私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。(3~4)
テモテの涙は、イエス・キリストを知った喜びの涙だろう・・。だから、パウロも喜びに満たされるのだ。主を喜ぶ喜びはその信仰を導いてくれた人に返るから。
信仰の喜びは回りに居る人に溢れて行くが、不信仰は回りの人を滅びに引きづり混む。
私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。(5)
いいなあ、聖書にはっきりと信仰の伝承が書かれているのは・・、此処にキリスト者の望みがある。
信仰を家族に伝えることは人間的には至難である。家族はその人の信仰の本質を日夜目の前で見せられて、それを学んでしまうからである。完全な信仰など誰も持っていない。
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(9~10)
テモテにはロイスからユニケを通して、創造の昔に神の計画によって備えられたことであり、それは神より発したことなのだ。此処に絶対の信頼がある。人間的な頑張りや取り繕いで伝えることではなく、キリストの福音の完成によることだった。
そのテモテも、パウロの投獄は気落ちさせることであった。信仰は聖霊の導きにしっかりと繋がっていないと、気落ちさせる情報は絶え間なく押し寄せる。この世はサタンの支配下にあるから。日々飛び来る火矢は信仰の大盾で消す必要があるのだ。
それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(6~7)
それは臆病になると退けてしまうものなのだ。土に埋めてしまうのだ。賜り物の管理が私たちの信仰である。
神が与えてくださった、聖霊によって働く力と、キリストの愛。私たちが神に信頼して働く慎みの霊は、自分の判断を神の計画の上に置かない慎みである。
そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。(12)
パウロの今一番の苦しみは、テモテに直接会って力付けられないことであり、宣教の自由が奪われている苦痛であっただろう。
なぜ、このようなことが神の許しの中にあるのか、という苛立ちもあっただろう。彼が恥と思わないことは、その理不尽な牢に従順することである。
そのような中での、パウロの告白は「私のよく知っている方が、弟子たちを守って事を成し遂げさせてくださる」という神への信頼であり、神から出た計画は、神が完成させてくださるという確信である。
信仰の結末は誰でも、主にお任せして完成するものだからである。
あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。
そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。(13~14)
私たちの内に宿る聖霊は、キリスト者を一つのキリストのからだとして建て上げ、それぞれの働きを導いていて完成させてくださる、キリストのからだの各器官としての働きである。
キリスト者は、たまわった役割を聖霊の助けによって守る者である。