースが続く。
手探りしながらしばらく行くと、穴は昇り勾配になって、かつんと指先が硬いものに当たった。
どうやら行き止まりのようだ。オレは両手に力を込めて、蓋のようなものをぐっと押し上げた。
カタン……。
エントランスは簡単に上へ開いた。縁に両手をかけて、穴から抜け出す。
そこは外観と同じ真っ白な部屋だった。
中央に、掌くらいもある赤いボタンが一つだけ設置されたデスクがあり、ほかには椅子が一脚とソファベッドがあるだけだ。
今まで嗅いだことがないような臭いが、わずかに漂っていた。
オレがあたりをキョロキョロ見回していると、どこからともなくメルドではない別の声が聞こえてきた。
こちらはえらそうな言い方の男の声だが、言葉遣いはいくらかましだ。
「あー、マイクはこれでいいのか? よし、では始めるとしよう。
えー、私はこの重大ミッションの総責任者、モードンだ。
さて、山口くん、君はなぜここに連れてこられたのか不思議に思っていることだろう。それを今から説明しよう。
目の前にボタンがあるのが分かるか? そうその赤いボタンだ。
おっとダメだ、触るな! 絶対に触ってはいかん。押すなんてもってのほかだ!
もしそれを押すと、大変なことが起こる。一瞬にしてすべてが無に帰す恐怖のボタン、危険極まりないものなのだ。
君の国、つまり日本の国全体、いや丸ごと地球をふっとばすほどの威力がある。いわゆる最終兵器だな。
だから絶対に触ってはならん!
だが、困ったことにそれを押そうとしているやつらがいるのだ。君らの言葉で言えば、宇宙人ということになる。
このとんでもない兵器を作り、密かにここの地下に埋めたのもやつらだ。
しかし幸いにも、我々はそのことに気づき、連中をたたき出して、恐怖のボタンをこの部屋に移した。
うん? なにっ? 意味が分からんだと」
モードンと名乗ったやつは大きくため息をつくと、やれやれという口調で、また話し始めた。
「だからー、とにかくこの赤いボタンが押されてはダメなのだ。押されないよう、がんばるのだ!
やつらは機会を窺ってボタンを押しに来るに違いない。君はそれを阻止するのだ。
いいか、よく聞け、赤いボタンを有効期限までの3日間、なんとしても守り抜け。それが君に与えられたミッションだ。
このミッションは、厄介な危険物を持ち込まれてしまった国の人間がやらなければならない。残念だが、我々は手出しできない。
何度も言うようだが、決して、赤いボタンを押されてはならんぞ。そんなことになれば、地球は宇宙の藻屑だ!」
モードンは、一気にまくしたてた後、取って付けたように「なにか質問は?」と問いかけてきた。
オレはそれを待っていた。
「こんな重大なミッションに、なぜオレが選ばれたんですか? 武道をやっていたわけでも、銃の使い手でもないし…
ごくごく普通の男ですよ」
「普通! それがいいんだよ。普通のやつが相手だと知ったら油断する。それが狙いなんだ。
だが、そんなことより、スーパーコンピュータが、何億というデーターの中から、君が最適だとはじき出したことこそが重要なんだよ。
君もそれを認めるべきだ。君は選ばれし者、このミッションのために生まれてきた人間なのだ!」
モードンの言葉がオレの自尊心を大いにくすぐった。選ばれし者……だってさ。
ああ、なんていい響きなんだ。
身体の奥から沸々と湧き上がる使命感。
オレにこの地球の運命がかかっている。
そう思っただけで、なんともいえない優越感と幸福感に包まれた。オレが何年も待ち焦がれていたのはこれだったんだ!
「あの、もうひとつだけ…。メルドとかいう黒づくめの人、あの人が報酬がどうとか言ってたんですが…」
「おおそうだった。肝心のことを話していなかったな。
このミッションが無事完了した暁には、君には大きな報酬を支払おう。嘘ではないぞ。
完了の瞬間、君は今まで見たこともないような素晴らしいお土産に埋まって、最高の気分で目を覚ますことになる。
君のベッドでな」
「大きな報酬、最高の気分で…」
オレはうっとりとして宙を見つめた。
だが、次の瞬間、我に返った。
「失敗したら…、失敗したら、オレはどうなるんですか?」
「地球が消滅するってときに、そんな心配したってしょうがないだろう」
「そうですね…ああ、もうこうなったら破れかぶれだ。で、一体全体何をしたらいいんでしょう?」
「何もしなくていい」
「えっ、えっ? どういうことですか」
「君のやるべきことは、赤いボタンを押されないようにする、ただそれだけだ」
「ええ、それは分かってます。で、そのために何か特殊な訓練とか武器はないんですか?」
「ない。そんなものは一切ない!
君は敵が襲来したときに、君の持てる力すべてで、赤いボタンを守るんだ。簡単だろう。分かったか?
では、間もなくカウントダウンのタイマーをセットする。ブザーが鳴ったら任務完了だ。健闘を祈る!」
それだけ言うと、モードンの声はぷつりと途絶えた。
武器も持たずに、どう戦えっていうんだ。相手は得体の知れない宇宙人なんだぞ。
オレは急に腹立たしくなって、ボタンのあるデスクを思いっきり蹴っ飛ばした。
その衝撃で机が大きく揺れた。オレは慌てて押さえた。
もしも机が倒れ、ボタンが床と接触したら…そう思っただけで冷や汗が流れた。
震える手でゆっくりと椅子を引き、そっと座った。
オレは腕を組み、目を閉じて、静かに考えた。
この建物、おいそれと侵入されることはないだろう。
だが万が一、やつらが入ってきたらどうする?
こっちは丸腰だ。武器は一切ない。
しかし、モードンはそれが狙いだと言っていた。
どういう意味なんだろう。オレを囮にして、宇宙人をおびき寄せるつもりなんじゃないか…まさか…。
いや違うな、そんなことをして、もしボタンを押されでもしたら…。
そう、モードンたちも木っ葉微塵に吹き飛んでしまう。それは余りにもリスクが大きすぎる。
では、なぜだ?
まさか、最初から宇宙人なんか攻めてこないと分かっているとか…。
だけど、それなら多額の報酬を支払う約束までして、オレをこんなところに連れて来るか?
考えろ、考えるんだ。オレには出来るはずだ。何と言っても選ばれし者なんだから。
1日目
オレは、もしもに備えて身体を鍛えることにした。
腕立て伏せ、腹筋、スクワット。その他思いつくままに身体を動かし続けた。
じっとしているのが耐えられなかったからだ。なんでもいい、何かしていないとおかしくなってしまいそうだった。
オレは一睡もせず真っ白い部屋で赤いボタンを守り続けた。
不思議なことに、眠くならないばかりか、空腹感もなく、排泄の欲求すら起きない。
部屋に入ったときにわずかに感じたあの臭い…あれは特殊な薬物かなにかだったのかもしれない。
2日目
閉鎖された白い部屋が、じわじわとオレを蝕み、正常な判断を奪っていった。
気の遠くなるような遅い時間の流れの中、オレは見えない敵の侵入を察知し、架空の戦いを挑み続けた。
それを、何度も何度も繰り返し、そのたびに勝利した。
やがて幻想と現実の境があいまいになり、時間の観念すらなくなっていった。
しかし、気分だけは高揚の極に達していた。今ならどんな敵も倒せる気がした。
3日目(最終日)
オレはいつ現れるかも知れない敵に恐れを抱くようになる。
一度恐怖が芽生えると、それはすぐに大きく育ち、あっという間に心も身体も支配していった。
波のように押し寄せる不安と絶望の中、何もする気が起きず、気力も失せ、オレは膝を抱えて、白い部屋の隅で震えていた。
自分の吐く息にすら怯え、敵が来たのかと錯覚するほどだった。
精神は極限まですり減っていた。
ついにその時が来た。
チリチリチリーン…。
なんとも可愛らしい音が鳴り始めたのだ。任務完了を告げるブザーだ。
椅子に座っていたオレは心底ほっとした。今までの緊張から解き放たれて、無事ミッションを完遂したことに安堵した。
そして、受け取るはずの報酬に胸躍らせたその瞬間、ふと赤いボタンに目が留まった。
そして、ああ、なんということだろうか、こともあろうにオレは赤いボタンを押してしまったのだ。
右の人差し指が自分の意思とは逆に、まるでスローモーションのように動いた。
あっ、まずいと思ったときには、もう手遅れだった。オレの人差し指はボタンの上にあった。
シューッという音と共に、床から白いガスが吹き出てきて、たちまち強烈な眠気がオレを襲った。
身を削る思いで守ってきたボタンなのに、自分で押してしまうなんて…なぜだ、なぜなんだ…。
薄れゆく意識の中、いとおしい恵理の笑顔と、物悲しげな永田の顔が脳裏に浮かんだ。
モニターを見つめていた、ふたつの影がぞわりと動いた。
「あーあっ、モードン様、残念! やっぱりダメかぁ。クリア寸前やったのにぃ」
メルドが、真っ黒な口を大きく開け、赤い舌をだらしなく垂らしながら、ガフガフと残念そうに叫んだ。
「いや、なかなか良かった、十分楽しませてもらったよ。山口くんはいい被検者だった。
いまごろ、ぐっすり眠り込んでいるだろう。自分のベッドでな。
我々の推測どおり、地球人は脳からの決定に逆らうことができずにボタンを押した。
これは、被験者のそれまでの経験から、ボタンは押すものだと、脳が勝手に認識しているためだ。
だから『押せ!』という命令が下ったのだ。
これで、『自由意思は幻想である』ということの証明が一歩進んだな。
地球の連中が自分の意思決定でおこなっていると思い込んでいることが、
実は『無意識下で形成された脳の科学プロセス』によるもので、そこには自分の意思など存在しない。
いや…ちょっと違うな。
正確には、脳から命令が下り実行に移すまでには、ほんのわずかな、0・2秒ばかりの隙間がある。
そこでボタンを押すなと意識できれば、踏みとどまることができ、また違う結果が出たのかも知れない」
「ひぇ…、メルドはちーんぷんかんちん。ただ地球人、おばか。それはメルドもわかる」
「そのとおり、地球人は、愚かな生き物だ。脳の作りなんて、お粗末としか言いようがない。
脳からの信号を避けることが出来ないことが致命的だ。
ましてそれを、あたかも自分の意思でおこなったと勘違いする。まったくもって下等生物だな。
これで、我々のミッションは完了だ。帰還したら、この実験結果を大々的に公表することにしよう。
さあ、早いとこ帰って、久しぶりにうまい硫黄酒でも飲むことにしようや」
モードンは上機嫌で、身体を大きく揺らしながら操縦席に座った。
スペースシップの発進ボタンを押せば、今回のミッションは成功裡に完了したも同然だ。
ところが、次の瞬間、なぜか隣の赤いボタンがモードンの目にクローズアップされた。
まるで吸い込まれるように左の触手が伸びていく。
「あっ、モードン様、だめだ! それは消滅の…」
メルドが大声で怒鳴った次の刹那、白い円錐形の宇宙船はぐらりと揺れて崩れ落ち、跡形もなく消え去ってしまった。
同じころ、遥か彼方の惑星でのちょっとした出来事。
巨大宇宙カジノの大型スクリーンにわずかな時間差で映し出されていたのは、 深い山の中に立つ白いスペースシップの画像だった。
それを固唾を飲んで見つめていた数千の群集から、大きなどよめきが起こった。
白い宇宙船は目の前で消滅してしまった。
乗組員には知らされていなかったが、今回の地球派遣の真のミッションは、単なる「地球往復、地球人に接触」ということだった。
まず間違いなく任務は完遂されるだろうとの下馬評だったが、案に相違して宇宙船自体が消え去ってしまったのだ。
「帰還失敗」に賭けた少数の者たちは、当たり券を手にガッツポーズを決め、肩を抱き合い喜びの雄叫びを上げた。
一方、「帰還成功」に賭けた大多数からは大きなブーイングが巻き起こった。
悔し紛れに引きちぎられた外れ券は、花吹雪のように宙を舞い、そして風に乗って消えた。
了
☆「ミッション」後編をお読みいただき、ありがとうございます。
まだまだ未熟者ですので、みなさまの忌憚ないご意見、ご感想をいただけるとありがたいです。
「面白くないぞ~」「意味が分からない」等々、どんなことでも構いません。
これからの創作に活かしていきたいと思いますので、どしどしお寄せ下さい。
よろしくお願いします。