聖書と共に

悲しむ者は幸い

瀬尾要造先生の「静かなる御声」から抜粋し、ご紹介します。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」        (マタイ5-4)

多くの人は、このことばを読んで意外に思うのです。それは私達が毎日、勉強したり、働いているのは、悲しむ事がない様になる為だからです。
そして、私達の生活に悲しい事が起こらない様に、口にしなくても心に思っているのです。
従って、「悲しまない者は幸いです」と言いたい所です。

アラブ地方のことわざに「日光ばかりだと砂漠になる」というのがあります。物質的に繁栄した一生を送った人には、人間にとって大切な「やさしさ」とか「思いやり」に欠けやすいものです。
いつも日光の下にいると、同情の泉は涸れてしまいます。

人間は感じやすく、傷つきやすく、時には、良心の責めにさいなまれます。過去の自分の過失や罪に泣き崩れ、思い煩いに身を灼かれます。
そして、最も洗練された人は、最も深く悲しみ
痛む人であると言えます。
ベートーベンの「第九」は、彼が音楽家の生命である聴覚を失ってから生まれました。ミルトンの
最高傑作「失楽園」「復活園」などは彼の失明後に書かれたのです。

イエスは「喜びの人」であられたが、同時に
「悲しみの人」でした。
エルサレムの町を見下ろして泣かれ、又、ラザロ
の墓前で涙を流されました。ゲッセマネの園では
血の汗を流して悲しみ、悶え苦しまれました。
十字架の上で「わが神、わが神、どうして私を
お見捨てになったのですか」と祈られました。

この様に、「悲しみの道」を通り抜けられたお方が、「悲しむ者は幸いです」と、おっしゃるのです。
キリストとの苦難と悲哀におけるコイノーニア
(親交)こそ、祝福された悲哀にです。

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