石ころ

今日生きるための平安(1ペテロ1:3~9)

 

 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。(3)

 

神の憐みは復活のキリストによって、信じる者をまったく新しくして永遠の望みに満たしてくださった。
その望みは死で終わるようなものではなく、いかなる迫害も奪うことのできない、キリストの信仰による望みであり、喜びと平安を持って神の御名をあがめる賛美は絶えない。

 

また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。(4)

 

生きているものにとって、死はすべてを奪いさる最大の弱点であり、生まれた瞬間から負わされる運命である。
神はそのようには人を造られなかった。始めの人アダムがみことばに従わなかったことから負った運命である。

 

しかし神は、愛するひとりの御子イエスの十字架によって、背きの罪を赦す道を備えてくださった。信じる者を永遠の滅びから救い出し、神と共に生き続けるいのちを準備してくださったのである。

 

神の愛に応答してたまわった資産は、永久に朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともないいのちであり、それは天に蓄えられてある故、キリストを信じる者の死は、神と共に生きる祝福の門を潜る時となるのである。

 

その資産こそ地上で生きるキリスト者の力でもあり、嵐の中の平安である。
平凡な日々の目覚めに、ささやかな食事に、賛美のために確保されている空間に、家族や友人の交わりも、すべてを守ってくださるイエス・キリストへの感謝となって、今の命をも喜びの中で健やかに守るものである。

 

 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。(5)

 

まるで、飢えた魂に神のご馳走を描いて見せて「ほら、もうすぐこれらをイエスさまの食卓で頂く日が来るよ」と言っているようである。

 

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙21:3~4)

 

迫害の中であろうと、穏やかな日常にあろうと、キリスト者はこの望みを心に描いて日々を生きている。それゆえ、時が良くても悪くても平安と喜びを味わっている。

 

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます、今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなを朽ちてゆく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(6~7)

 

誰であっても世に生きることには試練があり、悲しみがつきまとう。それはひとりで幸せに生きられるようには造られておらず、常に誰彼の苦悩をも負っているからである。そのことによって喜びや感動も味わうのだから。

 

信仰によってたまわった十字架は苦悩も負うが、みことばと祈りの中にある主の交わりは、絶えることのなく注がれる御愛によって、試練の度に「今度は、主は何を備えてくださったのだろう」と期待するのである。
私にさえイエスさまにお出会いした37年の間、試練の度に以前に勝る祝福を準備していてくださった。

 

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいなけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(8~9)

 

目で見ていないけれども霊ではいつもキリストに安息しており、生きて働くみことばによってキリストを経験して味わっており、腹に落ちたみことばによって生きているいのちは、すでに御国の予告編を見続けてその喜びに躍っているのだ。


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