石ころ

彼らの救いは苦難の後になってしまった(マルコ12章)




それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。(マルコ12:1)

イエスさまのたとえ話が、神から託されたものを好き勝手にして、神の言葉を伝える預言者を次々に迫害して殺した、自分たちのことだと気付いた宗教家たち。それでも彼らは、イエスさまの警告を聞く耳はもたなかった。

その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と言って、最後にその息子を遣わした。(マルコ12:6)


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

すると、その農夫たちはこう話し合った。「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」(マルコ12:7)


彼らは神の財産を奪うために相談の上で、計画的に御子を殺したことがわかる。
彼らの奪おうとした神の財産は礼拝者である。みことばを聴き、聖霊によってみことばを語り伝える礼拝者である。礼拝による神と人の交わりの喜びである。

主はあらゆる被造物によって、創造主なるご自身を知るための備えを地に置かれた。それらが神の作品であることを真っ直ぐに知らせるなら、喜びの礼拝者は起こされるのに・・。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:20)

しかし、彼らはそのすべてを奪って、盲人が盲人の手引きをするように、人の言い伝えを語りみことばを曲げ、真っ直ぐ語ろうとする者を迫害した。

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3:36)


彼らがイエスを殺すとき、その血の責任は子孫に及んでもよいと誓った。そこに選びの民であるイスラエルの苦難がある。
彼らは神を恐れないが、支配しているはずの人を恐れている。神を恐れない者には自由がないことに気付いていない。

神は人の創造の初めに、命令に背いて死を選ぶことさえできるほどの自由を与えられていた。その結果である死から、御子の十字架の血によるあがないによって、救い出すという計画を備えてのことである。
人の自由とは、それほどに尊い犠牲が払われた賜物なのである。

神の権威を恐れない者は、すべてのものを恐れるようになる。神を恐れる者はすべての権威の上に在る神を神としているので、主に在って脅すものは無いことを知っている。

神の権威の下にある者は、人の権威に仕えることはあっても、恐れによって支配されることはない。また、死さえもすでに賜っている永遠のいのちの故に、恐れではない。ただ、神の愛に拠る平安を得ているからである。主が受け取ろうとしておられるものは、この人々の礼拝という交わりである。

あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」(マルコ12:10~11)


しかし、彼らが神の権威を横取りして、御子を殺したことにより、彼らの罪は明らかになり、彼らの分であった救いは、全世界に及ぶようになった。
約束の民の救いは、彼ら自身の選びによって苦難の後になったのである。

しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マルコ10:31)

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