すぐ近くにある世界:野鳥,昆虫,航空機などの写真

都市部の近隣でも身近で見られる野鳥を中心に、
捏造(餌付け、ヤラセ)のない「本当の世界」の
写真を載せています。

オオタカ飛翔●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●/これまでにも書いていることですが...

2020年11月14日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
何がどう、という画でもないながら x x x “静体”的な帆翔ではない “動体”の飛行シーン。
まぁ、 こういうのを写しても リアル世界での使い道は 殆ど無いのは カメラを構える前から すでにわかっているわけで、 そもそも こういう画を写すことを期待して やっているのではないが x x x



●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側[カテゴリー]欄の 『●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明』を参照。

- - - - - - - - - -

野鳥写真に適したシーズンを 秋冬と思っている向きも多いのかも。
でも、 これから向かっていく冬には 風景が枯れて 色鮮やかな写りにはならないもの。

それでも、 もちろん、 冬鳥 = 冬季にしか見られない種類は多いし、 春夏にも見られる留鳥でも 冬季には狙えても 夏季には期待が低いシーンなど、 写せる時に写しておかないと その写真を得られないものには、 それを狙いたいモティベーションは 高く持てる。

対して、 留鳥が ただ写っているだけでは、 解像感としては鮮明に写せたところで、 春夏に写せたのと比べれば 価値は 遥かに低い。
・・・ というか、 「○○がいた」とか 「○○を見たことがある」の証拠写真を “鳥の写真を写す”ことだと思っている向きには 目的を全て満たして 万歳で完結していても、 それとは違う意向で “鳥の写真を撮っている人”にとっては、 冬季に どれだけ多数を写していても、 春夏に一度でも写せれば、 もう 冬季に写していた意味は 実質的に消え去って、 全て 元々写していないのと同じに帰すことになるだけで、 積極的なモティベーションは 持てない季節。

なのだが・・・、 これからの時期は、 オオタカを、 うんと遠くでまで いちいち ありがたがる撮影会の集いも 目立ちがちなのが 毎年のこと。
各地のどこででも見られる留鳥を、 冬季に、 毎回 殆ど同じに ただ写っているだけで 延々と喜び続けていられる面々には、 オオタカの 何が魅力なのか・・・

オオタカも含めた 鷲鷹の類は、 飛翔写真というだけでよければ、 必要なスキルは とても低いレベルで 充分に写せる。
なので、 機材さえあれば 誰にでも写せて、 その写真の優劣には、 撮影者のスキルよりも 機材の差が そのまま表れる要素が大きい。
こういう特徴は “カワセミ写真”とも共通して、 鳥の写真を撮ることへの 自身の能力を向上させる努力をすることもなく 知識もスキルも乏しいままで、 それでいて、 最初から すぐに ご自慢するネタは得たい面々にとっては 『写せる結果を金で買える』ことで 都合が良い鳥ではあるだろうが・・・

初歩的なことだが、 飛翔写真を写すことは、 鳥の写真を写すことでの優劣と 直結する要素ではない。
“とまり”だけを写していても、 鳥の写真を撮るのが上手い人もいれば 下手な面々もいる。
飛翔写真を多数写していても、 鳥の写真を撮るのが上手い人もいれば 下手な面々もいる。

とはいえ、 鳥において 飛ぶことは特徴的な能力であり、 また、 飛翔写真も撮れるスキルが高ければ 期待できる写真のバリエーションが広がるので、 象徴的な要素として 羨望されがち。
だから、 飛翔写真を写せることが “鳥の写真を撮るのが上手い”と 思い違いをしている向きも 多いように見える。
そこから、 写真を文言に置き換えれば 「飛んでいる鳥が写っている」と表すのが 完全に違うとまでは いえないけれど... な愚作で 舞い上がってしまって・・・と なりがち。

その思い違いと 写真自体への無知、 そして 鳥には門外漢の誤ったイメージでありがたがられる種名との総合で、 豆粒ほどのケツ写真でまで 「“あの”オオタカの飛翔写真の撮影にまでも『成功』したぁ~」と 自身を祀り上げた幻想に浸っている面々同士だけでの 滑稽な集いが形成されているのが、 毎度毎度のお噺。

写した写真の自己評価の基準は それぞれ次第で 千差万別・・・ というか、 自画自賛の内容も、 その根拠として語られる ご解説も、 全てが 自称で、 世の中全体と照らした 広い観点での客観性があるとは限らない。
なので、 鳥には門外漢の同類さん同士だけでの集いの面々にとっては、 “鳥の写真を撮っている人”の感覚では 写っていたところで価値もない“ゴミ写真”にすらも 遥かに及ばないものでも 高等すぎて 想像することもできないことで、 全く稚拙すぎるものを 格別に優れたものとして ご自慢し合って 称え合うことが成立して、 優越感の幻想に浸り続けることになる。

もちろん、 それが 他者から見れば どれだけ稚拙で お恥ずかしいお姿でも、 自分の中だけ、同類さん同士だけでの内輪の中だけ、で ご満悦でいるだけなら それぞれのご自由・・・ ではあるのだが・・・

そういう面々となると、 周囲の人にとっては 写したところで あまりに無価値で 馬鹿馬鹿しすぎるから 当然に 平然とスルーしているものまで いちいち大量激写しては、 あべこべに
「他の皆が 誰も見つけられない “あの”オオタカを見つけることにまでも 『成功』した」
「他の皆が 難しすぎて カメラを構えることすら諦めてしまっているほどものものまでも 撮影に『成功』した」
と はしゃぎ合って、 ますます お幸せな幻想を広げてしまうのも 定番中の定番。
そして、 門外漢だからこその幻想でしかない優越感を駆って、 ますます 得意満面に、 ますます (自身の方が 周囲より 圧倒的に 超絶に 優れているつもりで) 周囲の皆の為に、と 使命感に燃えて、 ますます お恥ずかしいご指導の押し売りに お励みになられて 付き纏い続けて・・・、が、 どこのフィールドでも 常に多々いて、 延々と繰り返され続けている情景。

周囲に写真を見せて 「良い写真が写せて よかったですね」的な応接をしてもらえるからといって、 それは、 リアル世界では ごく当然に行なわれている 社交上の形式的な儀礼とか、 (稚拙すぎることがわかっていても) 「あなたにとっては それが良い写真なのなら、」はサイレントして 表立っては聞こえが良い文言で接してあげている “世の中の優しさ”であって、 (自身が発した文言が、 ご自慢をしている、いない、には関係なく、) 世の中とは そういうもの、というだけのこと・・・ なのだが、 何でもお幸せな面々には、 ご勝手に
「私では 一生かけても ただの一度すら 絶対に写せるはずもない、 これほどまでにも素晴らしい写真の撮影に『成功』できるなんて、 凄すぎます!!」
といった、 実際に言われた文言とは いささか違いすぎる、 そして、 極めて高い割合で 限りなく類似したお噺に化けて 聞こえてしまうものらしい。

あるいは、 稚拙すぎるご指導を押し売りして、 「そんな(無駄な|くだらない|マヌケな|etc...)ものまで 写す必要なんか ないんですよ」と クールにスルーされるのは、 これも 「それを写すのなら 誰にでも簡単にできるけれど、 その程度のものを どれだけ完璧に写せたところで 何の価値もない写真でしかないのだから、」を サイレントした応接・・・ なのだが、 これもまた、 何でもお幸せな面々には、 ご勝手に
「そんなにも 難しすぎるものを写すなんて たとえ何万回挑戦したって永久に不可能で 無駄だとわかりきっているから、 世界中の誰もが カメラを構えることすら諦めているほどものものまで 写そうとする必要なんか ないんですよ」
といった類の、 いつでも 何処でも 毎度毎度 お馴染みの 色々な定型が付け加わった ずいぶん長大な文言に化けてしまって、 あべこべに ご自身が超絶に優秀なつもりの幻想を 事実として再確認してしまう。
はたまた、 それなら サイレントせずに 「それを写すのなら 誰にでも簡単にできるけれど、 その程度のものを どれだけ完璧に写せたところで 何の価値もない写真でしかないだから、 それで良い写真を撮れているつもりでいられること以前に、 そんな くだらない 無駄なものまで 写そうとしているところから もうすでにマヌケすぎるんですよ」と 明言すれば?・・・、 また それはそれで、
「あれほどまでにも素晴らしい写真の撮影にまでも 『成功』しておられる あなたほどものお方にもなれば 簡単にできると思われるのでしょうが、 私程度の者にとっては どれだけ完璧に写せたつもりの写真でも、 あなたほどものお方には 足元にも及ばない 何の価値もない くだらない マヌケすぎる写真にしかならなくて 写そうと挑戦するのも無駄だとわかりきっているから、 カメラを構えることすら 諦めるしかないんですよ」
といった類に 化けてしまうだけの話で...

当たり前すぎることだが・・・
自身が 何かをできたからといって、 それは 「他の誰にもできないことに 『成功』した」のではない。
自身ができたことを 他の人が 誰も 自身のように大はしゃぎしていないからといって、 それは 「他の誰も 『成功』できていない」のではない。
他の人が 誰もやろうとしていないからといって、 それは 「できないから やろうとすることもできない」のではない。
自身には できるとは想像もつかないからといって、 それは 「他の誰にも できていないこと」なのではない。
自身は知らない(見ても理解できない)からといって、 それは 「存在していない」のではない。
自身が知らなかった何かを教えてもらったからといって、 それは 「他の誰も知らないことを 発見した」のではない。
自身は 自身が知っていることは全て知っている(どちらも同じものだから 当たり前 x x x)からといって、 それは 「全てを知っている」のでもなければ 「自身の理解や行動が正しい証明」でもない。
等々・・・

幼児なら、 こういうことが まだ わかっていないのは 普通のこと。
だから、 大人から見れば 他愛もないことをしては 得意げに教えてあげに来たり、 何かを教えてもらうと 得意げに 断片的な単語のいくつかを復唱して 自分が教えてあげた気になって 喜んでいたりするもの。
でも、 一般論としては、 相応の年齢になれば...といっても、 小さな子どもでも その実際が わかるようになっていくこと。

これは、 一般論としては 全く当たり前でも、 相応の年齢になるだけ... つまり 生まれてから 相応の年数が経過するだけで 無条件に得られることではなく、 誰しもが それぞれに、 幼児のうちにおいての経験・・・ 大人から見れば ありきたりな日常の諸々の中で、 気付き、学んで、 わかるようになっていくこと。
だが、 一般論からは外れている、 物理的な外見は 成長しても、 “知的面での特性”で、 そんな 小さな子どもでも わかるのが 当たり前にすぎない程度のことでも (まだ わかるようになれていない 過渡的な段階ではなく、 ずっと) 理解できるようになれない存在として お生まれになった面々もいるのも、 この世界の現実。

いわゆる 健常者なら、 小さな子どもでも、 特に教えられるものだけではない 身の回りの色々な事柄から 自然に様々な 無数の小さな学びを積み重ねて、 より “人”としての あるべき理解を備えて 成長していくもの。
だが、 それが望めない“知的面での特性”をお持ちの面々は、 目の前にある 現実のありのままは理解できず、 それでいて、 自身のご勝手で 一部の断片だけをつまみ出して、 自身のご勝手で 経緯の前後関係や 自身と相手を入れ替えたり ありもしないものも付け加えて、 自身のご勝手で ご都合良く繋ぎ合わせた 実在していないものが 見えて、聞こえてしまうことで、 その 自身のご勝手で創作した支離滅裂な妄想を 現実として理解した学びを 積み重ね続けてしまう。
これは、 思考や言動に表れるパターンが、 “お幸せな自己陶酔”だけでなく、 自身が愚行をしておいて他者の所為にするとか 元から実在しないものが そのまま無いだけが 無くなった(盗まれた)ことになるといった “被害者嗜好の実現”でも、 自身が優れていて 正しいことになっている設定から先の嗜好が違うだけで、 自身の願望にご都合が良く作った妄想世界に暮らしている 本質的な構造は 全く同じだろう。

当然ながら、 そういう“知的面での特性”をお持ちの面々が リアル世界の実際とは無関係な理解をしてしまうのは、 鳥や 写真のような 特定の要素に関してだけに限られるはずはなく、 日常の あらゆる全てで、 物理的には リアル世界にありながら、 リアル世界の実際とは違う妄想世界が 見えて、聞こえて 暮らしているもの。
そして、 年齢とは無関係に ずっと幼児然とした理解と言動のまま、 いわゆる健常者での成長とは むしろ 逆方向、 周囲への迷惑が 更に一層 拡大し続ける一途に進行する成長をしてしまう。

言動として『やっていること自体』は同じで、 実際の幼児であれば、 すぐに常識をわきまえた 普通の“人”に成長していく過程での 今だけの一時しかない 可愛らしい情景として 好意的に微笑ましく見られる振る舞いでも、 それが“知的面での特性”で、となると、 周囲は そこに隣接する状況になるだけでも 社会的なマナーやモラルにおいて 著しく神経質にならざるを得ない。
そして、 それが、 幼児や 認知症での事象とは 全く比較にならない 遥かに長期間の 何十年も ずっと続く。

(前記の繰り返しにもなるが)
そういう面々が、 いつでも例外なく 過去の実際の現実を憶えていない(実際とは違うことを言い張る)からといって、 記憶すること自体ができないのではなく、 現実とは違う妄想を 現実として理解した記憶を積み上げているもの。
また、 言動や その基になる 物事の見え方に 幼児との類似性が多く、 あるいは、 知能が幼児程度と表すことが 当てはまる部分が多くあるからといって、 幼児のように 幼児程度の知能での理解力ならあるのとは 事情が根本的に違う。

そのため、 外的に表れている言動の 断片的な要素だけしか見えていない “知的面での特性”への理解を欠いた 軽率なご親切で、 幼児も含めた“人”への接し方としてなら真っ当な 「事実を正しく述べて 丁寧に諭す」ようなことをするのは、 無駄・・・ なだけでは済まず、 より一層の 支離滅裂な理解で ご自身を祀り上げた お幸せな妄想 あるいは あべこべな被害妄想を拡げて、 より一層の 使命感や 正義感での 迷惑な言動に駆り立てさせることの助長になる。
これは、 直接的に 迷惑なことをするのは 自身ではなくても、 その親切のつもりこそが、 周囲の人であり 世の中でありへの 無責任な迷惑行為にもなる。

だから、 周囲の いわゆる健常者の殆どは、 そういう面々の言動で 多くの迷惑を被っていてもなお、 社会的通念として 周囲の方が 犠牲を強いられてまでの 配慮した対応を求められざるを得ない対象だと わかっているからこそ、 福祉的観点からの対応をしているのもの。

だからこそ、 “世の中の優しさ”に浸かって暮らしている お幸せな面々は、 ずっと お恥ずかしい言動を晒せば晒すほど ますますご満悦で...の 無限ループで、 お恥ずかしい言動を晒し続けることが お幸せでいられて、 お幸せにお恥ずかしい言動を晒し続けることに なるのだが。

鳥関連に戻って・・・

経験として、 カワセミ等の 他のどんな鳥でも同じだが、 各地で盛況な、 ありがたがられる鳥をお目当てにした撮影会で 賑やかに語り合われている 華々しい盛大な文言で飾り付けられたご自慢とご解説の内容が、 そもそも 実在しない...というか、 殆どが 多重に矛盾して実在しようがない、 幻想世界に暮らしている面々の お幸せな妄想噺でしかないことに、 例外があるとは思えない。

いわゆる健常者なら、 いわゆる(知的面での)健常者には あり得るはずがない言動をしている対象が、 いわゆる健常者では あり得ないことは、 当たり前に わかること。
妄想世界に暮らしている面々に 社交上の配慮として 形式的には その言動に沿っているかのような応接をしてあげるからといって、 そのお噺を 真に受けているのとは、 全く違うこと。
妄想世界に暮らしている面々の言動 あるいは 存在自体を そっとスルーして 話題に挙げることがないからといって、 その実際がわかっていないのとは、 全く違うこと。

お幸せな幻想世界に暮らしている面々同士だけで 得意満面に語り合われているお噺が 何の実態もないことにすら気付けずに 真に受けて 復唱し合い、 その集いでの設定に沿った評価で 称え合っていられるのでは、 それらとは別の “鳥の写真を撮っている人”とは あらゆる物事が 根本から全く違う世界が 見えて、聞こえている存在だからだろう。

ムクドリ飛翔●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●

2019年11月16日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
これも、思いっきり普通種。
今のところ、 時間を割いて向き合うまでの 画的な狙いは 思い描き難いので、 ムクドリを写すことに最適化した行動で狙うことは あまりない。
なので、 他の狙い目を想定している中での、 通り掛かった時に 写せるものは写しておく “外道”的な対応で写すのが 殆どになる x x x

とはいえ、 良い角度に 光が上手く入ってくれれば、 見た目も地味で ありきたりすぎる普通種でも、 “ありがたがられる種類”なら 条件が悪いのもお構いなしに 写っているだけで喜ぶようなのとは違う指向での 魅力がある、はず。



●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側[カテゴリー]欄の 『●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明』を参照。

イソシギ飛行|イマドキは こんな豆粒写真でも → ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●

2019年07月27日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
縮小なしの元画像サイズで この大きさにしか写っていない 豆粒写真。



もう かなりの以前から 機材が 画質も撮影機能も 飛躍的に高性能になっている近代では、 こういう状況は、 (いわゆるカワセミ写真や 鷲鷹の単純な飛翔写真ほどまで 「機材さえ買えば 最初から 誰でも同じ写真が写せる」ものではなくても、) 豪華な機材を使っていると AF任せで連写したコマを 極端な倍率にトリミングして切り出せば “いちおう写ってはいる写真”を得られてしまう。
MFフィルムカメラの時代も経験している感覚では、 「楽できる時代になった」なのか「こんな手抜きでいいのか」なのか、 何とも複雑でもあるが・・・。

そういう点では、 豪華な機材への出費は 高額でも、 明確な目的での意向が確かなら 後悔する結果になるリスクは低く、 費用対効果とか 費やした時間に対しての成果... 時間が無駄にならずに済む恩恵を考えれば、 コストパフォーマンスは良いといえる。

しかし、 当然ながら、 “機材性能に頼っただけの写真”が “機材が優れる分だけ良い結果を得られる”ことは、 「自分の能力で撮った写真」というより 「お金で写した写真」というだけの話でしかないこと、 なのだが・・・
それを、 写りの大きさには、自身が写した豆粒写真でも 『雑誌やネットで 元の写真より遥かに縮小されて載せられている “リアル世界で良い評価をされる写真”』と同じ位の画像にならできて、 画的には、ド逆光の完全ケツ写真でも『飛んでいる鳥が写っている』で一緒くた、とか、 はたまた、大多数は『鳥が写っている写真の撮影にまでも成功している』のようなレベルでの “極度に断片的すぎる要素を 極度に要約しすぎた短文”だけなら 共通の文言が当てはまり得なくもない、 というだけに舞い上がって、 自身が 『リアル世界で高く称賛されるレベルの能力(才能)がある』とか 『元々持っていたのに これまでは機会がなくて気付かずにいた 卓越した才能を発揮できる世界を見つけた』といった お幸せな幻想世界に逝ってしまう面々が 得意満面にご自慢を語っては 同類さん同士だけで 和気あいあいと称え合っている集いが 各所で無数にあってしまうが、 これは、 リアル世界での実際を知っている人にとっては、 “可笑しな”勘違い... というより、社会的なマナーとして “笑ってはいけない”配慮が求められる類の言動 x x x

●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側[カテゴリー]欄の 『●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明』を参照。

カワセミ飛行・雑誌デビューくん●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●すぐ近くにいる鳥/ありがたがられる鳥を彩る魅惑の幻想、その実際は...

2019年04月01日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
カワセミが 移動する道中で 水面近くの低空を直線的に飛ぶ姿。



移動途中の飛行シーンを狙うのは、 “とまり”からの飛び出しでは 先に被写体がいる状況があって 構図を決めて待って 「静体」的に撮れるのとは 全く違って、 被写体になる対象が ずっと全く何もない空間を見続けながら “いつ”“どのように”なるのか 予測でき難い 不意に来て 一瞬で過ぎ去ってしまう状況に 瞬発的に反応する 「動体」の撮り方になる。

カワセミは 形も色も 独特すぎて とてもとても小さくしか写っていなくても判別できることもあって、 日々 集い続けている団体行動さんが、 何十メートル、あるいは 100メートルを越えるような 遥か遥か遠く遠くを飛び去っていく後ろ姿にまで 一斉に色めきたって 連写しては、 写したコマの中を丹念に探し回らないと 何処に写っているかもわからない“僅か数ピクセルの青い点”を やっと見つけ出して 「飛んでいるカワセミの撮影に~ぃ~『成っ!!功っ!!』した~ぁ~~!!!」と 得意満面に見せ合い、その撮影スキルの優秀さを 和気あいあいと称え合っている情景も 少なからずあってしまうが・・・。

しかし、 極度に要約しすぎれば「飛んでいるカワセミを写す」の文言で表せる状況でも、 リアル世界での基準で使える画を撮るのは、 “僅か数ピクセルの青い点”を称え合うことが求められる集いの世界観とは 全く違う。
“最低限には使える画”を撮るのでも、 距離がとても近くないと 解像感がある画にならないのに加えて、 その他の、角度、光、背景、・・・色々な諸条件も良く揃う機会は なかなか無いので、 目視では見慣れていることでの“日常的な印象”ほど簡単ではないもの。

●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側[カテゴリー]欄の 『●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明』を参照。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

カワセミというと、 名前も姿も 一般の人にも広く知られていて、 自然観察・野鳥観察(バードウォッチング)・野鳥写真などで 特に素人さんには とかく ありがたがられる 注目度が高い種類。

その ありがたがられぶりは、 カワセミを ただ見られた(写せた)だけで舞い上がって、 自身が卓越した才能があるつもりの お幸せな幻想の世界に逝ってしまう面々も多々いて、 遥か昔から その『魔力』に囚われた多数が 延々と群がり続けている。

また、 何かと 自然の象徴のように扱われたり、 カワセミが生息していることを 自然が豊かな証明や 水質が良い証明のように語られたりしがち・・・、ですが、 現代でのカワセミは、 自然的な風景とは縁遠い“草木が少なく 川辺までコンクリートで固められた都市的な環境”も含めて、 殆どの地域で ごく普通にいて、とても身近な場所でも見られる鳥。

人の側での嗜好として ありがたがられる鳥なことと、その鳥を見つける(写す)難度とは、 全く別の 全く無関係な要素。
カワセミは、 捕食行動が 必ず水の中に飛び込むこと「だけ」に限定される生態から 活動する場所が絞れることや、 姿そのものを見つけるだけでなく 独特な声で気付くことも多くあるので、 カワセミを見つけるのは 鳥は多種いる中でも 格段に簡単な部類で、 ほんの初歩的な知識さえあれば 見つけられる機会は とても多い。

カワセミが活動している場所を探すことでは、 ダイビングから上がってくる時の声(フィフィフィフィフィといった感じ)や 飛行中の声(ツィーー、ツィーー、といった感じの、 ママチャリのブレーキ音に似た 金属質っぽい声)を憶えて 普段の日常の中でも意識しておくと、 身近すぎる場所にもいたことに あちこちで気付けるようになる。
なので、 これまで鳥への関心が少なかったことで 『あの』カワセミが そんな身近にいるとは思い描く機会もなかった 一般の人や 全くの素人さんは 『あの』カワセミを見られたと狂喜乱舞していても、 初心者の入り口に片足ぐらいは入ったかどうか・・・程度の ほんの僅かばかりの経験があるようになると、 いたるところ どこでも ありきたりなことにすぎないと知って、 ありがたがりぶりは、 あっという間に、あっけなく、あっさりと、 ものの見事に 大暴落するもの。

つまり、よくいる、 鳥の話題というと やたらカワセミが頻出する、 カワセミが来る場所を訊いて回っている、 カワセミのヤラセ撮影会に集っている、 カワセミがいるというだけで 逐一 色めきたって激写、 カワセミを見つける度に 逐一 得意満面に教えてあげている、 ・・・そういった類の言動は 「まだ カワセミをありがたがっていられるうちの いかにも素人さんですね」という姿で、 周囲の“鳥に関心がある人”は “温かい目で見てあげている”状態。

それを まだ気付けていない 素人さんが、 ありがたがる『あの』カワセミを見られた(写せた)高揚で 知識やスキルが優れていると 有頂天になるのも、 そのご自慢を お友達の内輪だけ かつ その時のその場だけの軽口として交わして 楽しい時間を過ごすのも ご自由なこと。
・・・ですが、 それは リアル世界にまで持ち出せる話ではないもの。

しかし・・・、 カワセミを見られた(写せた)だけのことを 野鳥観察(野鳥写真)を極めた達人を気取っての ご自慢の押し売りを 長年延々と続けている面々は、 どこのフィールドにでも いつでも 無数にいてしまう。
そして、 (殆どの時は、他の人から教えてもらった)カワセミが遥か遠くにいるだけのことまで いちいち教えてあげては、 カワセミの実際を知らない 素人さんや 通りすがりの一般の人には喜ばれたり、 お恥ずかしい言動だとわかっている人でも・・・というよりも、得意満面に わざわざお恥ずかしい言動をしてしまう『知的面の特性』への配慮が必要なお方だとわかっているからこそ、 (内心では嘲笑しながらでも)“大人のマナー”での対応として 「それはそれは よかったですねぇ」 「(そんなくだらないことまで いちいち)教えて下さってありがとう」的な 社交上の儀礼での 空虚で形式的な返礼(もしくは、それに似せたイヤミ)で応接して やり過ごしたりすることには、
「誰もが 一生に一度だけでも見られる奇跡を夢見て 血眼になってカワセミだけを探し続けていても それでも未だに誰にも見つけられない 『あの』カワセミを見つけることにまでも『成功』しているのは この私だけなのだから、 これほどにも鳥に詳しい この私が 皆のために指導してあげなければ!」
など・・・、 あるいは、 いちいち目を向ける価値もないにすぎないことに対して、 これもまた お恥ずかしいお方への“大人のマナー”での対応としての選択で (嘲笑する言動は表には出さずに)そっとスルーすることにも、
「カワセミを見つけるのは、 いる場所まで教えてあげても それでも誰も見つけることができないほどにまでも 全ての鳥の中で最も難しいことで、 そんな カワセミを見つけることにすらも『成功』したことがあるのは この私だけなのだから、 これほどまでにも あらゆる鳥の全てを知り尽くしていることに 尊敬と羨望を一身に集めている この私が 皆のために指導してあげなければ!」
「カワセミを写すのは、 誰もが 一生に一度だけでも撮りたい 究極の目標として夢見ていても たとえ何万回やっても 一度ですら画面の中に入れることなんかできるはずがないからと カメラを構えることすらも諦めてしまっているほどにまでも 鳥の写真の中でも最も難しいことで、 そんな カワセミの撮影にまでも『成功』したことがあるのは この私だけなのだから、 これほどもの究極の撮影スキルまでをも習得していることに 尊敬と羨望を一身に集めている この私が 皆のために指導してあげなければ!」
などなどなど・・・、 ますますお幸せな妄想を広げて、 ますます「鳥に詳しい」「優れた写真の撮影に『成功』している」つもりになって、 ますますご熱心な使命感に燃えて、 ますます滑稽ぶりを増したご自慢の押し売りにお励みになって、・・・の無限ループで、 延々と あべこべな優越感に浸って ご満悦でいられる。

当然、 いわゆる健常者からすれば、 そういう、 『知的面の特性』で、 あまりに稚拙すぎることすら まともにはできなくて、 それでいて、 あまりに稚拙すぎるにも満たないことをやっては、 自分ができたことは 何でも「他の誰にもできない 特別に優れたことに 自分だけが『成功』している」つもりの お幸せな妄想世界に暮らしているお方がご自由に動かれて、 妄想世界でのご自慢を得意満面に押し売りして 稚拙すぎるにすらも全く及ばないご指導にお励みになられる お恥ずかしすぎる言動に纏わりつかれてしまう状況は 迷惑で、 関わるのは難しいもの。
しかし、『知的面の特性』の同類さんとなると、 その醜態ぶりが理解できないどころか、 同様の妄想を 和気あいあいと語り合って 「鳥に詳しい」つもりの お幸せな妄想を より一層 広げ合っていってしまうもので、 その繰り返しで 『知的面の特性』の同類さんだけが続々と集って 団体行動さんが形成されていくことになる。
そして、 そうやって育て上げてしまった「鳥に詳しい」つもりのご自慢を駆って、 カワセミでも 他の鳥でも、 鳥関連で人がいるところを見つければ、 逐一割り込んで 鳥を追い散らしておきながら、
「ここは 私が先に見つけていたのを 教えてあげていた」
「私がここに来てあげたことで 鳥が来るようにしてあげた」
などなど・・・の 実在しようもない支離滅裂で意味不明な恩を押し売りして 通り掛かる人にまで逐一言い触らし、 更には 『知的面の特性』の同類さんのお仲間まで呼び寄せた 団体さんで ご立派なご指導をしてあげていると 賑やかに自賛し合って 場を仕切ってあげてしまっては、 無知すぎる行動で 鳥を追い散らして荒らし回って まともな写真は撮りようがない状況にし続けてあげてしまう惨事を 延々と繰り返すことに 日々ご熱心にお励みになり続けて・・・、というのも、 全くの日常的 かつ 恒常的に 無数に繰り返され続けている。
( もちろん、 実際は こんな穏やかな情景で済むはずはなく、 尾行、被害妄想を言い触らす、などなど・・・、 遥かに遥かに遥かに遥かに 酷すぎて、全く筆舌に堪えない。 )

それでも、 そういう、『知的面の特性』で『自身が実際に接している状況は理解できずに、 全く違う妄想世界が見えてしまう方々』は、まさに今 目の前にある実際のそのままを説明したところで 理解できるはずもない(だけでは済まず、更にお幸せな妄想を広げて 一層酷い事態を起こしてしまう)存在である以上、 リアル世界での「人」の社会的な慈善感覚では 周囲の いわゆる健常者が 無限に犠牲を払ってまでの配慮を求められるもので、 また、その面々に関してを話題にすることは 必然的に『知的面の特性』が絡んだ 社会的に著しく神経質な要素で、 全く数え切れるはずもない度々の迷惑を被り続けていてもなお 諦めるしかないのが 実情。

しかし、 一般の人や 全くの素人さんが 鳥の要素に関わる機会には、 (周囲の いわゆる健常者は 『知的面の特性』への社会的見地での配慮から 表立って触れるのは 最大限に避けざるを得ないことで “暗黙”になっている)その事情を知らないだろう。

実際のところ、 カワセミ(に限らず ありがたがられる種類)に群がっている団体行動さんや その集いに関わっていられる面々は、 まず例外なく 殆ど全て、 「初心者レベルでも稚拙すぎるから誰もやらない お恥ずかしすぎることをやっている」だけのことを あべこべに 「他の誰にもできない高等なことに『成功』している」ことにしてしまった お幸せな妄想世界に暮らしている、 『知的面の特性』で いわゆる健常者とは異なる配慮が必要な方々と思って、 得意満面に 盛大で華々しい文言で語られる ご自慢やご解説など 全てにおいて 文面の通りに真に受けることはできない言動として対応した方が良いもの。

一旦、話を戻して・・・

前記のように、 カワセミは、 初心者でも 僅かな知識さえあれば 身近すぎる場所でも 見つけられるようになる。
・・・のだが、 その結果、 住宅地近隣の用水路・・・ いわゆる“ドブ川”など、自然の豊かさも 水質の良さも 謳い難い場所でも見つけることにもなる。

つまり、 カワセミが生息することを 自然的な環境の良さと関連付けるのは 大いに疑問で、 そういうお噺を語っているのなら、 (街的な環境を知らない暮らしをしているでもない限り)初心者でも容易に知ることができる程度のことすら 知らないから、だろう。
しかし、 実際とはかけ離れていても “人の勝手な嗜好では都合が良い幻想”のお噺を 「鳥に詳しい」と喧伝して 得意満面にご解説してあげてしまうお方ほど、 一般の人や 素人さんには 喜ばれて、崇められがちで、 そのお方を仰いだ集い(探鳥会、自然観察会、鳥撮りの団体行動さん、・・・)がご盛況なのが 多々あること。

カワセミについて ほんの僅かな知識がある人なら、 そういうお方、そして そういう集いの面々には、 社交上の儀礼と割り切るとしても 実際との違和感が大きすぎるご解説を肯定するかのようにもとれ得る文言で応接するのは 避けたいもの。
しかし、 あまりにも簡単すぎることがわかっていない面々に その“知識”の滑稽ぶりを説明したところで、 もし その説明がわかるのなら そもそも元から そこに関わっているとは考え難く、 つまり 通じるはずがないことで、 関わるのは難しい。
なので、 そういう集いの面々には、なるべく関わるのを避けながら、 それでも ご解説の押し売りに来られてしまうことには、 できる“大人のマナー”での対応は そっとスルーして やり過ごすことぐらいだろう。


「鳥を見る」とか「鳥を写真に写す」のような “極度に要約しすぎた短文”で表せば 同じ文言に当てはまる行動をする部分がある全てが 同じ世界にいるのではなく、 それぞれは 自身相応の世界に暮らしているもの。
その それぞれは、 物理的には リアル世界での同じ場所で 全く同じ情景に接していても、 ある一方が見ているリアル世界の実際の情景と、もう一方が『見えてしまっている情景』は、 全く違う世界。

“郷に入っては郷に従え”という慣用句があるが、 これは、その前に どの“郷”に入るかの部分で 「自身が従うべき行いをできる郷に入れ」 とか「従えるものではない行いが求められる郷には 入らなければよいだけ」でもあるだろう。
だから、 ある一方は、そのそれぞれは 関わりもなく 関わりようもない 全く別の世界(郷)とわかっているからこそ、 自身はリアル世界の実際に即して暮らしながら、 別の妄想世界に暮らしている面々には『知的面の特性』に配慮した対応を 両立している。
そして、 もう一方は、『知的面の特性』の同類さん同士だけで集って語り合い 称え合っている妄想世界でのお噺を 優れた“知識”をご指導してあげているつもりで 得意満面に押し売りして リアル世界にまで持ち込んできてしまう。
それが リアル世界の実際でしょう x x x

ヒバリ囀り飛翔●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●春の長閑な情景のイメージ、ですが...

2019年03月16日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
ヒバリというと、 『春』に飛びながら囀るイメージが強そう。
姿はあまり知られていないかもしれませんが、 なにしろ、気象台が「ヒバリの初鳴き」を観察して発表するぐらいなので、 春の長閑な情景に“聴覚”の要素からも彩りを添える声の代表的なものの1つとして 一般の人にも 広く馴染みがある鳥でしょう。

ただ、 ヒバリが囀るのは、 『春』だけに限らず、冬の一時期以外は 殆どの季節、つまり 1年のうちのとても長い期間にわたって見られる行動でもある。

とはいえ、 冬に囀っていなかった時期があった後、 春が近くなると 囀りが目立つようになるので、 一般的な感覚では “春に囀る鳥”という印象になるでしょう。



「雲雀」と書く通りで、 広めの分類では スズメに近い種類。
姿は 全身が枯草のような色調で、 地上に降りていると 周囲に埋もれる保護色になって 見え難い。

●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側[カテゴリー]欄の 『●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明』を参照。

ツグミ飛翔●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●/渡り鳥の数と地震、関連ある???

2019年03月02日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧


この冬は ツグミも 他の渡り鳥も 数が少ない印象。
「自然」なので 年によってバラつきがあるのは 何も不思議ではないことながら、 国内位の近隣地域で“ある程度以上の規模の地震”があった後は、 東日本大震災の後が極端に少なかったのをはじめ、 たいてい 冬の渡り鳥が少ない状況が重なっている気がするのだが・・・??

●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側[カテゴリー]欄の 『●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明』を参照。

モズ飛翔/●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●

2018年12月22日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧


モズは 小鳥などの小動物を捕食することもあるので、 “獰猛な鳥”の意の「猛禽」と呼べる種類。
でも、 一般的に、 似た言い方の「猛禽類」は 指す範疇が違うので、 モズの類は 「猛禽」ではあっても 「猛禽類」には含まれない扱いだろう。

モズの飛翔写真を撮ることでは、 ヒヨドリなど小さめの鳥の多くと同じように 間欠的に羽ばたいて波型に飛ぶことが殆どなので、 豆粒のようにしか写らないスケールでなら 撮影視野内に捉えて追うのは簡単でも、 より解像感のある撮影倍率になるほど 動きを追うのが難しくなる。
また、 羽ばたいているタイミングが少ないので、 多くのコマ数を撮っても 翼が開いていない画ばかりに終わることも多く、 角度や形の良い画は なかなか得難い。

●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側[カテゴリー]欄の 『●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明』を参照。

カワセミ|雑誌デビューくん[8]/●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●

2018年05月26日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
同じコマの、 トリミングの広さ違い。
どちらも、 縮小して 他と同じ 長辺856px に統一しています。





●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側「カテゴリー」欄の 「●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明」を参照。

カワセミ飛翔/雑誌デビューくん[1]/●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●

2018年03月17日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
このカワセミは、 雑誌に掲載されたフォトコンテストでの入選作品で 被写体になっていたことがあるので、 いわば“雑誌デビュー”した個体。



●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側「カテゴリー」欄の 「●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明」を参照。

続:ヒヨドリ飛翔/飛びもの撮影スキルアップへのパートナー/●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●

2018年02月25日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
波型に飛ぶ鳥が飛翔する姿は、 砂粒ほどに写しただけで喜んでいられるのなら簡単でも、 高い解像感がある撮影倍率で捉えるには、 周囲に余る空間が少ない狭い視界で 直線的に飛ぶ鳥の実質1次元に近い“1.1次元”的な単純な動線よりは複雑に変化する “1.5次元”的な動きを追尾できなければいけないので、より難しい課題。

まあ、 波型になるタイミングも方向も規則性があるので、 「鳥の写真」の世界には 飛び回っているツバメが虫を見付けて翻って捕らえるような 予測困難なタイミングで瞬間的に“3次元”で動きを変えるシーンを追うといった 上には上の遥か上がある「鳥の写真」全体の世界観での位置付けでは、さほど難しい部類ではないが。

波型に飛ぶ鳥の飛翔では、 長々と連写し続けてもあまり羽ばたきに当たらないので 羽ばたくタイミングを予測してシャッターを切る、等々、 直線的に飛ぶ鳥でも より高いレベルの画を捉えられるようになることにも繋がる 鳥の飛翔写真の撮影スキルアップができる「練習」に向いた要素が多い。
と、デジタルの気安さで ついシャッターを切っていると、 使い道が乏しいそっくりなコマが たくさん積み上がっていくことになるのだが x x x



●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側「カテゴリー」欄の 「●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明」を参照。

ヒヨドリ飛翔/波型に飛ぶ鳥/●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●

2018年02月20日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
「ヒヨドリ」が「飛んでいる」写真というと、 餌付けでのヤラセで作られた「捏造された生態写真」が たくさん出回っているが、 もちろん、そういうのとは全く違う、リアル世界の自然な状況を撮った 真っ当な写真。

鳥の飛び方のパターンの1つ、 上下に波打った軌道で飛ぶ。

短時間に数回羽ばたいた時に上昇し、間欠的に羽ばたく間の時間は 惰性で進みながら 翼を完全に閉じて放物線のように落下してくるのを繰り返していることで、 軌道が波型になる。

波型の飛び方は、 セキレイやキツツキ類など あまり大きくない鳥の多くが使う。
エネルギー効率的には 直接的に飛ぶより無駄が多そうに見えるが、 不規則に動くことで 外敵が狙い難くかったり、 不意に襲われても 攻撃が外れてくれる確率が上がる効果がありそうに思える。



●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側「カテゴリー」欄の 「●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明」を参照。

続:ツグミ飛翔/撮影スキル的には/●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●

2018年02月06日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
鳥の飛翔写真は、 ネット世界でなら 砂粒写真でも さもそれらしく見せることもできてしまうが、 リアル世界での鑑賞写真に使える解像感がある撮影倍率で 画的に良い形を 良い光で捉えられるのは、 どこにでもいる鳥だからといって どこででも撮れるとはいかない。

また、鳥は全般的に、 大きい鳥と小さい鳥を「画面内で同じ大きさに写る状態」で比べると、 小さい鳥の方が 相対的に速く飛ぶものが多く、 見つけて画面内に捉えることや 動きを追うのが 難しくなりがち。

ツグミはあまり大きくない鳥だが 飛び方が かなり直線的なので、 鳥の飛翔写真では それほど難しい部類ではない、・・・が、 ワシタカやヤマカワの集いで多々続けられている 優れた撮影テクニックと称する ご自慢の“初心者でも最初から写せる豆粒写真”をご指導してあげてしまっている面々には、 この程度でも 厳しい被写体なのでは。



ほぼ真横から。
3次元的な立体感には欠ける代わりに、 独特の造形感がある角度だと思う。

●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側「カテゴリー」欄の 「●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明」を参照。

ツグミ飛翔/特段ありがたがられもしない普通種ですが/●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●

2018年02月03日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
たくさん渡来して 普通にいる冬鳥。
個体ごとの色の違いが大きい傾向がある種類。

ツグミも含めて、飛ぶ行動が ほぼ移動目的だけの種類では、 狙える飛翔写真は どの種類でも見られる標準的な形が殆どになって、 特徴的な画柄には なり難い。



●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側「カテゴリー」欄の 「●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明」を参照。

続:ハイタカ飛翔/鷲鷹の飛翔の撮影スキル理解/●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●

2018年01月30日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
野鳥に特には興味がない人が思い描く「鷹」のイメージは??

「鷹を見られる場所」というと、 雄大な自然の風景をイメージするのかもしれないが、 ハイタカの類は 大阪市内の主要ターミナル駅近辺の上空を飛んでいるのも見る位で、 大自然から大都会まで たいていどこででも見られる、たいていどこででも身近にいる鳥。
見たことがない人は、 視界に入っていたという意味では見たことがあったとしても、 興味がないとか 判別できる知識がなくて カラスなどと一緒くたになっているだけ。

また、 鳥などを狩る獰猛な生態から 飛ぶのが速いイメージがあるかもしれないが、 速いのは、そう頻繁には見られない 獲物を狙った時だけで、 見かけるシーンの殆どでは とてもゆっくり飛ぶ鳥。
はばたきを殆どせずに 翼を広げたまま輪(円)を描くようにゆっくり旋回しながら滞空し続ける「帆翔」は、 彼らにとっては獲物を探す攻撃的な行動なのだろうが、 傍から見ると とてものんびりした、のどかな風景。

なので、 鷹が飛んでいるだけの飛翔写真を写すのなら 「機材操作の技術的には」初心者にも 難しいことではない。(当然、鷲でも同じ)
もちろん“知識的な面での技術”も必要だが、 同じ状況にいれば、 撮れる写真の結果に出る差は、 撮影者のスキルの優劣よりも 機材の差がほぼそのまま表れる。

鷹を撮ることで「なかなか撮れない」みたいな言い方をすることがあるのは、 「高解像で、光の入り方や背景、体の向きや動きの形、など、 全てが良く揃った写真は なかなか撮れない」とか、 「狩りの瞬間の躍動的な姿を見事に捉えた写真は なかなか撮れない」という意味。

これを取り違えているのか、 あまりにも初歩的すぎることすら知らない面々が 毎日毎日大砲レンズをずらっと並べて、 “砂粒ほどに小さく写るだけの ド逆光かつ曇天背景で 飛び去って行く後ろ姿”にまで逐一色めきたって 一斉に連写しては、 鳥の写真への ほんの微々たる理解がある人なら “NG要素満載では馬鹿馬鹿しすぎるから撮らない”ことが解らずに 「他の皆がカメラを構えることすら諦めてしまっているほどにまでも難しい 飛んでる鷹の撮影にさえも『成功』したぁ!!!」などと 自身の撮影技術が優秀だと思って自慢し合い はしゃぎ合っている集いが 各地で多々開催され続けているのは 滑稽な話 x x x



前記事の後コマ。

●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側「カテゴリー」欄の 「●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明」を参照。

ハイタカ飛翔/●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●

2018年01月27日 | ●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●● 写真の一覧
ページトップ(カバー画像)の写真。

太陽は上から照らしているので、 上空を飛ぶ鳥を写すと 翼の下面が陰になることが多いですが、 この画では 両翼のかなり広い範囲に 光が入っています。



オオタカ・ハイタカ・ツミの ハイタカ属3種は 形状がそっくりで、 色には個体差がある。
現場では 「大きさ」の情報を含めて判別できていても、 その記憶がなくなった後になって写真だけを見ても 判別が難しくなるので、 間違ってる可能性も 無きにしもあらず・・・。

●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側「カテゴリー」欄の 「●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明」を参照。

リアル世界(現実世界)に ちゃんと実在している本来の情景のままを写した、 “人の勝手な嗜好に合うように状況を作為的に改変して創作された虚構”のない 絶対非演出スナップです。

野鳥写真:大空を自在に翔ける飛翔写真 = 鳥の行動で「最も鳥らしい特徴が表れた魅力」とも言える 飛ぶ姿を中心に、 カワセミ(翡翠),オオタカなど猛禽類(鷹)といった人気の種類から バードウォッチングで“ものさし鳥”にも使われる普通種まで 幅広く。 多くは ネイチャーフォト系や動物写真系のフォトコンテストでの入選・入賞が出ている場所でのものです。 (撮影地は記載しません)
他に、 昆虫写真や ネコ写真(野良ねこ写真)、 航空機 など...
.