主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。人が、主がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気づかずに罪に陥り、その一つでも行ってしまった、以下のような場合には―(1~2)
うっかり犯していた罪の一つにも、主はその罪科からの脱出の道を示された。世に生きている人には、不用意に罪を犯すことは避けられない。しかし、自覚していない罪であっても、聖なる神には見過ごすことは出来ず、きよめのためのあがないが必要なのである。
わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)
心の中の姦淫さえも神には知られており、それはまごうことなき罪なのであり、その汚れは聖なる神との交わりを妨げる。
人の罪に対する感覚はそれぞれであるが、罪だと意識してなくても、人に知らなくても罪は汚れなのである。
旧約での罪のあがないのための動物のささげ物は、その度に何度も繰り返し血が流されなければならなかった。
油注がれた祭司が罪に陥って、民が責めを覚える場合には、その祭司は自分が陥った罪のために、傷のない若い雄牛を罪のきよめのささげ物として主に献げる。(3)
祭司の罪は民が責めを覚えるのだ。このことは神に仕える祭司が自覚のない罪によって、神から隔てられてしまった民が苦しむのである。
このことは今も見ることであり、祭司の無自覚はそれによって及ぼす影響が恐ろしい。祭司が罪を自覚するなら、あがないをもって主はその関係を回復させてくださるのだが・・。
そして、罪のきよめのささげ物であるその雄牛の脂肪をすべて取り除く。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓に付いている脂肪すべて、
これは交わりのいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のささげ物の祭壇の上で焼いて煙にする。(8~9)
脂肪と肉は混ぜない。聖なる油と肉性は完全に切り分けられなければならない。油は焼かれて煙として天にかえすものである。
その雄牛の皮とそのすべての肉、頭と足の部分、さらに内臓と汚物、
すなわちその雄牛の残りすべてを、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、薪の火で焼く。これは灰捨て場で焼かれる。(11~12)
あがないのための肉は隔てられた外で完全に灰にされ、それは交わりの食事には用いられない。神の民は肉性によって養われる者ではないからである。
イスラエルの会衆の罪、 族長の罪、 民衆の一人の罪。個々の罪に対して細やかに主は指示されている。
人をその罪科から解放して、新しく主に従って生きるための明確な指示がなされ、何時までも罪の支配に留まることが無いためである。罪の意識は人から自由を奪って、ますます罪に縛り付けて死にまで導くのである。
私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、
私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。(ローマ7:9~10)
十字架と復活を通して実現してくださった救いの、信仰によるキリストの律法によってのみ、人は罪から完全に解放されて、聖霊に導かれる従順の自由を得るのである。
肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。(ローマ8:3~4)
神の戒めを完成するのは、ただ一度十字架でキリストが流してくださった聖い血潮である。その事実を信じて受け入れたことで、私たちは神の完全な満足をたまわっているのである。なぜなら、この時神がご覧になるのはキリストの御わざだからである。
そのようにキリストにあがなわれた者は、うちにおられる聖霊によって、御子をたまわった父なる神への深い感謝と、御名をほめたたえる喜びをもって愛するようになるのである。
肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。(ローマ8:5~6)