石ころ

聖なる者(Ⅰペテロ1章)

 

この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。
彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。(10~11)

 

預言者たちがうちにおられるキリストの御霊から伝えられたことは、キリストのよみがえりによりもたらされる栄光が、イエスに逆らったユダヤ人のためであり、また創造主を知ることもなかった異邦人のためでもあり、この福音を聴いたすべての人たちのためであることを知ったのだ。

 

彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。(12)

 

キリストは再び来られる。天使たちもその日を見たくて待ち望んでいる。
それは教会の携挙から始まり、その後に起こるキリストの再臨である。真のキリスト者をキリストは空中から引き上げて、天に迎えてくださる携挙である。それによって、キリストを信じた者はこの後に起こる地上での苦難から守られる。

 

携挙ののち地上に起こる数々の苦難に付いては、黙示録に詳しく書かれている。
世界の至る所で多くの人々が死んでゆくようになり、その後にキリストが再臨され、神に逆らう悪が裁かれ、のちにすべてが新しくなるである。天使が見たいのはその新しい天と新しい地であろう。

 

ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(13)

 

その恵みと裁きは、人類が歴史上一度も経験をしたことが無く、時が来てしまえばやり直すことが出来ないことゆえに、命のある間にイエス・キリストに心を開いて、語り伝えられているみことばに聴き耳を立て、心を注ぎ出して幼子のような素直さでいのちを求める時である。

 

従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、
むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。(14~15)

 

自分たちの計画や誇りによって神を侮り、頑なにキリストを悟らなかった民にも、自分たちの行いによる清さではなく、キリストの十字架の血潮に洗われた完全な聖さ、御霊によって生まれる聖さの中で生きて、神の御前に身を慎み心を砕かれていのちを得よと勧めている。

 

「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。
また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。(16~17)

 

キリストによって新しく生まれた者は、キリストの霊を宿す生きる宮であり聖なる者である。その人はキリストの喜ばれることを喜び、キリストの悲しまれることを悲しみ、キリストの嫌われるものを嫌う者である。

 

偶像の宮は人の努力によって清さを保つものであるが、聖霊の宮は人のうちに住まわれたキリストの御霊が、人を新しく造り変えてご自身に似たものと聖めてくださるのである。それはうちなるキリストの現れである。

 

ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(18~19)

 

救いのすべてはたまわりものであり、その永遠の価値と比べる時、金さえもすぐに朽ちてしまうものに過ぎず、永遠の救いを買い取るに相応しいものなど存在しないのである。

 

キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。(20)

 

まことに今は恵みの日である。これほどキリストを知るのに準備された時代があったろうか・・。聖書は世界の言葉に翻訳され、あらゆる時代にベストセラーとして世に備えられている。
今はあらゆるツールを通して、目でも耳でも文字でも映像でも、キリストを知るための備えが準備されている。

 

それは終わりの時代のしるしであり、時が迫っているのである。
誰も「創造主なる神、救い主なるイエスのことは知らなかった」とは言えないように備えられたのである。今残されている命の時間は、永遠の滅びからキリストに身を避けるために、神が忍耐して待って下さっている時なのである。

 

あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。(21)

 

ユダヤ人も異邦人も、ただ、キリストがすべての罪を十字架で負って死に、墓に葬られ、黄泉にまで下り、三日目によみがえられたことを信じることによって救われるのである。
その人は信仰によって、罪がイエスと共に死刑として罰せられ、死んで葬られ、罪無き者として新しく生まれたことを現しているからである。

 

死刑以上に重い罰は無いので、このことによって過去、現在、未来のすべての罪が、神の御前に一事不再理として解決されている。
しかし、人は日々幾らかの罪悪感を抱いて生きている。そんな私たちを、キリストは神の御座において、父なる神に執り成し弁護していてくださる。

 

キリストはよみがえって弟子に現れたとき「平安があるように」と繰り返し言われた。今もキリスト者に「平安があるように」と、すべてに弁護していてくださる。

私たちの信仰は、みことばを聖霊の助けによって生きつつ、希望と平安に守られて「主よ来てください」と神のご計画が完成される日を待ち望んでいる。聖なる者とはみこころの完成を待ち望む者である。


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