石ころ

試練の中で鍛えられる(出エジプト1章)

                       

 ヤコブの腰から生まれ出た者の総数は七十名であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。
それから、ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。
イスラエルの子らは多くの子を生んで、群れ広がり、増えて非常に強くなった。こうしてその地は彼らで満ちた。(5~7)

 

イスラエルの「彼らが地のただ中で豊かに増えますように。」との祈りは、みこころであったので彼の子らは増え広がってエジプトの地に満ちた。

 

やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。
さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」(8~10)

 

奴隷として扱い「この地から出さない」という王の圧力は、イスラエルの民のエジプト脱出の始まりとなる。王は彼らを虐げて、イスラエルの民から力を削ぐことによって支配しようとした。

 

しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。
それでエジプト人は、イスラエルの子らに過酷な労働を課し、
漆喰やれんが作りの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、彼らに課す過酷なすべての労働で、彼らの生活を苦しいものにした。(12~14)

 

イスラエルの民は過酷な労働が課せられても、弱り果てて力が尽きることはなく、王の虐待は逆に彼らを強くして行った。

 

 私はこの箇所を試練の度に思い出して力を得た。今もキリストの庇護に在る者は試練によっても鍛えられるのである。神の守りとはそういうものである。

 

正当に扱われることがなく、軽んじられたり意地悪をされ、また、責め訴えられ追い詰められることがあっても、状況の如何にはよらず、神の子たちには、決して奪い去られることのない望みがあり、心も体も日々に新しい力が満たされて弱り果てることはないのだ。

それは、全能の神が彼らのバックボーンだからである。

 

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(1コリント10:13)

 

試練は力を増し加え、知恵を与えて、キリストの甘さを経験させてくださる時となる。すべては良き方の愛より出たことであり、どんな時も、主は信頼する者の味方である。このことを知っているなら、試練の中の自分をキリストの眼差しで見ることができる。

 

悪戦苦闘している自分のいじらしい姿に、励ましや慰めの言葉が、うちに居られるキリストの心から出て来る。「だいじょうぶ、大丈夫。よくやった。」そんな言葉に安らいで肩の力が抜け、主に目をあげるとき、すべてを癒やす平安が広がって行くのだ。

 

 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。(Ⅱコリント8:12)

 

みことばの希望がある時の試練は力になる。キリストを知らないゆえに試練の中で弱り果ててしまうのである。キリスト者の試練は望みと共にある。苦しみの時も霊は神の交わりに在り、心身は苦痛を負っていても、霊においてハラハラと見守ってくださっている主の甘さを味わている。

 

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(1ペテロ1:7)

 

試練の無い信仰は、キリストのあがないをどのように経験することができるのだろう・・。目に涙をためずに死ぬなら、神が頬を拭ってくださる甘さを味わうことはないのだ。

 

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(1ペテロ3:18)

 

 あらゆる苦しみの中で最も恐ろしいものは、死後のさばきに拠る終わりのない苦しみである。救いは命のある間に選ばなければならないことであり、死んでしまっては取り換えしが付かないのである。

 

彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。(黙示録20:10)

 

それは、命の在る間に選択することである。神の御子のあがないを拒絶する者は、苦しみを永遠に受け続けることになるが、キリストの御救いに与るなら、価なく永遠のいのちと慰めを受けることになる。

 

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4)


           
神が「わたしの愛する子」と言われるひとり子イエスを、地に遣わして無実の十字架にかけ、人の罪をあがなってくださったのはこの救いのためである。


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