主がモーセに命じられたとおりにイスラエルの子らは過ぎ越しのいけにえを捧げた。
しかし、人の死体によって汚れていて、その日に過越のいけにえを献げることができなかった人たちがいた。彼らはその日、モーセとアロンの前に進み出た。
その人たちは彼に言った。「私たちは、人の死体によって汚れていますが、なぜ、イスラエルの子らの中で、定められた時に主へのささげ物を献げることを禁じられているのでしょうか。」(6~7)
彼らは死体に触れることによる汚れを知っており、ささげ物が出来ないことを知ってはいたが、強いてささげるチャンスを求めた。それは、主にささげる時を失いたくないという、神への愛から出たことである。
主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたのうち、またはあなたがたの子孫のうちで、人の死体によって身を汚している者、あるいは、遠い旅路にある者はみな、過越のいけにえを主に献げることができる。(9~10)
神への愛から出た事柄には、神は応答してくださる。昔も今もそうである。愛は律法を越えることができるのだ。
身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえを献げることをしないなら、その人は自分の民から断ち切られる。その人は定められた時に主へのささげ物を献げなかったので、自分の罪責を負う(13)
このことは神も神のことばも愛さず、交わりも求めない無関心の現れである。神が、私たちに要求されることは愛の応答である。神の愛に無関心であることこそが、唯一滅びの死へと自らを向かわせる結果となる。
貧しくて捧げるものが無いときは、備えて神の愛を経験させてくださる。弱くて捧げる勇気がないときは、豊かな主を経験させ、キリストにたまわっている恵みを、悟らせてくださる。
愚かで理解できない時は、忍耐強くみことばを解いて、神の愛を教え導いてくださる。神は愛だから、御子をたまわるほどに愛しておられる故に、愛の応答を求めて居られるのである。
幕屋が設営された日、雲が、あかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって朝まで火のようであった。(15)
主の臨在による栄光の現れは、神を愛し、みことばに従順したことに拠る、神の応答である。
いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。(16~17)
今、私たちは聖霊の臨在のうちに、世の旅路を生きる者である。日ごとにみことばに聞きつつ、従順によって迷いなく歩み続ける旅である。必ず、国籍である天に帰る望みの旅路である。
キリスト者に在る主の臨在は、人の目には見えないけれど、聖霊の臨在によって、深い所に感じさせるものがあると知っている。
それは、時には苛立ちや反発として現れたり、好意や恐れとして現れることがある。私たちは、何時でもキリストを指し示す、風見鶏の役割を果たすだけである。
主の命によりイスラエルの子らは旅立ち、主の命により宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。
雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。(18~19)
主の導きが無い時は動かなかった。旅に在っては留まることの方が難しい。それは目的がすべてではなく、主に在ることを味わう旅であり、主にすべてを委ねて信頼しているからである。
また、雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。
雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らは旅立った。昼でも夜でも、雲が上れば旅立った。(20~21)
主に在る者のフットワークは軽い。拘るものが唯一みこころだからである。此処には余計な悩みは無く、なんの計算もないので、キリストの平安があるのだ。
二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。(22)
時間や年数を数える必要はなく、日々主を見上げて生きるのである。それはシンプルであり、幼子のような心である。
それは、どれほどに民に一つの心を保たせたことであろう。皆が主だけを見ていたからである。
彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命により、主への務めを守った。(23)
従順の中には神の良きご計画がある。良い方による祝福に満ちて、必要を満たす備えがあり、すべてのことを心配していてくださる。
キリスト者には天に住まいが備えられている。世の旅路を主に聴き続けて、日々導かれ行く心を満たし続けるものは、永遠の望みである。
兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)
捧げものは私たち自身、その霊、魂、からだであり、今日の計画であり、未来の夢であり、愛する家族であり、親しい友人であり、財産であり、すべての宝物である。
それらを主の御前に差し出して陳列して置くなら、主がみこころのままに取り扱って、祝福してくださるものである。
その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。(へブル5:3)
捧げものは自分の弱さのためにとある。それは神との交わりのすべてを満たす行為として、神にではなく、祭司にとって必要な、ささげ物による愛の表現である。
罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。(へブル12:18)
キリストは十字架において「完了した」と言われた。私たちが付け足すものは何もない。キリストの愛は完成している。ただ、自分自身のために主に願って捧げる、交わりが必要なのである。
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。(ヨハネ19:30)
神にとっての最上の献ものはキリストご自身であった。キリスト者は神にたまわったキリストを喜び、愛されて経験した神への従順の捧げものを捧げるのである。