石ころ

陶器師と茶碗 (マタイ13章)




 陶器師の栄光を現すために茶碗は造られ、それはまず陶器師の必要を満たし喜ばせることに存在の意味がある。
茶碗のために陶器師が存在するわけがなく、もしそう考えるならそれは倒錯している。

創造主は人の救いのために存在しておられるのではない。人は神の栄光を賜りそれを現す器として造られた。
アダムの失敗から離れて行った者の中から、御子の十字架による血の代価を支払って、望む者を買い戻し永遠に御側に置かれるようにされた。

 良い地に落ちて(神の恵み)100倍、60倍、30倍の実が結ぶものは、イエスさまの御とりなしを通して、捧げられる絶えざる礼拝と賛美である。これは形式ではなく方法でもなく、存在から絶えず溢れ出るものである。

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:16~18)

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コメント一覧

ムベ
コメントありがとうございます
生きものなのでどんな時もありますが、
みことばはイエスさまが私に実現してくださいます。
「イエスさま」とお任せしているだけです。

「マタイ受難曲」は確か以前、デ某さんに教えていただいて、
聴かせていただきましたね。
嬉しく聴かせて頂きます。

デ某さんの細やかなお心遣いのひとこと、ありがとうございます。
リラックスして楽しませていただいています。
デ某
マタイ・・・
https://blog.goo.ne.jp/00003193
イエスの 「復活」 については
ず~っと以前に読んだ遠藤周作 「イエスの生涯」 が印象的でした。
信仰的な納得 と言うより 論理的な納得 ではありましたが・・・。

『いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです』
そうだ!と想いつつ それが難しい!と思う自分がいます。

バッハ「マタイ受難曲」は3時間を超える大曲、
その中の「神よ憐みたまえ」を聴きました。
なんとも こころに迫り こころが苦しくなる曲ではありました。
この 「涙」 に信仰の分かれ目があるのでしょうか・・・。

https://www.youtube.com/watch?v=_gxdFso1Ehc

※ なにごとかをムベさんに質しているのではありません。
  半ば自分自身に問うているようなものですので、
  どうかお気に召されませんように。
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