聖書と共に

ソロモンの雅歌

私は、「雅歌」をあまり好きではありませんで
した。何でメロドラマの様なものが聖書に入っ
ているのか、疑問でした。更に、ソロモン王そ
のものを好きになれませんでした。なぜなら彼
は700人の妻と300人のそばめがいたと言われ
ています。

更に、
「ソロモンが年をとった時、その妻達が彼の心
他の神々の方へ向けたので、彼の心は、父
ダビデの心とは違って、主と全く一つにには
なっていなかった。…こうして、ソロモンは主
の目の前に悪を行い…主に従い通さなかった」
           (Ⅰ列王記11ー4、6)

しかし、ソロモンの「雅歌」については、ハド
ソン・テーラー、B・F・バックストン、蔦田
二雄らの解説があり、非常に重要な書であると
言っています。蔦田二雄先生の「セキナの栄光
」より抜粋し、ご紹介します。

キリストを信じた為に平安が来たとか、満足や
喜びが来たとか、明るさ、確信いう事をよく聞き、又、書いてあるものを見るが、これらの
ものは厳密には、この神との自覚的な交友から
来るもので、それ以外からは出てこない。

そうした内的な、神との関連が、途切れたり
せず継続されるならば、その内的な霊的な事実
から、感覚の世界において、平安とか、柔和とか、謙遜とか、確信とかが、自然に湧いて来る
のである。

そうした内的な霊的経験の確かさ無しに、宗教
平安や喜びや寛大さを、求めようとすると、
それは根の無い木を砂の上に差して、そのさし
木の枝から果実を求めるに等しい。それは聖書
が教える宗教と、およそ道が違うものである。

キリストとの内的関係とか、つながりという
ものを、あまり重大視しないで、花や実、結果
を先に求めようと、あせる前に、それらが
当然、やがて出て来るべき所の基本条件である
神との和解、神との合一、神との交友、
神との調和、という部分を、絶えず吟味した
生活をして行くならば、木は自ら育ち、枝は
自らはびこり、花は自ら咲き、そこに美しい
果実は自ら出て来る。

被造物が母のひざにある子供の様に、造り主
である神の懐に抱かれて、悲しみや恐れの
不安、悲喜こもごも、情緒を交換し、あるいは
弱きを訴え、必要を訴え、上からの慰めの言葉
を頂いたり、内的な霊的な交友をもって、その
実体とする。

その点「雅歌」は、私どもの考えている信仰
とか宗教とかいうものの、大変、大切な中心的
主題を取り上げて、それを我々に教えている本
である。





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