石ころ

「真理であって偽りではない」




 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」(ヨハネ7:14~15)


 今朝このみことばを読んだとき「あっ、イエスさまと一緒だった!」と嬉しくなった。
まったく正規には習っていなくても、みことばは日々教わっているし、それによって理解することも話すことも出来るではないか・・このことが語られているのだと嬉しかったのだ。

人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。(マタイ10:19)

人から受ける学問は乳としての働きはあるが、パリサイ人や律法学者が多くの学問を積んでいたにも関わらず、ニコデモでさえイエスさまの言葉を理解することはなかったのだ。
みことばは人の学問で悟ることではないのだ。


 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)


生ける水、私たちの内におられる聖霊によって解き明かされるみことばだけが、天の知識を与えることができる。
聖霊は私たちの内に蓄えたみことばを解き明かし、イエスさまを教えて御父のみこころに導いてくださるからである。
だから今私たちは内住の聖霊に拠って、イエスさまのようにみことばを話すことができるのだ。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)

「真理であって偽りではありません」とわざわ付け足されている。開かれる言葉を信仰によって受け、いのちを預けるようにして語るのである。

自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネ7:18

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