聖書と共に

イエスの弟子になること

今日は、ルカの福音書14章25節以下の所から
ご紹介します。

「大勢の群衆がイエスについて来たので、
イエスは彼らの方に向いて言われた。
誰でも、父、母、妻、子、兄弟姉妹、更に自分
の命までも捨てて、私の元に来るのでなければ
私の弟子となる事は出来ない。
自分の十字架を負うて、私について来るもので
なければ、私の弟子となる事は出来ない。
…自分の財産を、ことごとく捨て切る者でなけ
れば、私の弟子となる事は出来ない。」

 「静まりと黙想の朝に」(松木祐三著)では
「主イエスに従うなら、肉親や財産を捨てよ
と言うのではない。何を私の生き方の根底に置き、最上の価値あるものとするかを問われている」と言っておられます。

私の知っているキリスト者で、財産を捨てたり
父母、兄弟姉妹を捨てた人はいません。

私の毎日読んでいる文語訳聖書では
「己が生命までも憎くまずば」とあります。
己が生命とは、自我の事であり、みことばに逆
らう傾向性です。「お言葉ですから」と聴き従
う事が大切です。それが十字架を負う事です。

 「新約聖書一日一章」(榎本保郎著)の記事を
紹介します。
イエスの回りには3種類の人間がいた。
一つは、イエスに反対する人。
次はイエスの周りでワイワイ言っていた群衆
もう一つは、弟子たちにで、最後までイエスに
従った人達である。

群衆は、ある所までは、イエスに従ったが、
苦しくなると、従うのを止めた。
私達の信仰にも、そういう傾向が多いと思う。

ふだんは熱心にイエスを愛し、神の愛を感謝し
ているが、自分の大事な事に出会うとパッと
身をかわして、自分の好きな事をしてしまう。
その人はイエスの弟子になる事も、イエスの
命をいただく事も出来ない。

イエスは私たちが、その群衆になる事を望まれ
ない。自分の十字架を負って、イエスの命に
より、新しく生き返ってほしいと言われたので
ある。

私達は、時々、これは神の言葉だと言いながら
その受け留め方になってくると、しばしば大き
な間違いを犯すことがある。
神の御霊に導かれる時、神の言葉は力を発揮す
るが、悪魔に導かれている時は、自己中心的に
なり、これほど危険なものはない。
大事なのは、誰に導かれているかである。
導き手によっては、神の言葉も凶器になりうる
事を忘れてはならない。




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