石ころ

信仰の友(ルカ5章)




ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。
するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。(ルカ5:17~19)


つり下ろされた病人とは、自分のことであったと気付かされた。教会に誘われたのは出来る限りのことをやり尽くし、刀折れ矢尽きた時だった。本当に中風のように身動きできなくなっていた時だった。

クリスチャンによってイエスさまの前に運ばれ、イエスさま触れられて真っ新ないのちの望みをたまわった。
それからもずっ~と多くの方に、みことばを通してイエスさまに新しく出会わせて頂いている。あらゆる方法で、イエスさまに運ばれるみことばの世界があることは、本当になんと幸いな時だろう。彼らの信仰とは運んでくださった方の信仰である。

彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。

『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。

すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た」と言った。(ルカ5:20~26)


御わざに驚いて神を崇めた人々の中に、イエスさまにつぶやいた宗教者は居たのだろうか。彼らの救いのためになされたデモンストレーションなのに・・。
病に行き詰まることは幸いである。世に行き詰まることは主の招きの時である。罪に悩むことはチャンスだ。
イエスさまは病人や罪人を招いて今も待っていてくださる。そうしてたまわる永遠のいのちの希望であり、世で生きる時の助けは平安と知恵や力である。それは弱さの中でたまわるものなのだ。

丈夫な者は訴えるために理屈を言いイエスさまを必要とはしない。正しいという者の罪をあがなうこと、丈夫という者を癒すことは神さまにもできない。
罪を知ることは主の忍耐の中にあり、行き詰まることを待って招かれる。病人には御前につり下ろしてくださる時を備えてくださっている。

そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31~32)


イエスさまの御前では、罪について何の言い訳も必要ないことを知った。初めからすべてをご存じの、完全なあがないを知ったからである。
罪の告白は御前に居ることである。姦淫の女のようにただ御前に裁きを待っていることである。

主が思い出さないことは私も思い出す必要は無い。ただ、信仰の友となってくださった方の愛だけが確かに残っている。天にも続く永遠の愛である。今はたとえ離れていても、私は自分の元気の中にいつも受けた助けを見ている。

なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」(ヘブル8:12)


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