聖書と共に

律法と恵み

アンドリュー・マーレーの本に「とりなしの祈り」があります。その中の一部を紹介致します。

ある集会の後で、一人の紳士が、私の導きを求めました。その紳士の言葉は
「私はみ言葉に対して、又、祈りに対して身が入りません。私は切に、聖霊は満たされる事を望んでいますが、求めれば求めるほど、かえって遠くなる様に感じます」との問い合わせにマーレーの答は
「問題は簡単です。あなたは恵みの下にいないで
律法の下におられるからです。そのままでは、いつまでたっても、同じ事でしょう。」と答えました。
私は彼に、律法と恵みの違いや、その性質は全く相反するものである事を思い起こさせました。

律法は要求し、恵みは与えます。
律法は命令しますが少しも従う力を与えません。
恵みは約束しますが、私が行うべき事を、全部代わりにやってくれます。
律法は重荷を負わせ、意気そそうさせて、有罪の宣告を下します。
恵みは慰め、強め、そして喜ばせます。
律法は私達の自我に向かって、全力を尽くせと命じます。
恵みは、私達に代わって、全てを成就してくださるキリストを指し示します。
律法は、私達を努力と緊張に駆り立て、決して到達出来ないゴールに向かって、走れとせきたてます。
私は彼に、どの様にして第一歩を踏み出したら良いかを示しました。
それは今までの様に、すべての失敗から、もがき出ようと悪戦苦闘する事を完全に止める事です。

神が彼に教えようとしておられる、彼自身の無力と言う学課を、素直にそのまま受け入れなければ
なりません。そして、失敗と無力感のまま、全き無力の状態で神のみ前にひれ伏します。

そこにおいて、彼は次の事を学びます。
それは、恵みの助けと力なしには、この後でも決して、何もする事が出来ず、恵みだけが彼に代わって、全ての事を為して下さると言う事です。

彼は、律法と自我と、自分の努力から抜け出て
恵みの下にある新しい立場を受け取り、神に一切をやって頂かなくてはなりません。

その後、再び会った時、彼は、私が前に下した診断は正しかったと言いました。


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