その祭司(イエス・キリスト)は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。
この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」(16~17)
イエスさまは罪の無い御からだをもって、人の罪をあがなうための捧げものとなられ、十字架で死んで、墓に葬られ、三日目によみがえられた。神さまの御計画を完了されたイエスさまを、神さまは御計画の通りによみがえらせられたからである。今、イエスさまは永遠の大祭司として、キリスト者を執り成していてくださるのだ。
キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(24~25)
救われた者は罪から解放されて、神さまから責められることのない日々をみことばに聴き入り、たまわった恵みを反芻し味わっている。
キリスト者の特権がどれほどのものであるかを、嬉しくて毎日毎日聴き入り、それの喜びが内に充満したとき、外に向かって伝えずには居れなくなるのだ。
みことばはキリスト者の主食である。誰にも食事は喜びであり、飢えて待ち望むものであって、食べるだけで力を得て弱った体も心も元気を得る。
食卓は考える場ではなく、無条件に旨味を味わう楽しい場所であり、満足するとリラックスするのである。その時食物は、神さまが造られた仕組みによって消化され、食べたものが身につくのである。
人は食事を取れば成長するものであって、何を食べたかは口に含んで噛みしめて知り、そのいのちの祝福に深い感謝を覚えるのである。
私たちにみことばを準備してくださった主は、みことばをどんどん食べて成長する姿を見て、より深い味わいの堅い食物を備えてくださり、ご計画を進めるために鍛え、試練にも耐える備えをしてくださるのである。