第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。
その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。(1~2)
この星は神の意思をもって落ちた。災いの扉を開くかぎが与えられていた。
この地上の世の終わりには、今のような透明感のある光は失われ、どんどん暗くなって行くのだろう。
第五の御使いのラッパが吹かれたら、直接人へのさばきが始まる。
その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。(3)
イナゴは神の裁きの道具として、旧約聖書で度々用いられている。しかし、その時も神は守るべき民は守られた。
主はモーセに仰せられた。「あなたの手をエジプトの地の上に差し伸ばせ。いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の残したすべてのものを食い尽くすようにせよ。」(出エジプト10:12)
わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は仰せられる──(マラキ書3:11)
今もアフリカをイナゴの大群が襲っているというが、黙示録のイナゴはそれらとはまるで違っている。
それは食性もまるで違い種のために生きるものではなく、神の裁きのためにだけ存在しているものである。
そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。(4)
彼らにその力を与えたのは神である。彼らは神の命令によって働く。サタンも悪霊も神の許しが無ければ何もできない。
神のものに手を出すことはできない。それらは神の命令によって、額に神の印を押されている者は襲わない。
私たちはそれらの力を恐れる必要はなく、唯一の創造主なる神を恐れるのである。
しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。
その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。(5~6)
命を支配しておられるのは神である。雀の一羽さえも神に知られずに、地に落ちることはないとある。
生きることも死ぬことも神の許しの中にあり、死後も無にはならず神の支配にある。それゆえ創造主なる神を恐れるべきである。
そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。
また女の髪のような毛があり、歯は、獅子の歯のようであった。
また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。
そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。(7~10)
これらの姿を目にしたヨハネがこのように表現したのだ。地でこれらを見ることは恐ろしいことである。
額に神の印を押された14万4000人のユダヤ人は、此処に生きて宣教のための使命を果たしていた。
彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。(11)
彼らの王はサタンであるが、今、それらは神の命じることを行い神の支配下にある。
神の子は神によって守られている。神はいかなる時もご真実なお方である。
「ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加える」とあり、神の印を押されていない者はこの苦痛の中に在るのなら、神の守りにある教会は此処には存在せず、すでに携挙されているということになる。