第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。(12)
5カ月間で災いは殺さずに過ぎ去った。裁きに期間が決められていることは憐みであり、悔い改めるために用意された時である。此処で静まり神に立ち返るなら救われる。
しかし、災害の後は「なぜ、神は」と訴える者はいても、恐れて御前にひれ伏す者はほとんどいない。悔い改めることが出来る人は、神に選ばれていた人である。
人はうなじの強(こわ)いもの。人や物に対してひれ伏しても、神にひれ伏すことが出来ない。
普段は大して仲良くしていたわけでなくても、こういう時は感情によって結ばれ神に立ち向かう。それは今後の自分に対して保険をかけるようなものであって、信頼出来る守りを持っていない世の遣り繰りから出たことである。
第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。
その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。(13~15)
神はすべてに、初めから時を定めておられる。なぜなら、世の初めから永遠を見通しておられるからである。
騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。
私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。(16~17)
これらのものが、ヨハネの表現通りではないと誰が言えるだろう。ヨハネだけが見たのである。神にはどんなことでも出来ることと、良いものでも邪悪なものでも、それらを用いることが出来る。
これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。(18~19)
すでに6章8節で4分の1が死んでいる。此処でまた残りの3分の1が悲惨な状態で殺されて、地上の人口は半分になっている。
やはり黙示録に触れることはしんどい・・、永遠の祝福である新天新地への、通過点と知っていてもとても気が重い。しかし、私は彼らのために血を流してはいない。
十字架で聖い血潮を、彼らのためにも流されたキリストの痛みはどれほどであろう・・。
これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。(20~21)
造り主なる神に立ち返ることをせず、人々は自分たちが作った神々に、それぞれ自分の思いのままに願いを叶えさせようとすることを止めなかった。
救いようがなく、永遠の刑罰に至る罪は、造り主なる神の否定である。